第二章 夏、涙

 蝉がジワジワと鳴き始め、学生たちが長期休暇を前に胸を躍らせる時期がやってきた。普段と同じように旧校舎の裏庭でのんびりしていた織羽はふと、屋上から利駆の姿が見えることに気が付いた。ここからでも彼女と確認できるということは、柵から相当身を乗り出しているのだろうか。

 彼女が一人でいることはそう珍しいことでもない。騒いだりはしゃいだりする性質でもないので、大人しく佇んでいることも不思議ではない。だが、周囲の誰もが浮足立っているこの高校という箱の中において、今の彼女の静けさは一種異様にも感じられた。その違和感をどうにも無視できなかった織羽は、仕方なく重い腰を上げ、屋上に通じる階段を昇りに旧校舎へと入って行った。

「おい」

 果たして彼女はそこにいた。織羽が声を掛けると、一瞬ビクッと肩を揺らすも、振り向いた顔には動揺の色は一切見せなかった。

「こんにちは、織羽くん。そういえば織羽くんはこの辺りでお休みになっていたんでしたね。わたしとしたことがうっかりしていました」

「それはオレが邪魔ってことか?」

「いえっ! 決してそのようなことは」

 手を振りながら否定すると、彼女は再び柵側を向いた。

「ただ、ここなら一人になれるかなとは確かに思って来ました」

「飛び降りるために?」

「……はい?」

 織羽が疑問に思っていたことを正直に尋ねると、利駆は何を聞かれてるのかわからないかのようにきょとんとした顔を織羽に向けた。一拍経って質問の意図を理解すると、大慌てで身体ごとこちらを向いて、今度は全身で否定した。

「ななな、何を仰ってるんですか! 違いますよ! そんなことしません!」

「……フッ」

 利駆のあまりの慌てように、織羽は思わず吹き出してしまう。噛み殺せなかった笑いに織羽が少し気まずく思っていると、利駆は意外にもにこやかに微笑んでいるのだった。

「……なんだよ」

「すみません、織羽くんの笑ったところを見たのは初めてでしたので、つい」

 そう言うと、利駆は三度柵のほうへ向き直った。柵を掴んだ腕を伸ばし、風を感じるように目を瞑る。

「夏はどうにもダメなのです……」

 そうして、ぽつりぽつりと語り始めた利駆の話に、織羽は静かに耳を傾けた。両親を亡くしたのが夏だったこと。葬式が行われたのが暑い日だったのをよく覚えていること。自分は駆け落ちの末産まれた子なので、父方も母方も親戚は頼れないこと。故に、茜の家に居候させてもらっていること……。

 利駆が他人にこんなにも詳細に身の上話をしたのはこれが初めてのことだった。それは織羽が信頼に足る人物と判断したからというよりは、他のクラスメートたちとあまり交流がないため不用意に他言はしないだろうという気持ちが大きかったのも事実だ。だが同時に、これまでのやりとりで受け取った、彼の口は堅そうだという印象から来る安心感も心のどこかに存在していた。

「最初は茜くんのご両親――蝶野の家の皆さんも親切にして下さっていたんです。でも、いつの頃からか、なんだかだんだんわたしに対して余所余所しくなってきて……それでわたし、気付いてしまったんです。彼らがわたしを引き取って下さったのは、同情でもなんでもなくて、世間体のためなのだと」

 そこまで一息に言うと、彼女はすぅっと深呼吸した。決して楽しい話題ではないのに、口ぶりは大して深刻そうでもない。

「だからどうしても、この時期になると“独り”を感じてしまって。いけませんね、もう小さな子どもでもないのに」

 だが織羽は、おどけたような調子で殊更軽く言う利駆の様子から、彼女の表情が作り笑顔だということに気が付いてしまった。こんな時、彼は相手になんと言ってやれば良いのかを知らない。これまでそんな風に気を遣うべき相手に出会ってこなかったし、誰かを励ます術を教えてくれるような人物も周りにはいなかった。けれども、今かける言葉に細心の注意を払わなければならないことくらいは彼にもわかる。だから彼なりに、口にすべきことに一生懸命知恵を絞った。悩んでいる様子は一切、顔には出さないままに。

「その、墓参りとかは? 墓前に出向けば故人を感じられるって、聞いたことあるけど」

「お墓はないんです。二人とも、今もまだわたしの部屋に一緒にいてもらっています」

「えっ……と? よくわかんねぇが、普通は墓を建てるもんじゃないのか?」

「さっきも申し上げましたけれど、両親の実家とは疎遠なので、どちらの家のお墓もどこにあるのかわからなくて。けれども、近くに新しくお墓を建てるにはお金がかかるので……時間はかかりますが、お金を貯めて、二人の為にお墓を建てるのが、わたしの夢なんです」

 両手を合わせ、ささやかな夢について話す利駆。まるで初めて秘密を打ち明けるように少し嬉しそうなその表情は、先ほどまでとは違って仮面ではなく、本物の笑顔だった。その様子を見た織羽は、ある提案を思いつく。

「じゃあ、バイトすればいいんじゃないの?」

 利駆の生活について、織羽は特段詳しい訳ではなかったが、少なくともこれまでの接触からは、彼女が既にアルバイトに勤しむ学生生活を送っているようには見えなかった。

「えっ! ですがうちの学校では、確かアルバイトは何か特別な理由がなければしてはいけなかったような……」

「お前の場合十分境遇が特殊だろ」

 そうでしょうか……となお渋る利駆に、「どうせ後悔するなら、何もしないでするより、何か行動起こしてからしろ」と織羽は迫った。織羽自身にもよくわからないが、何故だかそう言ってやらなければならないように感じたのだ。

 そうして利駆がアルバイトを始めることを承諾し、蝶野の家や学校の先生に相談した後、就業先探しを始める時にも、織羽は黙ってついてきた。普段の彼ならば、率先して誰かに助力したりはしないのだが、一生懸命紙面で条件を比較したりする利駆に付き合っている内に、なんとなくこんな自分も悪くないと思うようになってきていた。最終的に利駆の選んだアルバイト先は、個人経営の小さな喫茶店で、学業にも融通の利く有り難い場所だった。

 いよいよ始まる夏休み。利駆にとって高校に入って初めての夏は、アルバイトに明け暮れることになりそうだった。

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