5
利駆や茜の、名前にまつわる話は小学生の頃にまで遡る。当時は茜のことを、利駆は“茜ちゃん”と呼んでいた。利駆には今より普通にクラスメートに友達もいて、そんな中一人の女子児童に問いかけられたのがきっかけだった。
「ごんちゃんてさ、何でそんな名前なの?」
「え?」
「何か男子みたい」
「男子と言えばさ、蝶野くんの名前! 女子みたいだよね!」
「あははは! だよね、何か可愛い」
利駆と女子児童の話を聞きつけて、他の女の子たちものってくる。名前の話題になると、まず真っ先に利駆と茜の名は挙がる。そのことを、利駆はさして気にも留めていなかったのだが、茜の方はあからさまに嫌がっていたことを、利駆は知っていた。
「……やめようよ、茜ちゃん、可愛いって言われるの好きじゃないよ?」
「何それ。ごんちゃん、蝶野くんのこと好きなの?」
「? うん。好きだよ?」
「えー、それってなんかさぁ……」
女子児童たちの物言いたげな態度を、利駆はよく理解することができなかった。翌日、利駆が茜のことを好きだと言ったことはクラス中であっという間に広まっており、利駆と茜は散々からかわれることになった。茜はすっかり不機嫌になったので、利駆は、自分が茜を好きになってはいけないのだと感じた。利駆が誰かを好きになると、その人に迷惑がかかるのだと。
折しもその頃、男子児童の間では、茜の名を女子のようだとからかうブームが発生していた。そこへ加えて、先日の利駆の「茜のことが好き」発言だ。男みたいな利駆と女みたいな茜で結婚しろ、利駆は茜のことが好きだからちょうどいい。そのように囃し立てられ、茜はついカッとなる。
「誰があんなやつと結婚するか!」
しかしそこで、場が急にシーンと静まり返る。辺りの男子たちは皆、揃って一点を見つめていた。茜もそちらへ視線を向けると、そこには一人佇む利駆の姿。茜はハッとするも、今更発言を撤回する訳にもいかず、逃げるようにその場を走り去ることしかできなかった。黙りこむ男子の輪に、一人ぼっちの利駆を置いて。
その日、茜は蝶野家の夕食の席で一言も口を利かないまま自室へ戻ってしまった。心配した彼の両親に様子を見てくるよう頼まれた利駆は気まずいまま、茜が一人こもっている部屋を訪れる。控えめなノックをした後名を呼んで話しかけると、返ってきたのは激昂だった。
「あの、茜ちゃん」
「お前聞いてなかったのかよ! あんなこと言われた後でよく話しかけられんな!」
あまりの剣幕に利駆は思わずビクリと怯え、口許に手を当てて一歩後ろへ下がる。
「ちゃん付けで呼ぶな! 余計女子みてーだろ!」
「でもおばちゃんたちは茜ちゃんて呼んでるよ?」
「お前は家族じゃねーだろ! 居候はそれらしい言葉遣いしなきゃいけねーんだぞ!」
「イソウロウって何? 茜ちゃん」
利駆には聞いたことのない言葉だった。茜も覚えたてのようで、得意そうに使ってはいるが慣れない発音はたどたどしい。
「他人の家に住んで養ってもらってるヤツって意味だ。母ちゃんが言ってた」
「? そうなんだ」
“養う”という言葉の意味するところも、利駆にはよくわからなかった。かと言って茜にきいても怒られるような気がしたし、どのみち自分が蝶野家の者ではないということを示唆することなのだと感じ取る。利駆はそのまま、引き下がることにした。
「わかった。ごめんね、おやすみ」
利駆が退散する時の顔に、茜は多少後悔するが、自分の言ったことを訂正する気にもなれず、結局その日の二人は物別れに終わった。
その後、利駆は少ない小遣いをかき集め、『正しい敬語の使い方』という本を買ってきた。利駆が蝶野家からもらっているお金で自分の物を買うのはこれが初めてのことだった。それ以降、彼女はこの本を愛読するようになり、誰に対しても敬語で話す癖がついた。
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