織羽と利駆が初めて言葉を交わしてから数週間が過ぎた。季節は梅雨が明けて初夏に入る頃。程よい気候の中、織羽は相変わらずお気に入りの場所で授業をサボり続けていた。あれから利駆とは顔を合わせていないし、そもそも教室に一歩も足を踏み入れていなかった。では何故登校するのかと聞かれれば、家にいれば同居人が煩く、かと言って街をぶらついていると補導されるからなのだが、基本的に織羽には通学して授業を受けるという考えが頭になかった。

 そうして心地よい風を感じてウトウトと微睡んでいると、先日聞いたような既視感のある声が複数聞こえてきた。利駆を詰っていた、あの集団の女生徒たちだ。

「ねー、ここじゃバレるんじゃない?」

「奥の方にしとけば平気だって」

 あの時睨みをきかせたつもりなのに懲りもせずこの場所に近づく学習しない彼女らに、織羽はイライラを募らせた。しかし関わるのも面倒なので放っておくと、バサッと何かが投げられたような音がした後、足早に彼女たちは去って行った。前回のように長居されず、これでゆっくり眠れると寝返りを打った織羽だったが、どうにも投げ入れられた物が何なのかが気になり、ガシガシと頭を掻きながら身を起こした。好奇心に勝てなかったというのも事実なのだが、何より安眠を妨害するものであったらたまったものではなかったのだ。ガサガサと草むらを掻き分けて投げ込まれた音のした方向へ足を向けると、そこには切り裂かれた布が落ちていた。何なのか判別がつかず指先で摘み上げてみると、名札のような物の「権田」という文字。

 すぐには利駆が思い浮かばなかった織羽だが、恐らく元は女子生徒の体育着であろうとうかがえる形状と、実技の際に怪我をしたことがあるのだろう、微かに漂う血の匂いに、ぼんやりとした彼女の顔を思い浮かべた。織羽は一度嗅いだ血の匂いは忘れないので、まず間違いない。

 次の授業が体育なのだろう。そして利駆は、性懲りもなくまた女子グループの嫌がらせを受けているに違いない。

 織羽は重い溜息を吐いた。厄介事に巻き込まれるのは御免こうむりたかったからだ。だが、利駆は今頃無くした服を探していることだろう。見付けてしまったこの体操服をそのままにしておくのも何となく気が引けて、彼はばら撒かれていたそれらを回収すると、久々に教室に顔を出すことにした。

 一年F組の教室に着くと、予想通り利駆は途方に暮れていた。既に探しつくした後なのか、立ったまま机に手を置き、ボーッとしている。他にクラスメートがいないので、やはり次は体育なのだろう。織羽の手元に嘗て体育着であっただろうものがあるのだから、彼女は制服のままだった。

「おいハゲ」

 織羽は利駆の名前を思い出せなかったので咄嗟にそう呼ぶ。彼女はバッと頭に手を遣った。怪我をしてから随分経っているので、とっくに髪は伸びているはずだが、やはり彼女も年頃の少女。怪我が髪に覆われて見えなくなるまで気にしていたようだった。

 笑い声こそ出しはしなかったものの、不覚にも利駆のそんな行動に織羽は面白いと感じてしまった。だがそんなことはおくびにも出さずに、手にしていた服の切れ端を利駆の方にズイと差し出す。

「探し物はコレか?」

「あ……!」

 利駆はパッと表情を明るくすると、織羽からそれを受け取った。もうとても着られるような状態ではなかったのに、見つかったこと自体が嬉しいのかホッとしたように眉を下げる。

「ありがとうございます。狭山くんはいつもわたしの無くしたものを持ってきてくれますね」

 いつもというほど高頻度ではないが、利駆の笑顔に織羽も口を挟む気をなくした。

そう、この少女は笑えるのだ。だが、先日女生徒たちから攻撃を受けている彼女を見た時には、その顔に何の色も見えなかった。その差が、織羽の気まぐれを引き起こした。普段は極力人に関わらないようにしている彼が、自ら疑問を口にする。

「あのナントカ言う派手な野郎は、アンタがこういうコトされてるって知ってんのか?」

「派手……茜くんですか?」

 利駆は体操着を抱えたまま首を傾げる。その問いに、織羽は返事をせず無言でいることで肯定した。そもそも名前を覚えていなかった。織羽の反応を受けて利駆は、フルフルと首を振って否定の意を示す。

「んじゃ、女どもにやめろって言ったことは?」

 この問いにも利駆は首を振る。前回の時もそうだ。彼女は何も言わず、されるがままになっていた。織羽はそういう態度が好きではない。なので、彼女に段々腹が立ってきた。

「なんで言わねんだよ」

「言っても仕方ないからです」

 口を頑なに閉ざすのは、聞く耳を持たない、意見を改める気のない人に対して、言葉は何の力も持たないと知ってしまったから。そう、彼女は言う。聞けば、彼女は幼い頃に両親を亡くして以来、茜の家に住まわせてもらっているという。茜は芸能界に入る以前から、その容姿の良さから女子に人気があった。そんな中、一緒に住んで親しくされている利駆に、当初から嫌がらせは絶えなかったようだ。はじめのうちは、利駆もそんな状況に抵抗していた。しかし、彼女の努力は虚しく空振りし、嫌がらせが止むことはなかったのだそうだ。

「喋ったらもっと怒られるんです。黙っていれば、その内皆さんの気が済んで終わるんです。ですからわたしは、終わりを待つことを覚えました」

「アイツの言うコトきくのやめりゃいいじゃねぇか」

「それはできません。わたしは茜くんの家の居候です。ですから、茜くんにはご恩返しをしなければなりません」

 織羽に言わせれば、利駆は恩返しと使いっ走りをはき違えているのだが、彼女は意外と強情なようで、織羽が指摘したところで彼女の意見は変わらなかった。

 意識を変えさせることを諦めた織羽は、利駆の席から離れ、教室の後ろにあるロッカーの方へ向かった。自分のロッカーに辿り着くと、蓋を開け、ガサゴソと中を探る。利駆が不思議そうにその様子を見つめる中、彼は漸く目当ての物を見つけ、振り向いてそれを利駆に投げつけた。

「アンタにゃデカいだろうが、無いよりマシだろ」

「い、いけません! それでは狭山くんが授業に出られな……」

「アホ。オレは元から出る気ねぇし。いいから黙って着とけ」

 織羽が投げたのは彼の体育着だった。一度も袖を通したことがなくこれまでロッカーに眠っていたので、新品同様に綺麗だ。織羽は必要性を感じていなかったのだが、彼の同居人が入学式の日に無理やり持たせて、そのままになっていた物だった。

 利駆は申し訳なさに服を受け取ったままオロオロしていたが、織羽はそのまま教室を出て行こうとした。彼女は慌てて声を掛ける。

「あの! ありがとうございます、お洗濯してお返しします!」

 織羽は返事をせずに、そのまま教室を後にした。

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