一年F組。久々の教室は、やはり居心地が悪かった。織羽は馴れ合いを好かない。一匹狼の気質のある彼に、集団行動を強要するこの空間は馴染まなかった。

生徒手帳の記載通りなら、権田利駆はこの教室にいるはずだ。中には入らずに、後方の入り口から利駆を探すと、先ほどまで嫌がらせを受けていたとは思えないのんびりした所作で、授業の準備をしている彼女を見つけた。

「ちょっと、狭山が来てるよ」

 一人の女子生徒が織羽の姿に目聡く気付くが、織羽は無視して利駆の席に向かった。

「おいアンタ」

 声を掛けても利駆は振り向かない。無視しているというより、自分が呼ばれているとは思いもしていない様子だ。織羽はチッと一つ舌打ちすると、めげずに次は名を呼んだ。

「権田利駆」

「はい?」

 今度は振り向いた。何とも間抜けな、間延びした返事だった。織羽は思わず脱力しかけるが、気を取り直して手帳を差し出す。

「さっき落とした」

「あぁっ! お父さんお母さん! どうしてそんなところに」

 無くしたことに気付いていなかった彼女は、織羽の持つ生徒手帳に目を丸くして驚いた。やはり大事なものだったのだろう、たいそう喜んでいる。写真は案の定両親と彼女のものだったようだ。

「ありがとうございます狭山くん、何とお礼を申し上げれば良いやら」

「いや、それはいいんだけど。それよりアンタ……」

 織羽が話を続けようとした時、唐突に教室がワアッとどよめいた。主に女子の黄色い歓声だ。クラスが注目している方向に目を向けると、先ほどまで織羽が立っていた教室の後ろの入り口から、ずいぶん目立つ派手な容姿の男子学生が入室してくるところだった。

「アカネー! おはよ!」

「ヤダー、今日来るなんて聞いてない! どうしたの? 仕事は?」

 アカネと呼ばれる彼のフルネームは、蝶野茜(ちょうのあかね)。いわゆる芸能人という人種らしい。らしいというのは、織羽がその方面に興味がなく、名前と有名だということ以外は、詳しく知らないからだった。

 ダルそうにスクールバックを肩にかけ直しながら歩いてくる彼は、利駆のすぐそばの席に着くと、椅子を引いてどっかと座った。

「利駆。今日の飯は?」

「茜くん……! 今日は登校される日だったのですね。存じていればお弁当を作りましたのに」

「何だよ、弁当ないの?」

 どうやら利駆とこの茜という少年は親しいようだ。だがその親しさが他の女生徒たちの癇に障るのだろう。織羽でもわかるくらいに女子たちの視線が厳しいし、さきほど利駆が集団に攻められていたのもこれが原因か、と織羽は妙に納得した。

「じゃあ何か買って来い」

「え……ですが」

「お前じゃないと俺の好みわかんねぇだろ」

 仲良くしているというより、織羽には利駆が茜に使いっ走りにされているように見受けられた。そもそも茜は、利駆に話しかけることで彼女の立場が悪くなるということに気付いていないのだろうか。周りの目など全く気にしていない様子だった。

「は、はい! わかりました、では僭越ながらわたしが購入して参りますね。暫しお待ち下さい」

 そう言って利駆は、織羽から受け取った手帳を胸ポケットにしまうと、鞄をゴソゴソと漁って財布を取り出し、購買部に向かうために教室を出て行った。

 その様子を何とはなしに見ていた織羽だったが、ハッと自分が話途中だったことに気が付き、慌てて彼女の後を追った。幸い彼女は足があまり速い方ではなく、廊下の先の階段の所ですぐに見付けることができた。

「おい、まだ話が途中だ」

 先ほどのように気付いてもらえないと困るので、階段を降りようとする利駆の左腕を掴んで呼び止める。彼女は一瞬ビクリとするが、財布を取り落とすといったことはなく振り向いた。

「あれ? 狭山くん。どうか致しましたか?」

 キョトンとする彼女は、織羽に声を掛けられる心当たりがないようだ。織羽と会話をするのは今日が初めてのようなものだし、そもそも織羽は教室に姿を現さないのだから、それも仕方のないことだった。

「アンタ、保健室は行った?」

「はい? 何故です?」

 本気でわからないといった顔だった。だが織羽の鼻は誤魔化せない。織羽の嗅覚が鈍っていなければ、彼女は女子グループに攻められていた際、怪我をしているはずだったのだ。

「どっか血ィ出てるだろ」

「血が? いえそんなはずは」

 ふと彼女が自身の頭に触れる。と、ヌルッとした感触と共に、鋭い痛みが頭皮を走った。どうやら女生徒の一人に身体を押されて旧校舎の壁に頭を打ち付けた時に負ったもののようだ。

「見ろ。行くぞ」

「あ……で、でも」

「あの野郎の飯よりこっちのが先だろ」

 自身の怪我より茜の昼食を優先し、渋る利駆の手を織羽は取る。半ば強引に保健室へ連れて行く彼に、彼女はなすがままだった。もともと他人の言うことに否を唱えられない性格であるということもあるのだが、織羽の手が驚くほどひんやりと冷たく呆気にとられたことの方が勝る。また、利駆では振り払えないほど、織羽の力は強かった。

 保健室に着くと、織羽はノックも断りの言葉もなしに、いきなりドアをガラリと開けた。中には机に向かっている女性の保健医がいた。

「ノックしなさいっていつも言ってるでしょ、狭山くん」

「コイツ頭怪我してっから何とかして」

 保健医の言葉は無視して、織羽は利駆をグイッと前に押しやった。織羽は授業をサボるのにしばしば保健室を悪用していたので、この養護教諭とは顔見知りだった。もっとも織羽の方は、教諭の名前を覚えてはいないのだが。

「あら、頭を怪我なんてどうしたの」

「いえ、狭山くんが大袈裟に言っているだけで、大したことでは」

「血ィ流しといて何言ってやがる。いいから診てもらえ」

 言われ、利駆はしぶしぶ椅子に腰掛ける。入れ替わりに教諭は席を立ち、利駆の髪をゴムをほどいて掻き分け始めた。

「んー、縫ったり剃ったりはしなくて済みそうだけど、消毒するのにちょっと切らなきゃいけないわね」

 そう言って治療具の置いてある棚から医療用の鋏を取り出すと、教諭はチョキチョキと利駆の髪を切っていく。怪我の周辺だけが短くなっていく利駆の髪の毛。そこから覗く怪我の様子は、血こそ流れているものの、大したことはなさそうだった。……織羽にとっては、流血しているというその一点こそが重要ではあったのだが。

 髪を整え終えると、教諭はオキシドールを染み込ませたガーゼで、頭皮に付着した血液を丁寧に拭い始めた。漸く血の匂いが薄れ始めたのを確認すると、織羽はそのまま保健室を出ようとする。

「ちょっと、送ってかないの?」

 後ろから教諭の声が飛んでくるが、織羽は返事をしなかった。そのまま旧校舎の裏に戻る気にもなれず、結局その日彼は学校を出て家に帰ることにした。

 利駆が治療を終えた頃には次の授業が始まってしまい、彼女は茜の昼食を購入することはできなかった。昼を食べそびれたまま午後の授業を受けることになった茜に勿論怒られ、利駆は謝り倒すハメになったのだが、さっさと帰宅した織羽がそんなことを知る由もないのであった。

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