最終話 夕陽が沈む
引越しの準備もほとんど終わり、家にはたくさんのダンボールが積まれていた。母親が維持してきた小世界は崩れさり、リビングはうすら寂しく温度を失くしている。
テーブルには灰皿だけが置かれている。灰皿には煙草の吸殻が乱暴に積まれており、ソファに座る母親はさらに吸殻を灰皿に押しつけた。
母親はもう一本煙草を吸おうとしたが、既に紙箱は空であった。感情に任せて舌打ちする。握った紙箱がくしゃりと潰れた。
彼女の容態が急変したと連絡を耳にした時、世界の終わる音を聞いた。兄は必死で病院に駆けつけたが、既に分娩室の扉は閉まっていた。
医師が丁寧に事情を説明するが、内容など兄の頭に入ってこない。真っ白になった脳みそのまま、兄は分娩室近くのベンチで祈った。
時計の針が何千本何万本と兄の胸に突き刺さり、明確な痛みとなって苛む。いつかの未来図は穴だらけでもはや原型を留めてない。それでも兄は彼女と笑い合った未来を手放せなかった。それが兄に残された支えだった。
彼女の屈託のない笑顔を思い浮かべながら兄は泣く。自分の選択を後悔し泣く。それでもこの選択を否定できずに泣く。
時間は嘲笑し、絶望を囁き、拷問官のようにいたぶり、兄の前をくるくると回り、そうしてようやく去っていく。
運命の扉が開かれる。
兄は憔悴し切った顔で分娩室から出てきた医師に詰め寄る。
そして医師は言った。
今日も世界のどこかで誰かが自殺をしている。
命の重みで太陽はゆっくりと地に堕ちていく。マンションの屋上は夕陽で真っ赤に染まっていた。屋上から人間が飛び降りればその真下も真っ赤に染まるだろう。しかし病院の屋上には飛び降り防止用のフェンスが張られており、簡単に飛び降りはできないようになっている。
屋上には一人の人間がいた。
フェンスにしがみつきながら恥も外聞もなく泣き喚く。その両手はフェンスに加減なしに叩きつけたことにより血に濡れていた。
そして涙も枯れ果てようかという頃、ポケットに入れていた小瓶の蓋を開ける。わざわざマンションまで戻って用意した小瓶には夕焼けと対照的なまでの青が入っていた。
その青をじっと見つめていると、派手な音を立てて屋上に続く鉄製のドアが開いた。真っ赤とほんの少しの青で構成された世界が破られる。
「兄さん!」
妹は叫ぶ。
破られた均衡に兄は僅かに硬直した。妹は兄の持っている物が何か察し、全力で兄にすがる。兄もまた妹を振り払おうとするが、それがいけなかった。兄の手から小瓶が零れる。夕景に青の液体が飛び散り、天国行きの片道切符は失われた。
兄は慟哭した。自分を邪魔した
兄は獣のように叫びながらフェンスを登り始める。夕陽の赤。血液の赤。妹の伸ばした腕も痛切な叫びも何もかもが赤に呑まれる。日没最後の輝きが世界の全てを支配する。
そして夕陽は完全に沈む。ビルで歪められた地平線に赤がへばりつく。荒い息を吐く妹の瞳に最後の赤が映った。
「死なないでください。」
手の肉が食いこむほどフェンスを強く握っていた兄の手が力を失くしていく。
妹は間に合わなかった。
兄の
妹は兄の背にしがみついて泣く。
「お願いだから死なないでください。愛してます。お義姉さんもいなくなって、あなたがこんなにも悲しんでいるのに卑怯だって、薄情だってわかってます。でもそれでいいです。あなたがどんなに怒って憎んで怨んでもいいです。そうやってあなたが生きているならそれだけで充分です。愛してます。だからどうか死なないでください。」
兄はどうしようもなく吐息を震わせた。何度も振り向こうとして失敗して、それでもようやく妹の顔を見る。つうと兄の目から枯れたはずの涙が流れた。
「死ねなかった。証明じゃない。ただ、死ぬのが怖くて。それだけだ。それだけなんだ……」
「それでもいいです。好きです。死なないでください。」
妹は最愛の名を呼ぶ。宵闇がゆっくりと空を覆い、世界を静かに染めあげていった。
そして僕らも自殺する。 ささやか @sasayaka
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