第4話 あの夏の日
2か月前、夏の終わり―、
待ち合わせ場所に指定したカフェまでの道を歩きながら、清子はかけていたサングラスを外した。朝、雲の隙間から覗いていた太陽は、既に鳩の羽のような重い灰色の雲に隠れていた。空気の湿っぽさが唯一夏の名残を感じさせるが、夏が苦手な清子も、こう曇天が続くと気が滅入る。いや、ただ単にこれから起こる事に気が重いだけかもしれない。
カフェに着くと、右太郎はまだいなかった。平日の午後2時。ランチタイムと休憩の狭間という事もあり店内は空いている。コーヒーを頼むと、バッグの中から鍵を出しテーブルの上に置く。―そういえばこのカフェはあいつと別れ話をした時にも使った場所だ、と思いだした。表参道の良い場所にありながらあまり混雑せず、うるさい客もいないカフェ。隣の会話が気になるほどテーブルの間隔も近くない。その条件が、不覚にも別れの場所を2度も同じ場所にさせてしまったようだ。自分のしっかりした性格が裏目に出ていやになる、と清子は運ばれてきたカップの中のコーヒーを見ながら苦笑いした。
ふと懐かしい甘い香りがして顔を上げると、テーブルの向かいには右太郎が静かに座っていた。右太郎は出勤前なのだろう。スーツ姿に、なぜか似合わないサングラスをしていた。それを外すと清子を見てほほえんだ。それは愛おしさと悲しみと苦しみが混ざったような複雑なほほえみで、清子の心をせつなくさせた。
付き合って3年。いまふたりは別々の道を歩もうとしている。
右太郎が頼んだコーヒーが運ばれてきて、清子が口を開いた。
「これ、あなたの部屋の鍵。渡すのが遅くなってごめんなさい。私の部屋の鍵、もってきてくれた?」
「サヤちゃん・・・僕は…」
右太郎は声を発してみたものの、なにを言うべきなのかがわからないのだろう、言葉を飲み込んでいるようだ。
湾岸テレビの看板アナウンサーである彼、張本右太郎は33歳。清子の4つ下だ。これから男としても、仕事でも、円熟期を迎えるだろう。
―それを支える女は私じゃない。優しい目も、透き通るような白い肌も、職業にするほど美しい声も、なによりその甘い優しさも、もう私のものではない。
「サヤちゃん、僕は・・・まだ僕は・・・ごめん」
忙しさ、すれ違い、思いやりの欠如、いくつ理由を並べたところで、離れてしまった心の距離が再び縮まるのは、おそらくとても難しいことだ。結婚すれば良かったのかもしれないと別れを切りだす前清子は何度も考えた。お互いを契約でしばりつけていればと。
だがしなくて良かったと思う。契約は結んでも結ばなくても愛情の本質に差異はない、それが一度結婚という制度に失敗したことがある清子が辿りついたひとつの答えだ。
だって私たちは事実愛し合ったのだから。
「ウタ、さんざん時間をかけて話し合ったよね。もう謝らないでって言ったの、憶えてる?」
右太郎の目が涙で潤む。彼にしてみれば自分が清子を裏切ったという事実-それはプラトニックなものだと言ってはいたけれど他の女性に心を奪われたこと-に、謝罪と後悔をせずにいられないのだろう。
「憶えてるよ」
右太郎は清子から視線を外すと窓の外に目をやった。清子も同じ方向を見た。寄り添うカップルたちが通り過ぎてゆく。いつかのふたりの様な。
しばらくして右太郎はサングラスをかけ、テーブルの上の鍵を鞄に入れ、代わりの鍵を出してテーブルの上に置いた。清子の部屋の鍵だ。清子はその鍵を手に取りバッグに入れ席を立った。
―タイムリミット、これ以上かっこいい女ではいられない。
清子は右太郎の横を通りすぎ出口へと向かった。かすかに甘い香りがした。もうこの香りに包まれることはないのだ。
「サヤちゃん、まだ僕は・・・」
背中にその言葉がぶつかったが、清子は二度と振り向かず、店の扉を開けた。
―ああ。買い物でもしようか。何も考えず、感じず。
細い道を抜け大通りに出た。平日の午後の表参道はまだそれほどの人出ではない。乾いた風が清子の頬をかすめた。季節は一瞬で秋になってしまったのか?
今、泣きたくはない、だから買い物をしよう。楽しい事を考えよう。これからクリニックの移転もあるし忙しくなる。オファーを断り続けているテレビ出演を再開してもいい。心機一転するのだ。さあ何を買おう?バッグ、靴、ジュエリーもいいかもしれない、自分のためにキレイな石を見て-、清子はハイヒールを鳴らし颯爽と歩く。
その時、横道から猛スピードで出てきたなにかと接触した。
ハイヒールのバランスを崩しよろめき、その場に倒れてしまった清子の耳に、ギギーッという、自転車の鈍いブレーキ音が聞こえた。
「すみません!」
薄く目を開ける。自転車に乗った男がかすかに見える。
「ああ、どうしよう、病院に」
男は自転車から降りそれを脇に止めると、歩道の真ん中で尻もちをついた格好の清子に走り寄った。中腰で半ば抱きかかえるように清子の上半身を支える。突然のことで意識がもうろうとする中、清子はかなりの至近距離で男の顔を見た。男の鼻筋に手術跡の様な傷がある。
「ああ、血がでてる・・・どうしよう」
男の声。優しい声だ。アナウンサーの右太郎と付き合ったせいで声がもっぱら気になるようになってしまった。目の前ほんの5センチの所にある、男の柔らかそうな髪が風にゆらめくたび、ほろ苦いオレンジのような香りがした。長くも短くもない黒髪はくせ毛なのかパーマなのか、少しカールしていて前髪は無造作に分けられている。最初に目についた鼻筋の傷跡は清子が専門としている整形のソレではなくなにか怪我をしたような―…、青と紫の中間色がうっすらついたサングラスをしているから瞳ははっきりと見えないが優しい印象だ。その目線をたどると、自分の右膝から血がにじんでいるのが見えて、清子の意識は突然はっきりした。見たところほんのかすり傷だ。このくらいの傷、あとにも残らないだろう。
「まいったな、本当にごめんなさい。病院にいきましょう。この辺だと・・・」
「あ、大丈夫だから。」プロだ。傷の程度はわかる。
「いや。頭とか腰とか打ってるかもしれないし、相当痛みますよね?」
男は心配そうな顔で清子を抱えたまま動こうとしない。
「痛くも、ないけど」心が痛いような気はするが。
「だけど、…ここ。涙」
指を頬にあてると濡れていた。知らないうちに泣いていたのか、私は。途端に恥ずかしくなった。一刻も早く家に帰りたい。清子は男の腕につかまり、立ち上がった。
「これは違うの。膝もかすり傷で、跡にも残らないと思います。だからご心配なく。でも自転車、気を付けて乗りなさいよね?当たり所がわるかったらどうするの?じゃあ私タクシー拾うから」
清子は男の腕を離し歩き出した。男は心配そうに付き添い、やはり病院に行くだけでも、と言ってくる。
「じゃああなたの名刺を貰える?なにかあれば治療代を請求しますから」
男は困ったような顔をした。そのとき、清子は向かい合って初めて男の顔を正面から見た。見覚えのあるような、ないような、何とも言えない不思議な感じがした。昔の知り合いだろうか?
「えっと。まいったな…、僕名刺もってないんです」
「えー…」―フリーター?無職?私と同じくらいの年に見えるけど。
ちょっと待って、と言いながら男は斜め掛けのメッセンジャーバックからノートを取り出す。そして適当にページをめくると、端になにやら書いて破り、清子に差し出した。
「これ連絡先です」
清子は受け取り、無造作にバッグに入れた。そして車道脇まで行くと手を上げタクシーを止めた。タクシーに乗りこむ。男が窓を中指でノックしてきた。タクシーの窓を少し開けろということか。10センチほど空けた隙間から男の目が覗く。サングラスは外していた。
「あの、ほんと、電話ください」
一重のようにみえて奥二重。特別大きくはないが瞳が大きく濃く、印象的な眼差しだ。清子はやはり彼に会ったことがあるような気がした。
会ったことありますよね、と言いかけたが、下手なナンパの文句のようで差し控えた。
タクシーに行先を告げる。車が動き出しふとバックミラーに目をやると、自転車に乗った男の姿が見えた。青い自転車に乗った後姿がタクシーとぐんぐん距離を拡げてゆく。
Untitled,2017 @tamtam_puding
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