第3話 クリスタルベリ・クリニック
初めて本気で好きになった男は孤独な男だった。
壁のカレンダーを見ながら、清子は右太郎と別れて2ヶ月が過ぎた、と思った。あっという間だ。今日で10月が終わる。
清子がクリスタルベリ・クリニックを豊洲からここ、麻布に移転してほぼ2カ月が過ぎた。右太郎と別れるのと病院が移転する時期が重なり慌ただしかったが、環境が変わると気分も一新できるだろうという目論見もあった。しかし、外れた。右太郎との別れは思い出すたび心を締め付けるし、環境の変化は35歳を過ぎるとただただ体にこたえた。清子は自分の37歳という年齢をいやになるほど実感した。
それでも巷の同年代に比べ清子が群を抜いて若く美しいことは事実だ。20代のころは美貌を買われテレビに出演し、タレント女医ともてはやされた事もある。基本的な手入れやメンテナンスは怠らない。だが時間が進むのは明白な事実であり、それは日を追うごとに実感に変わっていく。
清子は女子医大を卒業し医師免許を取った後、当時では先進的な施術をすると評判の美容形成外科に8年余勤務した。そこではありとあらゆる最先端の美容医療を現場で学んだ。その後クリスタルベリクリニックのオーナーと知り合い、長らく雇われ院長をしていた。先ごろこのオーナーがアメリカに移住を決め、すべての経営権を清子に譲渡してくれたのだ。素晴らしい話ではあったが、経営責任がいかに重いものか、実務を引き継ぐ中で清子は思い知った。経営は順調なものの、医療はどの分野であっても設備投資をし続けなくてはならない。特に美容という分野での技術発展のスピードは、他に比べても速く、清子はまずクリニックの規模をコンパクトに再編し、外部提携の医者を増やした。
新・クリスタルベリクリニックは一般皮膚科、美容皮膚科、美容形成外科、その他メディカルエステを併設している。清子は美容皮膚科を担当し、常勤の医師は他に1名、美容形成皮膚科が行ういわゆる“整形手術”は、まずカウンセリングを清子と常勤の医師に振り分け、施術内容により顧問、提携という形で契約した外部の3名の医師と連携していく。整形手術はそれを施す医者の腕とセンスが何より重要で、目の手術が得意な医者もいればリフトが大好きという医者もいる。清子は人脈を駆使し、最高の医者たちと契約を結んだ。
9月にオープンしてから経営は順調だ。思いのほかメディカルエステの需要が高い。脱毛やピーリングもしっかりと医療機関が併設されているところで行いたいという消費者意識の表れだろうか。今日も朝から患者が絶えなかった。
「サヤコ先生、お昼どうします?」
看護師が声をかける。クリニックの昼休みは13時から、と遅い。
「食欲ないから私いいや。コーヒーにしとく」
「私いれますよ。今日も一般皮膚科かなり混みましたね。この季節になるとヒルドイドを要求する患者が増えて・・・」アトピー性の皮膚炎などに効く乾燥肌用の塗り薬だが、ある女性モデルが美容に良いとインスタグラムでつぶやいて以降、乾燥していないのに自己申請でこの薬の処方を要求してくる患者が増えた。医療系のキュレーションサイトの不正で、あれほどネットの情報をやみくもに信じないようにと謳われたのに、いちタレントのコメントを鵜呑みにする人々。本当に必要な患者へ薬が渡らなくなる可能性もあるし、保険適用がこのような形でされ続けるといずれ医療費負担の割合がまた上がり、自らに返っててくる気もするのだが。ちなみに清子は、あきらかに嘘をついている患者には処方しない。ワセリンでも塗ればいいのにと思う。コーヒーを一口飲んだ。
「あと湾岸テレビのこの方からお電話があって、折り返し電話が欲しいそうです」
メモには清子がタレント女医をしていたころ知り合ったプロデューサーの名前があった。コーヒーを置き電話を掛ける。清子が朝の情報バラエティーにコメンテーターとして出ていた頃の知り合いだから4,5年ぶりだろうか。電話口の向こうの彼は、いまドラマ班に異動してるんだといった。
用件は、明日撮影がある医療ドラマの医療監修を頼めないか、という急な依頼だった。頼んでいた医者が無免許だったことが発覚し、代わりの医者を急きょ探しているのだそうだ。
明日は休診日だ。
「明日、いいわよ。ほんとは休みたいんだけどさ、ラッキーだったわね。」
プロデューサーは恩に着る!と言い、明日の撮影スタジオの場所と時間を伝え電話を切った。
―恩に着るのは私の方かもしれない。
何の予定もなくてひとりでいると、あの日、右太郎がつぶやいた言葉を何度も思い出してしまう。2か月前の夏の終わりのことを何度も―。
コーヒーを一口飲んだ。もう、冷めていた。
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