第65話 あなたがわたしのマスターか

「まあ、こんなもんでいいか……」


 ほこりで白っぽくなった床に描いた魔法陣はちょっぴり……いや、かなり歪んでいた。

 まるで幼稚園児がクレヨンで描いたカービィである。

 でも、ここは言い訳させてほしい。床板は古くなってガタガタしており、コンパスを使えるわけでもなく、それに魔法陣を描くのに使ったのは学校の授業で使うようなチョークだ。これで綺麗な魔法陣を描けるなら、その人は芸術家にでもなった方がいい。そして、私はもちろん芸術家ではなかった。

 魔術師。

 私こと『ミカ・カタリナ・ノイマン』はドイツの魔術協会で魔術を学び、最近日本の魔術協会へ帰ってきた……世間一般で言うところの魔法使いである。


 ぶっちゃけた話、第二次世界大戦でボロ負けしてから日本の魔術協会もドイツの魔術協会も衰退の一歩を辿っており、そもそも世界中の魔術協会が次々と潰れている始末で、私自身もテストをお情けでパスさせてもらったレベルの劣等生なのだが……それでも魔術師にしかできないことはある。

 その一つが今まさに行おうとしている『ファントムの召喚』だ。

 召喚の魔法陣にありったけの魔力(エーテル)を注入して、偉人の幻霊(ファントム)を呼び出すのである。偉人に縁のある触媒があると成功率が高まる。

 細かいことを言うと『現代に伝えられた偉人のイメージ』を具現化する魔術なので、偉人そのものを呼び出しているわけではないのだけど、説明が長くなるし、なにより召喚っていう響きが格好いい。魔術においてかっこよさは大事、というのが魔術協会の見解だ。


 私は魔法陣の中心に立ち、日本の魔術協会から貸し出された触媒を高く掲げる。触媒は小さなトランクの中へ厳重に保存されており、組織の下っ端魔術師である私には中身を確認する権限すら与えられていない。まあ、触媒がなんなのか分からなくても召喚はできるから全然問題ないんだけど。


「ミカ・カタリナ・ノイマンの名において命ずる。惑星(ほし)の歴史に名を刻みし者よ……我が呼びかけに応えたまえ。我は魔道を行くもの。根源を目指すもの。汝の伝説を具現化する現世のくさび。真に望むものあらば、今こそ現界せよ!」


 呪文を唱えた瞬間、チョークで描いた魔法陣が青白い光を放った。

 魔法陣を描くのに使ったチョークは近所のホームセンターで買ってきたものだが、線を引くにあたって私の魔力をたっぷりと込めてある。一日に使える魔力の大半を使い果たし、くたくたに疲れてしまったけど、現代の魔術は割と安上がりなので財布は助かった。

 ぼんっ! と特撮ドラマの爆発シーンみたいに白煙が噴き上がる。

 咳き込みながら手でぱたぱたと白煙を振り払うと、ほこりまみれ&ゴミだらけの床に座り込んでいるファントムの姿が露わになった。


 ふわっふわの金髪に真っ赤なワンピース。

 西洋人らしい透き通るような白い肌にお人形さんの如き可憐な顔立ち。

 肉体年齢はおそらく10歳前後か、現代に伝わっている『歴史上の偉人のイメージ』としてはあまりに若すぎる。若すぎるというか幼すぎる。これ、ちゃんと召喚成功してる? なんか不安になってきたんだけど?


「と、問おう……あなたがわたしのマスターか……な、なーんて言ってみたりして……」


 西洋人の少女が子供らしからぬ引きつった笑みを浮かべる。

 彼女の「え、えへ……えへへ……」というぎこちない笑い声が、少女九龍城の終わりなく続いている廊下の奥へと吸い込まれていった。


 ×


 ノイマン家はドイツの魔術協会における外交官みたいな立場にある。基本的に日本で暮らしており、日本とドイツにある魔術協会の橋渡しを行っている。私もいずれは両親の仕事を継がなくてはいけないので、日本の魔術協会で一通りの魔術を学んだのち、ドイツの魔術協会へ留学することになった。

 ドイツの魔術協会はウルヴェンワルドという森の中にあり、これが都会からクソほど離れていて死ぬほど退屈な場所だった。wifiも通っていないしネカフェもない。かび臭い廃墟の如きウルヴェンワルドの魔術協会から逃げ出したい一心で、留学期間が終わるや否や日本魔術協会の仕事に飛びついたくらいだ。


 で、帰国した私は実家に立ち寄ったあと、すぐさま少女九龍城へ引っ越した。

 目的はただ一つ、少女九龍城にある『聖杯のかけら』を手に入れることである。


 例のおっさんの血を受け止めた聖杯にはあらゆる願いを叶える力があるという……が、今は七つのかけらに別れて世界中の不思議スポットに散らばっていた。その中の一つが少女九龍城にあるらしく、それを回収して魔術協会に持ち帰るのが私の初仕事である。

 もちろん、私のような下っ端に聖杯で願いを叶えるチャンスは与えられないが、聖杯のかけらを回収できた暁にはそれなりにボーナスをはずんでくれるらしい。魔術で儲けるなんて今時不可能に近いので臨時収入は喉から手が出るほどほしい。

 聖杯のかけら回収なんて大切な仕事、私みたいなぺーぺーに任せて大丈夫なのか……とは私自身も疑問に思っていた。しかし、少女九龍城は少女以外の侵入を拒むある種の魔術結界である。私は魔術の腕前こそへっぽこなものの、正真正銘ぴっちぴちの17歳だ。少女九龍城で聖杯のかけらを探すにあたって私以上の適任はいない。


「お、おろろろ……」


 少女九龍城にやってきた初日、空気中のエーテルの濃さにあてられて、私は寮内を案内されている最中にリバースしそうになった。

 エーテルとは平たく言うと魔力であり、文明から離れた場所……たとえば手つかずの自然が残る場所には大量に存在する。ドイツの魔術協会が狼の森(ウルヴェンワルド)と呼ばれる樹海の真っ只中にあるのも、自然のエーテルを理由できるからだった。観光客が巨大な屋久杉に感動している頃、魔術師はエーテル酔いに人知れず苦しんでいるのだ。

 しかし、これは悪いことばかりではない。空気中のエーテルが濃いということは、ファントムの召喚や召還後の維持もやりやすいということでもある。


 ファントムは召喚主(マスター)である私(から発せられるエーテル)を現界のエネルギー源にしているが、魔術的ではない環境にいるほどファントムの燃費は悪くなる。酸素の薄い場所であっという間に息が上がるように、エーテルの少ない場所だとファントムは姿形をとどめておくことすらできないのだ。

 これは魔術全般にも言えることである。超能力者がカメラと観覧客に囲まれたスタジオで力を発揮できないように、渋谷の交差点で魔術を使おうとしてもまるで成功しない。現代では魔術を使える場所は減る一方であり、それも魔術が衰退しっぱなしである理由の一つだ。

 そんな夢もへったくれもない現代において、聖杯にはちゃんと願いを叶えるだけの奇跡が詰まっている。私が回収するのはかけらの一つでしかないけれど、そこにロマンを感じずにはいられない。もしかしたら奇跡の片鱗を体験できるかもしれない。


 私はオカルト好きの中二病少女を装って、少女九龍城に『魔術工房』を作り上げると、私の身を守ってくれるファントムの召喚を早速行った。魔術界隈が右肩下がりの御時世でも、聖杯のかけらを奪い合うライバルがいつ現れるとも分からない。

 そうして呼び出せたのが金髪の洋ロリだったわけだけど……。

 この子、誰?


 ×


「え、えーと……あなたの置かれた状況は分かってる?」


 私は顔をしかめながら、床にぺたんこ座りをしている少女に問いかける。

 少女は年相応と言いがたい、この世の行く末を憂うような乾いた笑い声を漏らした。


「あ、あはは……聖杯のかけらを集める手伝いをすればいいんですよね? わたしも現世でやってみたいことがあった……ような気がするので、それ相応には頑張るつもりではいるんですけど……あ、あれ? もしかして聖杯絡みの話じゃない?」


 勝手に不安がってチワワみたいにぷるぷる震え出す少女。

 歯切れの悪すぎる物言いにやたらと臆病な態度。

 思わずため息をつきそうになりながら、私は腰を下ろして彼女の背中をさすった。


「合ってる合ってる。合ってるから、落ち着いてクラスと真名を教えてくれる?」


 正直なところ目の前の少女がどこの誰なのか、職業(クラス)が何なのかすらも、私は皆目見当がついていなかった。

 歴史上の偉人って、もっとパッと見て分かるもんじゃないの?


「クラスは魔術師(キャスター)なんですけど……いや、あはは……」


 少女がモジモジとしながら、なんとも申し訳なさそうな上目遣いをした。


「実のところ、自分の名前をよく覚えていなくて……」

「そっ――」


 そんなことある!?

 いたいけな少女相手に怒鳴りそうになり、私は大きく息を吸い込んで我慢した。

 ファントムのちゃんとした名前……つまり真名が分からない場合、ファントムは『偉人の幻霊』から『名も無きそっくりさん』に成り下がってしまい、自分自身の能力を十分に引き出すことができなくなってしまう。せめてムキムキの成人男性ならボディガードくらいには使えたかもしれないけれど、この子はどう見ても生身で戦えるタイプではない。


「なんか、その……わたしは生前、ちゃんとした発音で名前を呼ばれていなくて……おかげで今も自分の名前が曖昧というか……その影響でスペリングも忘れてしまったというか……ふふふ。こんなわたし、役立たずですよね……」


 否定したいけど否定できず、私は言葉を詰まらせてしまう。

 これはマスターである私の実力不足が原因なのだろうか?

 あるいは魔術協会から貸し与えられた触媒に問題があったとか?


「あなたのことはひとまずキャスターと呼ぶことにするけど……たとえば好きなこととか、得意なこととかは覚えてたりしない?」


 気を取り直して質問を変えてみる。


「い、犬は好きだったと思うんですけど……」


 キャスターは天井を見上げてしばらく考えたあと、いきなり廊下の片隅にうち捨てられているゴミの中から、ローティーン向きの古びたファッション誌を手に取った。すきま風と湿気に晒されて、ファッション誌は路傍にうち捨てられたエロ本みたいになっている。


「これ! こういうの、ゴミ捨て場で拾ってました!」

「へ、へえ……それはいい趣味してるね……」

「今の時代の女の子も……へへへ、可愛いなぁ……あとで切り取ってあげるねぇ……」


 キャスターは目をギラギラさせながらファッション誌を舐めるように読んでいる。

 正直ドン引きしている自分がいるものの、実のところノーヒントというわけではなかった。ゴミ捨て場から雑誌を拾っていたということは、印刷技術の発達した近代……というか現代に近しい時代の人間だったに違いない。それだけでも真名の候補はかなり限られたはずだ。

 そんなことを私が考えていると、いつの間にかキャスターが私をじぃっと見つめていた。


「……な、なにか?」

「あ、いやっ……こんな可愛い子が近くにいることなんてめったになかったから珍しくて……えへへ……。黒のライダースジャケットとタイトなデニム、めっちゃ似合ってます……。黒髪はビロードみたいにツヤツヤしてるし、顔立ちは西洋風と東洋風のいいとこ取りって雰囲気だし……幼い頃もさぞ可愛かったんでしょうねぇ……」


 キャスターの変態おじさんじみた物言いに言葉も出ない。

 ちなみに彼女の指摘したとおり、私はドイツ人の父と日本人の母との間に生まれた。ミカという名前も日本とドイツの両方で通じる語感を選んでくれたという話だ。それに小学生の頃は同じクラスのクソガキに外人だなんだと言われたけど、今ではすっかり唯一無二の自分の容姿を気に入っている。まあ、彼女みたいなほめかたはちょっと受け入れがたいが……。

 キャスターがそわそわした様子で辺りを見回した。


「それで、ですね……どこか落ち着ける場所とかないですか? ここって大きな女子寮なんでしょう? 女の子は遠くから眺めてるくらいでちょうどいいんで、なるべく人通りの少ない場所に居を構えられたら……なんて思いまして……」


 女性慣れしていないけど、年若い女の子が好き。

 コミュニケーションが下手で引きこもり気質。

 強さの欠片も感じられなくて頭が痛くなってきた。


「とりあえず、私の魔術工房があるからそっちに移動しようか。この魔法陣の力を安定させるために東西南北へひとつずつ用意しておいたから、人通りとかが気に入らなかったら別の工房へ移動したらいいしね」

「それってその……マスターさんと同居ってことですか?」

「同居っていうか、ファントムだから私のことを守ってくれないと……」

「き、緊張するなぁ……女の子と二人暮らしなんて……やだなぁ……」


 そんなことを言いつつ、キャスターは満更でもなさそうな顔をしている。

 私はモヤッとしながら彼女の手を握って立ち上がった。


「はわっ!?」


 唐突に間の抜けた声を上げるキャスター。

 私にちょっと手を握られただけで、彼女の顔は真っ赤になってしまっていた。全身はかちんこちんにこわばってしまっている。コンピューターが熱暴走を起こしたような有様で、握った手はホッカイロをつかんでいるかのようにアツアツになっていた。

 こんなに女の子慣れしていない女の子って一体……。


「――見つけたわ、ミカ・カタリナ・ノイマン!!」


 突如として、廊下の奥から威勢の良い少女の声が聞こえてくる。

 すると日の差し込まない暗がりの中から、ちんまりとしたシルエットが左右に大きく揺れ動きながら出てきた。


「お、おろろろろ……なんなのよ、ここは……」


 少女がふらついて壁に寄りかかる。全身を地下アイドルのような学生服風コーデでまとめ、真っピンクのツーサイドアップにしている彼女は、完全にエーテル酔いになっているらしい。声の威勢の良さとは裏腹に青白い顔で大汗をかいていた。

 私だって魔術工房を作りながら、半月かけて体を慣らした。言うなれば高山トレーニングをしたマラソン選手みたいなもので、この少女九龍城に限っては他のどの魔術師よりも元気に活動できる自信がある。


「お、お知り合いなんです?」


 キャスターが不安げに私の手を握り返してくる。

 私は不本意ながら首を縦に振った。


「久しぶり、スターライト。会いたくなかった」

「下の名前で呼ぶなバカ!」


 菖蒲川星光(あやめがわ すたーらいと)は日本有数の魔術家系『菖蒲川家』の長女だ。

 菖蒲川家は日本の魔術協会に所属していない……というか所属する必要のない独自勢力で、魔術協会とは敵になったり味方になったりを繰り返している。スターライトをわざわざ送り込んできたのは聖杯のかけらを狙っているのだろう。ただし、流石は才能あふれるエリート魔術師だけあって、私よりもエーテルに体が反応しすぎてしまうらしい。


「ここで会ったが百年目。ドイツに勝ち逃げした件、忘れたとは言わせないわ!」

「そんな因縁もあったっけか……」


 今からさかのぼること2年前、日本の魔術協会で魔術の訓練を受けていた私は、魔術協会の見学(実際のところは若手魔術師の実力把握)にやってきたスターライトと手合わせすることになった。

 こちとらそれなりに歴史がある家系に何故か生まれた落ちこぼれ、片や相手は一流家系のサラブレッドということで、端から勝ち負けは決まっていたようなものだった。しかし、魔術協会を見下すスターライトの態度が気に入らなかった私は、象の便秘を治すのに使われる下剤を彼女の飲み物に大量に盛った。手合わせの結果はお察しである。


「あれ以来、私は会う人会う人から心配されてるのよ! 菖蒲川さん、お腹の調子はどうですか――って具合にね! 私の顔に……いえ、菖蒲川家の家紋に泥を塗ったあなたのことは未来永劫許しておけない。泣いて謝りながらおしっこ漏らすまで徹底的に追い詰めてやるわ! セイバー、来なさい!」

「うぐっ……セ、セイバー……」


 スターライトもやはりファントムを召喚しているらしい。しかも、ちゃんと正面戦闘に向いている剣士(セイバー)を呼んでいるあたり、私のような三流魔術師とは大違いである。魔術結界やトラップを作って待ち伏せするのが得意なキャスターの場合、敵に目の前まで近づかれた時点でアウトな場合あるし……。


 スターライトを背中で守るようにして、セイバーのファントムが実体化する。

 その姿を目の当たりにした瞬間、歴史に詳しくない私でも流石にビビった。

 なぜならセイバーが浅黄色のだんだら羽織を着ていたからである。


「新藤ひばり、呼ばれて参った」

「ちょ、ちょっと! なんでいきなり名前をバラしちゃってるのよ!」

「これから斬り合うなら名乗るのが当然だろう」


 マスターのスターライト相手にひょうひょうとした態度を取るセイバー。

 彼女の首に巻いているマフラーがすきま風で軽くなびいた。


 新藤ひばり……だんだら羽織を着ているからにはあの組織の一員だと思うが、聞いたことのない名前である。とはいえファントムとして召喚できるからには、現代まで逸話の残っている有名隊士なのは間違いない。幕末期は偽名を使っていた人間も多かったらしいし、新藤ひばりという名前もその一つなのだろう。


 セイバーこと新藤ひばりが廊下の片隅に落ちていた新聞紙を拾い上げる。

 それから何を思ったのか、新聞紙をくるくると丸めて筒状にした。


「あ、あなたねぇ……腰の刀は飾りなの!?」

「少女九龍城の後輩をたたき切るのは忍びないからな」


 新藤ひばりは左腰に二本差しをしているが使うつもりはないらしい。

 彼女はゴミの中から空き缶を拾うと、それを空中にぽいっと投げて、新聞紙を丸めたチャンバラソードで突いてみせた。すると空き缶が吹っ飛ぶことも、丸めた新聞紙が折れることもなく、それはただ真っ直ぐに空き缶を貫通した。


「ひぇっ……」


 さっきから縮こまりっぱなしのキャスターが短い悲鳴を漏らす。

 私も心臓がキュッとして体温が下がった。

 幕末の剣客の腕前、ヤバすぎる。


「キャスター、逃げるよっ!」

「は、はいぃっ!」


 私はとにもかくにもキャスターの小さな手を引いて逃げ出す。

 スターライトがふらふらしながら声を張り上げた。


「追跡しなさい、セイバー! 私はあとから追いつき……お、おっ、おえーっ!」

「あい、分かった」


 背後から新藤ひばりが猛スピードで追いかけてくる。

 腰に刀を差しているとは思えない軽やかな足取りで、あっという間に私とキャスターのすぐ後ろまで迫ってきた。

 突き飛ばすようにキャスターを廊下の曲がり角へ逃がすと、私は振り返って身構える。


 新藤ひばりが左足を前にして、丸めた新聞紙を右斜め下に構えた……かと思うと、まるで両利きのボクサーが左右をスイッチするかのように、いきなり右足を前に踏み出しながら丸めた新聞紙を左手一本で構え直した。

 心臓を穿つような鋭い突きが放たれる。

 私はとっさに触媒の入ったトランクで丸めた新聞紙の軌道を逸らした。

 トランクの表面が削れて火花が散る。

 魔力で強度を高めたジュラルミンケースを削る新聞紙ってなに!?

 変則的な左片手突きを防がれるとはつゆほども思っていなかったようで、新藤ひばりは一瞬きょとんとした顔になった。


 私はその一瞬の隙を突き、残り少ないエーテルを目くらましとして右手から噴射する。

 魔術とすら呼べないとっさの力業だったが、魔術に抵抗力の少ない近代のファントムが相手なら効果は十分だ。

 新藤ひばりがひるんでいる間に私はキャスターと姿を隠す。忍者屋敷のような隠し戸をいくつか経由しているうち、私たちはなんとか新藤ひばりの追跡を撒くことに成功した。スターライトは私の魔力を追跡してくるだろうから、再び見つかるのは時間の問題だが……。


「さ、さっきの突き、よく避けましたねぇ……」

「新藤ひばりの真名に心当たりがあったからね」


 だんだら羽織を着ている人間で有名人となると候補はかなり絞られる。

 その中で名前をたびたび変えており、藤の字を使っているやつといったら、左片手突きを得意とするらしいアイツが連想される。左利きという逸話もあったが、最近ではふつーに右利きだったと否定されているそうな。


「よし、もう開ける。背に腹は替えられない」


 私は逃げ込んだ和室の畳にトランクを置き、ありったけの魔力を使ってこじ開けた。こんなことをしたら魔術協会の上司から怒られるが、それでも何もできないでスターライトにボロ負けするよりはマシだ。

 トランクに入っていたのは手作り感満載の一冊の分厚い本だった。

 絵の具で描かれた絵本風の表紙をしており、不思議の国のアリスやオズの魔法使いを思わせるファンタジックな雰囲気で、赤いワンピースを着た金髪の少女……それも10歳前後とおぼしき女の子が七人描かれている。そして、表紙に書かれたタイトルは――


「うわっ! うわっ……うわーっ!」


 走り疲れて畳の上でへたれていたキャスターが驚きの声を上げて本に飛びついた。


「こ、これっ! わたしの本! す、す、捨ててって言ったのに! で、でも……よかったぁ……」

「それはご愁傷様……で、自分の名前を思い出せそう?」


 答えを聞く暇はなかった。

 次の瞬間、和室の土壁がみじん切りにされたかと思うと、バラバラになった土塊が手榴弾で吹っ飛ばされたような勢いで私たちに降り注いできたのだ。

 壁に空いた穴から新藤ひばりと青い顔をしたスターライトが入ってくる。

 土まみれになった私とキャスターは大慌てで立ち上がった。


「よ、よ、ようやく追いついたわ……お、おげーっ!」

「ああもう、無理して走ったりするから……」


 新藤ひばりが盛大にえづいたスターライトの背中をさする。

 反撃のチャンスはここしかない。

 私がキャスターに目配せすると、彼女は大事に抱えていた本のページを開いた。

 詠唱が始まった。


「我は少女の守護者なり。我は善き国の将軍なり。善き国の兵士たちよ、七人の少女戦士たちよ。血の雨を晴らし、悪しき帝国を退けよ。現実に非ずして現実、実在に非ずして実在。物語のくびきから解き放たれ、我が元に集え……非現実の王国の七姉妹(レルムス・オブ・アンリアル・ヴィヴィアンシスターズ)!!」


 本のページが部屋一面に展開され、それらから黄金の輝きが放たれる。

 その刹那、色とりどりの子供服を身にまとい、剣に槍に弓にと思い思いの武器を持った少女たちが光の中から次々と飛び出してきた。彼女たちの顔には見覚えがあった。他でもない少女九龍城の先輩住人たちだ。


 このとき、私はまだキャスターが何者なのか気づいていなかった……いや、そもそも名前を知ってすらいなかった。

 人生の大半を狭くて貧しい自宅に閉じこもり、1万5000ページを超える物語をしたためた伝説のアウトサイダーアーティスト。自分のためだけに物語を書き、それに非現実という題を与えたが、彼にとってはきっともう一つの現実だったに違いない。善き国の将軍として体験した事実を書きに描いた。文学的芸術的に高度とは言えない手法で、しかし後世の人たちを引き込む圧倒的な情熱と狂気で……。


 本のページから飛び出した最初の七人を皮切りにして、無数の少女たちがスターライトと新藤ひばりへ襲いかかる。それは女子校の全校生徒が一斉に雪崩れ込んでくるようなもので、技術も戦術もない単なる突撃だったが、人間二人を飲み込むには十分すぎた。

 住人少女たちの姿を借りた一団が過ぎ去ったあと、その場にはもみくちゃにされたスターライトと新藤ひばりが倒れ伏していた。少女たちに踏んづけられたようで、全身に漫画みたいな靴あとが残っている。


「はぁ……ヴィヴィアンガールズ……しゅき……でも、たまにいじめたい……」


 全力の宝具をぶっ放し終えて、キャスターが恍惚とした笑みを浮かべている。

 今はそっとしておこう、そうしよう。


「あいたたた……これは参ったね」


 新藤ひばりが刀を杖代わりにして立ち上がる。

 防御するのにエネルギー源のエーテルを使い果たしたようで、外傷こそなかったものの、彼女の体は幽霊のような半透明になっていた。剣客らしく斬り合うのならともかく、相手が軍隊丸ごとでは流石の三番隊組長でも分が悪かったらしい。


「マスターさん、悪いけど省エネモードにさせてもらうよ」

「え、ちょっ……わ、私一人でなにしろってのよーっ!!」


 スターライトの叫びも空しく、新藤ひばりは姿をかき消してしまう。

 スターダストからエーテルを供給されたら復活するだろうが、それだってインスタントラーメンを作るように簡単にはいかない。ファントムを失った以上、スターダストは尻尾を巻いて逃げるしかないのだ。


「あ、あんたが聖杯のかけらを見つけた頃にまた来るわ! アディオス!」


 捨て台詞を吐きながらスターライトが立ち去る。

 私はホッとするあまり、ほこりまみれの畳にぺたんと座り込んだ。

 スターライトがエーテル酔いでなかったら、新藤ひばりを倒したところで私は負けていただろう。私と彼女の魔術的実力差はまるで大人と子供だ。スターライトが私に勝負を仕掛けてきたのだって、私が魔術工房を利用して貼った結界を破ったからに他ならない。そして彼女は一度負けたくらいで諦める玉ではない。

 でも、今はとにかくキャスターが勝ってくれた。

 どんなやり方、どんな条件でも勝ちは勝ちだ。

 私は夢見心地になっているキャスターに手を差し出した。


「ありがとう、キャスター。真名を聞いてもいい?」

「ふぇっ!?」


 ふにゃけていたキャスターが背筋をビクッとさせる。

 彼女の顔は最初に手を握られたときのように真っ赤になり、しばらく迷ったように視線を右往左往させていたが、その小さな手で私の手を力強く握り返してくれた。


「ヘ、ヘンリー・ジョセフ・ダーガーです……え、えへ……えへへ……」


 ×


 スターライトと新藤ひばりを撃退したあと、私はキャスターの正体であるヘンリー・ジョセフ・ダーガーについて調べてみた。

 アウトサイダーアーティストとして知られるヘンリー・ダーガーは(もちろん)生前は男性だった。ばっちり写真も残っているし、生前の彼を知っている人たちのインタビューも残っている。女性説なんてものも存在しない。

 そんな彼が少女の姿として……彼自身が創造したヴィヴィアンガールズと似た容姿で召喚されたのは、やはり少女九龍城の影響が強いのだろう。少女以外の存在を拒む少女九龍城では、あらゆるファントムが少女の姿で現界するのかもしれない。


 あるいは作中においてダーガー将軍として活躍していた彼は、実のところヴィヴィアンガールズの一員になりたかったのだろうか? そこんところをダーガー本人に問い質してみたものの、彼女はいつものように不審な笑みを浮かべるだけだった。

 ちなみに「メンタル的には女の子なの? おっさんなの?」と聞いてみたところ、ダーガーは「最初から女の子として生まれてきたような気分」と言っていた。私としてはおっさんにいやらしい視線を送られているわけではないと分かって少し安心した。


 さて、そんなダーガーは少女九龍城に自分のアトリエを作り、せっせと自作の続編をしたためる日々を送っている。タイプライターの代わりに中古のパソコンを与えてみると、いつの間にかインターネットを覚えて画像収集するようになり、その画像を加工して自作の挿絵として利用し始めた。それなんてコラ職人?

 生身の女の子を相手にするのは今も恥ずかしいのか、少女九龍城の住人とは全然交流していない。そんな一方、私が食堂から持ってくる日本の食事にはドはまりしていた。生前の極貧生活を思うとなんだか涙が……食堂の料理くらいいくらでも奢るわ! とか思っていたら、あっという間にラーメンやカレーといったインスタント食品にはまり始めた。きみ、ホントに根っからの引きこもり気質だね。


「え、えへへ……少女九龍城最高……永遠にいられる……創作意欲が無限に湧く……」


 ダーガーは今日も布団出しっ放し、原稿散らかしっ放しのアトリエでにやにやしながらキーボードを叩いている。

 私は聖杯のかけら探しに疲れると、彼女の嬉しそうな後ろ姿を眺めるのだった。

 魔術協会の上司からLINEが送られてきたのはそんなときのことである。


『やあ、今日も聖杯のかけらを探してるかい?』

『きみが菖蒲川星光の鼻を明かしたこと、日本の魔術協会のみならず、今では世界中の魔術協会や魔術的組織の間で話題になっているよ』

『結果、色々な組織が少女九龍城に若手の女性魔術師を派遣し始めた』

『表向きには聖杯のかけらを手に入れることが目的なわけだが、実際は自分のところの若手を戦わせてみたくなった……まあ、つまりは悪ふざけだ。でも、それは魔術的組織のプライドをかけた本気の悪ふざけだ』

『よって、きみに日本魔術協会のプライドを預ける。これから起こるであろう聖杯のかけら争奪戦に見事勝ち抜き、世界の若手女性魔術師ナンバー1の座をゲットした暁には、私のポケットマネーからそれなりに報酬を出そう』

『健闘を祈る』


 私はメッセージを読み終えるとスマホを花柄のクッションに投げ捨てた。

 これ、普通に大事じゃんっ!?

 スターライトに絡まれるだけでも大変なのに世界中から選りすぐりの魔術師が押しかけてくるとか、想像するだけで面倒くさくなってくる。これから少女九龍城にやってくる人たち全員にウェルカムドリンクとして下剤を盛ってやろうか。

 ダーガーは私の嘆きに気づくこともなく、それはもう夢中に物語を打ち込み続けている。また戦わされると分かったら絶対にショックを受けるだろうし、お腹を空かせて手を止めるまでの間くらいは黙っておいてあげることにしよう。


(おしまい)

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