第59話 少女九龍城のグルメ屋台編
1週間ぶりに生活区画へ戻ってきた瞬間、口の中が唾液でいっぱいになった。
私、加納千鶴(かのう ちづる)のライフワークは巨大迷路女子寮『少女九龍城』の地図を作ることである。今日も1週間の地図作りを終えて、少女九龍城の住人少女たちが集まる生活区画に戻ってきた。
生活区画の中心地、通称『メインストリート』は食堂に面した一直線の廊下だ。いつもなら食堂に通じる両開きドアから、管理人さんと食事担当が作ってくれるザ・家庭料理のにおいが漂ってくる。その嗅ぎ慣れたにおいを嗅ぐたびに「私は生きて帰って来たんだなぁ……」と実感して、ホッと胸を撫で下ろすのだった。
けれども、今回ばかりは勝手が違った。有毒ガスや粉塵から身を守るためのガスマスクを外した瞬間、焦がした醤油に甘辛いソース、焼き肉に焼き鳥に焼き魚、炊きたての白米に焼きたてのパンと……いつもは家庭料理のにおい香るメインストリートがあらゆる食欲をそそるにおいであふれかえっていたのである。
私はあやうく手元のタブレットを落としそうになった。
慌ててキャッチしてから、改めて目前の光景を見直す。
ここは確かに食堂前のメインストリートだ。しかし、廊下には見慣れぬ屋台が所狭しと建てられていた。その場のごった返しっぷりときたら、花火見物で混み合う縁日か、旅行番組に出てくる東南アジアの屋台街の如しである。こんな廊下がぎゅうぎゅうになるほどの屋台街、1週間前にはできる予兆もなかった。
私、浦島太郎にでもなったのかな?
そんなことを考えていたら、
「チズちゃん、こっちこっち!」
焼き鳥屋とおぼしき屋台の方から、住人仲間にして私のパートナーである倉橋椿(くらはし つばき)さんの声が聞こえてきた。すでに立ち飲みで一杯引っかけているようで、彼女の顔はうっすらと赤くなっていた。赤襦袢の一張羅で飲んだくれている彼女の姿は、もはや少女九龍城の名物と言っていい。
私はそんなに近づかないで、椿さんから大きく三歩ほど離れて止まる。
こちとら地図作りで1週間も風呂に入れていないのだ。
「何はなくともお疲れさま、チズちゃん。駆けつけ一杯いっておくかや?」
「いえ、やめときます……それより先にお風呂へ入りたいですから。それはそれとして、この屋台の数は一体どうしちゃったんですか?」
「チズちゃんが出発したあとに一軒目が現れてな。住人たちが食いついた瞬間、この波に乗り遅れまいと新しい屋台が次々と現れた。管理人さんも作る食事の量が半分で済むって、この現象をありがたがっておるよ」
チズちゃんが別の屋台を指さす。
そこでは管理人さんがストロングゼロを片手にホルモン焼きをつついていた。
ナマイキにもちゃんと七輪を使った炭火焼きである。
「不景気やら格差社会やらの影響なのか、家賃の安い少女九龍城は住人数が右肩上がりになってるじゃろう? それだけに留まらず、家賃すら払えない不法入居者もかなり増えてるし、食堂の方がキャパオーバーらしい」
「そこまで増えてましたか」
「それでもベビーブームのときよりはマシじゃけどな。あの頃は食堂三つがフル稼働じゃったから……ともあれ、住人たちが自力で食料を確保・貯蔵してくれるのは管理人さんとしても願ったり叶ったりの話らしい。ファフロッキーズの一件もあったしのう」
「ありましたねー」
ある夏のこと、あまりの猛暑っぷりに食堂の冷蔵庫が壊れてしまい、食事の供給がストップしてしまった事件があった。あのときは空から大量のアジが降ってきたおかげで、私たちは飢餓状態を免れたのだった。
これから食堂の冷蔵庫が壊れたり、台所が水漏れで使えなくなったりしても、住人たちが自活できていたら以前のような大騒ぎにはならないだろう。それに住人たちの小遣い稼ぎにもなって一石二鳥だ。食堂の利用者が半減して、少女九龍城の経営が成り立つのかどうかは分からないけど……。
「椿さんはなにを食べてるんです?」
「ふふふ、わっちはこれじゃよ」
椿さんが言うや否や、屋台の主が椿さんの前に料理を差し出した。
刺身をのせるような横長の皿に、全体的にピンク色で所々に白い筋の入った切り身が並べられている。表面は濡れたようにつやつやとしており、屋台のテーブルに皿を置いた瞬間に柔らかそうな身がぷるんと揺れた。
「ここの鶏刺しが抜群においしくてのう!」
「それって衛生的に大丈夫なんですか?」
「うちは中庭で育てたものを捌いて、その日のうちにお出しするスタイルです」
屋台の主である少女が自信満々に言ってきた。
黒パーカーと黒マスクを身につけた姿には見覚えがある。2週間くらい前から少女九龍城に住み着いた不法入居者の女の子だ。たくましくも野生化したニワトリを捕まえて、この焼き鳥&鶏刺しの屋台を開店させたのだろう。
まあ、椿さんなら大丈夫かな……。
「私は食堂に行きますね。それじゃ、椿さん」
「おやすみ、チズちゃん。ゆっくり休むんじゃぞーっ!」
気になることは聞いたので、私はその場をあとにする。
いくら強烈に食欲をそそるといっても、あくまで学園祭レベルの屋台である。今はブームに乗って勢いづいているけども、みんなそのうち冷静になることだろう。それにせっかく1週間ぶりのまともな食事なのだから、今日は食堂でちゃんとしたものを食べたい。
……そう、これはあくまで一過性の流行。
このとき、私は自分も屋台にドはまりするとは思ってもいなかったのである。
×
それからさらに1週間後、私はすっかり屋台巡りが日課になっていた。
最初は学園祭レベルと侮っていたけど、実際に食べてみたらこれが実においしい。少女九龍城の住人たちは凝り性な人間が多く、やるとなったら徹底的にやる。食堂の当番とアルバイトで積極的に腕を磨いているものもいるため、その気になったら屋台でおいしい料理を提供するくらい訳ないことだった。
屋台の内容もバラエティに富んでいる。小腹が空いたときのファストフード、お腹いっぱいになる晩ご飯、一杯引っかけたいときの酒の肴、女の子ならみんな飛びつくスイーツ……あらゆるグルメがカンブリア紀の大爆発のように存在していた。
私は今日も屋台だらけの廊下を見て回る。
狙っているのは安くてお腹いっぱいになれる屋台飯だ。
最初に目に止まったのは虎谷スバル(こたに すばる)さんと結城アキラ(ゆうき あきら)さんが経営しているパンケーキとタピオカドリンクのお店。
かつてカフェを開いていた経験があるため手際よし。流行のタピオカを取り入れているため三時のおやつやデザートとして人気が高い。虎谷さんの飼い犬であるカイをなで放題という犬カフェ要素もある。残念ながら夕食向きではないかな。タピオカのカロリーは馬鹿にならないと聞くし、地図作りのあとの自分へのご褒美として食べたい。
お次は宇佐見・エレーナ・アリサ(うさみ えれーな ありさ)さんによる宇宙食の横流しと月面トマトをたっぷりつかったボルシチ。
宇宙食の横流しって大丈夫なの!? 国際問題とかにならない!? 宇宙食は意外とおいしいらしいので気になるけど、それ以上に気になるのが月面トマト。重力の弱い月面で育てたトマトはやっぱり味も変わるのだろうか? 宇佐見さんの愛弟子(?)である大野頼子(おおの よりこ)さんがバニーガール姿で接客しているのは一見の価値あり。
それからアウトドアを趣味にしている子たちが作った石窯ピッツァの屋台。
気づいたら廊下の床と壁に大きな穴が空いていて、そこにレンガを積んで作られた石窯が鎮座していた。生地がふっくら、チーズがとろける本格的な窯焼きピッツァをワンコインから楽しめるし、目の前でピザ生地をくるくる回すやつを見られる。唯一の難点は「ピザ」と言ってしまうと「ピッツァ」と言い直しさせられる点か……。
そんでもって屋台にはなんと寿司屋もある!
寿司ネタをどこで仕入れるのかというと、それはもちろん中庭の池である。中庭の池は海に通じているときがあり、マグロやサーモンといったメジャーなネタを初めとして、イカにタコに甘エビなどの嬉しい脇役まで入荷する。しかし、入荷できるかは日によってまちまちで、今日は私の好物であるツブ貝が品切れのようだ。
どの店にも目移りする割に「ここだ!」という店が見当たらない。
鉄鍋で焼いたショウガたっぷりのはねつき野菜餃子、目の前で牛肉を切り落としてからサンドするドネルケバブ、炭火でじっくりと炙った焦がし醤油の焼きおにぎり……かなりいいけどもう一声! 炊きたてのご飯にバターと醤油を垂らして鰹節をぱらっとかけたバターご飯……いや、ここまで来たら自分で作れそうじゃない?
「チズちゃん、こっちこっち!」
からあげのにおいがする屋台から手招きされる。
そこは住人仲間の香坂白音(こうさか しらね)さんと櫻井純(さくらい じゅん)さんが経営している『からあげ酒場』の屋台だった。引っ込み思案の芋ジャージ娘にギャルっぽい子が惚れているという少女九龍城でも珍しいコンビである。
香坂さんは自他共に認める貧乏少女であり、いつも食堂でアルバイトしている。しかし、屋台の流行でアルバイトの枠が減ってしまったので、仕方なく屋台を始めたのだが……これが意外にも大ヒットしたという話だ。実際、屋台にはすでに四人の住人少女たちが唐揚げをつまみに一杯やっている。
「どうですか、チズちゃんも唐揚げで一杯?」
「いや、私は椿さんと違ってあまり飲めないので……にしても、香坂さんが屋台を始めるなんて驚きですよ。こう言っては失礼ですけど、バイトを減らされたまま泣き寝入りしてしまうものかと思ってました」
「そこは櫻井さんが頑張ってくれたんですが、最近ますます彼女面するようになって……」
香坂さんが客たちとおしゃべりしている櫻井さんをちらりと見る。
金髪にメッシュにピアス、そしてラーメン屋の店員のような黒いTシャツを身につけたことによって、櫻井さんはいっぱしのギャル店員の風格を放っていた。といっても不良ギャルなのは見た目だけなので相当に話しやすい人物である。
「白音ちゃん、おつまみ三種盛りとホッピーね」
椿さんがふらりとやってきて屋台の椅子に腰を下ろした。
注文してから約1分後、皿に盛られたおつまみが出てきた。アツアツの鶏の唐揚げ、柔らかそうなメンマ、そして半熟の味付けたまご。そしてホッピーの小瓶とグラスにはうっすらと霜がついており、グラスに入っている焼酎はとろみが出るほど冷やされている。
「本職レベルの冷やしっぷりですね、これは……」
「居酒屋に伝手があるんだよね。冷やし方はそこの直伝」
誇らしげにダブルピースする櫻井さん。
香坂さんもウキウキで説明してくれる。
「鶏の唐揚げは商店街の揚げ物屋さんにまとめて注文したものです。割安で入荷できて、レンジで温め直しても揚げたてと同じくらいおいしいんですよ! メンマは業務用スーパーで買えるやつ、たまごは近所のスーパーで1パック10円のやつなんですが、両方ともつけダレに秘密がありまして、食堂でアルバイトしている間に開発しました。これ以上は企業秘密です」
「香坂さん、この仕事向いてますよ!」
しかし、悲しいかな……今日の私は酒のつまみを求めていない。
別の店を探さなくちゃなと考えていたら、
「チズちゃん、奇遇ですね!」
屋台の周りを埋め尽くす人混みの中から、よく知る少女の声が聞こえてくる。
声の主は学校のジャージをこよなく愛する女の子……そして、私と椿さんの共通の愛人である長谷部心(はせべ こころ)さんである。彼女はもみくちゃになりながらも、いかにも嬉しそうな笑顔でこちらに近づいてきた。
これはきっと偶然を装って私と合流したかったんだろうな……。
こういう超奥手で引きこもり体質なところが他人とは思えない。
聞くところによると加納千鶴、香坂白音、長谷部心を『少女九龍城の三大ジャージ娘』と呼ぶらしい。
「あっ……お二人一緒でしたか……」
「いや、私はこれからどこで食べようか迷っていたところです。せっかくですから、二人でどこかへ食べに行きましょう」
「はいっ!」
散歩の時間になった飼い犬のように目をキラキラさせる長谷部さん。
すでに飲み始めている椿さんがヒラヒラと手を振った。
「いってらっしゃいじゃよ~」
「さて、酒飲みは放っておいて行きますか」
私は長谷部さんと連れ立って別の屋台を探すことにする。
いつの間にか、彼女と自然に手を繋いでいた。
自分が愛人を持っている事実が未だに飲み込めていないし、そもそも椿さん以外の誰かから恋心を向けられることが信じられない。私って誰かに愛されるような要素を持っていたのだろうか? あまり自信のなさそうな発言をすると、長谷部さんが「そんなことないですよ!」と大騒ぎするので出さないけど……。
などと考えているうちに気になる屋台を発見した。
メインストリートを抜けて屋外に出た先、石積みで固められた水路にかかっている石橋の上にリヤカータイプの屋台が止まっていた。屋台の利用客はいないものの、食欲をくすぐるニンニクのにおいが漂っている。のれんには『家ラーメン』と達筆な筆文字で書かれていた。
「家系ラーメンではなく家ラーメン?」
「今日はここにしませんか? 屋台街から抜けちゃいましたし……」
私たちは吸い寄せられるように屋台の椅子に腰掛けた。
屋台の主はラーメン屋の店長然とした少女だった。タオルを目深に巻いているため、人相はいまいち分からない。当然のように黒いTシャツを着ており、いつから待ち構えていたのやらどーんと仁王立ちしていた。
屋台の骨組みには『ラーメン1杯150円、追加のライス50円』とわら半紙にサインペンで書き殴ったメニュー表がセロハンテープで貼り付けられている。この値段設定にメニューの少なさ、あまりにも漢らしすぎるのでは?
「あの、家ラーメンというのは……」
「うちはサッポロ一番の塩ラーメンと味噌ラーメンから選べます」
屋台の主が答えながらお冷やを二つ出した。
「ああ、そういう……」
家庭で作るインスタントラーメンなら、この値段設定も納得である。
「ニンニクをごま油で炒めて、香ばしいにおいがしてきたところにニラともやし、細切りにしたロースハムを投入。ロースハムがカリカリしてきたところで塩コショウで味を調え、それをサッポロ一番の上へたっぷりと盛り付けます。塩とニンニク、味噌とニンニク、どちらも相性抜群ですよ?」
ごくり……。
私と長谷部さんは同時に生唾を飲んだ。
家で作るインスタントラーメンほど急に食べたくなるものはない。素のラーメンを鍋から直接すするだけでもおいしいのに、ニンニクの利いた野菜炒めなんてのせたら最高だ。ニンニクの風味が溶け込んだ塩ラーメンと味噌ラーメンのスープをそれぞれ想像すると……うん、どちらも120点!
ラーメンを食べ終えたあと用のご飯を容易しているあたり理解(わか)ってる。インスタントラーメン1袋なんて、食べ盛りの女子高生がお腹いっぱいになる量ではない。ご飯を入れてスープを飲み干したりしたらカロリーと塩分は天元突破してしまうけども、ここで頼まない理由があるだろうか……いや、ない!
「私は味噌ラーメンとご飯でお願いします」
「それじゃあ、私は塩とご飯で……」
私と長谷部さんはそれぞれ200円を出す。
調理を待っている間、私はふと気になって長谷部さんに問いかけた。
「長谷部さんって椿さんの体のことは……」
「あ、はい。知ってます」
椿さんは不老不死である。
私と長谷部さんが今の関係に至ったのも、大本を辿ると彼女の風変わりな運命がきっかけだった。私と椿さんという定命の者と不死の者のカップルに、長谷部さんという第三者が入ってきてしまった。今でこそ上手く行ってるけど、当時は本当に困惑したものだ。
「私、不老不死になる方法があるって怪しい人に勧誘されたことがあるんですよね」
「えっ?」
すぐに理解できなかったらしく、長谷部さんが目をぱちくりさせた。
「勧誘って……誰にですか?」
「それがよく分からないんですけど、椿さん曰く自分を不老不死にしたやつと同一犯じゃないかと……。長谷部さんも『不老不死になれる薬を買いませんか?』って勧誘してくる人がいたら注意してください。中身は十中八九、毒薬でしょうしね」
長谷部さんはもはや私たちの身内も同然である。
今後も不老不死絡みのトラブルに巻き込まれる可能性は十分にあるだろう。
「わ、私は不老不死には興味ないなぁ……。そもそも、私はチズちゃんと椿さんの愛人にしてもらいましたけど、やっぱり一番好きなのはチズちゃんなわけで、チズちゃんも不老不死になっちゃったらともかく今は別に……というか、よく勧誘を断れましたね」
「私が死んでしまったあとも、100年後の椿さんが楽しく生きているって知ってますし……何よりも椿さんが喜びませんから」
「……椿さんの意思を尊重してるんですね」
長谷部さんが隣から私の目を一心に見つめてくる。
かと思ったら、いきなり私の腕に抱きついてきた。
震える子犬のようなうるうるとした目をしており、つい見つめ合ってしまう。
「チズちゃん、あの……もしよかったら今夜……」
「今日は地図のデータ整理をしなくちゃいけないので駄目です」
「あ、愛人よりも地図ですか!?」
「なんなら本妻よりも地図を取るときもザラですが?」
「そりゃ、椿さんが他の女の子に手を出すわけですよ……」
そうこうしているうちにラーメンが完成した。
私の目の前には味噌ラーメンがドンと置かれた。
屋台の主がテーブルに出したラーメンどんぶりには、もやしとニラの炒め物がこんもりと盛られていた。真横から見るとラーメンどんぶりと合わせてまん丸に見えるくらいのボリューム感である。立ち上るかぐわしい味噌とニンニクのにおいは食欲を刺激し、早くも私の口の中には唾液が染み出してきていた。
私たちはいただきますをしてから、一心不乱にラーメンを食べ始める。
野菜炒めをバリバリと食べ進めて、ようやく見えた麺をすする。ほどよいゆで具合のインスタント麺はスープがよく絡む。そうして麺をすすった先から野菜炒めが崩れていくので、再び麺と出会うために野菜炒めをほおばるのだ。
結局、私たちは一言もしゃべらないでラーメンを完食した。
ラーメンを食べ終えたとき、戦い終えたと感じるのは私だけだろうか? ラーメンをスープが熱いうちに、麺がのびないうちに食べきるのには猛烈な食欲とスピードが必要になる。ラーメンを最高においしいうちに完食するのは意外に難しいのである。それを成し遂げたとき、私は戦いに勝利したと思えるのだ。
「こちら、追加のご飯です」
屋台の主が茶碗に盛ったアツアツのご飯を差し出した。
ご飯の上には生卵がのせてあり、茶碗にはスプーンが添えてある。
「それをラーメンのスープに入れてかき回してください」
屋台の主に言われた通りにしてみると、生卵がかき玉スープを作るときのように黄身と白身が固まった。アツアツのご飯のおかげだろう、冷めてきたラーメンのスープからも再び湯気が立ち始める。かき混ぜ終えたところを見計らって、屋台の主が刻みネギ、すりごま、刻み海苔の薬味三種をぱらりとかけた。
はい、優勝!
このラーメンスープ雑炊、絶対においしい!
ラーメンスープの残りに余った冷や飯を入れることはあっても、なかなか薬味を用意するところまではやらない。野菜炒めが予想以上に大盛りで、かなり満腹感が高まっていた私たちだったが、ネギとゴマと海苔の香りがプラスされたことで一瞬のうちに食欲が復活した。
「チズちゃん、これ深夜に食べたら絶対にアウトなやつですよ……」
「それを言わないでください! 夜中にふらっと食べに来ちゃうじゃないですか!」
私たちはラーメンスープ雑炊をはふはふと食べ始める。
あまりのおいしさにスプーンが止まらず、ついにはスープまで完飲してしまった。ニンニクの風味と溶き卵で味がマイルドになってるから、それなりに塩分のあるスープを苦もなく飲めてしまう。おいしすぎて本当に危険。これ本当に合法?
そして、一息ついてコップの水を飲んだときである。
「ヨモツヘグイ……食べましたね?」
屋台の主のつぶやきを聞いた瞬間、私と長谷部さんが同時に水を吹き出した。
「や、やられたーっ!!」
私は屋台の止まっている場所を確認する。
ここは水路にかかっている石橋の上。
橋というと井戸や鳥居やトンネルと同じく、現世と幽世……この世とあの世の境界になっているらしい。そんなことを妖怪ハンターの異名を持つ知人、稗田礼子(ひえだ れいこ)さんから聞いたことがある。
つまり、この屋台は現世の人間をあの世へ誘い込むための罠?
私と長谷部さんはとっさに顔を見合わせる。
彼女も勘づいているらしく、開いた口がふさがらないまま小刻みに震えていた。
これは万事休すかと思いきや――
「なーんちゃって! 冗談ですよ!」
屋台の主が黒シャツを脱ぎ、人相を隠しているタオルを取ると、彼女は一瞬にしてメイドカフェにいそうな全身ピンク色のメイド服の姿になった。単なる早き替えではない明らかに不思議な力を使った変身である。
「あーっ!!」
思い当たることがあったのか、長谷部さんが椅子から立ち上がって指さした。
「あのときのメイドさんっ!!」
「ですです」
メイドさんが嬉しそうにうなずく。
「長谷部さん、あのときというのは……」
「私が黄泉国に迷い込んだときに助けてくれたメイドさんです! いきなり会いに来てどうしたんですか!?」
それは以前、長谷部さんの口から聞いたので覚えている。
長谷部さんは少女九龍城の奥地で黄泉国に迷い込み、ヨモツヘグイをして帰れなくなっていたところを黄泉国の住人であるメイドさんに救われたらしい。思い出せたからパニックにならずに済んだものを正直かなり肝が冷えた。
「す、すいません……ラーメンの食材はちゃんと現世のものです……」
私たちを予想以上に怖がらせてしまったことに気づいたようで、ピンク色のメイドさんが申し訳なさそうに頭を下げた。
「一応、ちゃんと黄泉国産の桃缶も持ってきたので、お望みなら黄泉国の百合ハーレムに仲間入りも可能ですけど……」
「「 い り ま せ ん 」」
私と長谷部さんの声がきれいにハモった。
「……で、どうして私たちを屋台に誘い込んだりしたんですか? まさか、本気でおいしいラーメンを振る舞いたかったわけじゃないですよね?」
私に問いかけられて、メイドさんが「そうでした!」と手を叩いた。
「長谷部さん、また百合写真をくださいっ!」
「はいっ!?」
長谷部さんは驚き半分、呆れ半分の顔をしていた。
確かに「それだけのためにこんな手の込んだことを?」という感じである。
「ヨモツオオカミさまが今の時代の女の子たちにはまっちゃったみたいでして、新しい百合写真がほしいほしいってうるさいんですよ。黄泉の世界が現世を侵したら大変ですし、また百合写真を恵んでもらえないでしょうか?」
「百合写真くらいで世界の理を壊さないでくれますか?」
まあいいですけど、と長谷部さんがジャージのポケットから写真束を取り出す。
こんなときでも持ち歩いているあたり、流石は長谷部さんだ。
メイドさんが盗撮写真を受け取って確認し始める。
私はなんとなく眺めていたが、
「――って、ちょっと!」
見過ごせないものを見つけて、とっさに盗撮写真をぶんどってしまった。
「これ、私たちの写真じゃないですか!」
写っているのはコスプレしている私と椿さんと長谷部さんだった。
ぶっちゃけると3Pの盗撮写真である。
少女九龍城ではこういった盗撮写真がよく出回っている。
自称ジャーナリストの女の子・二宮梢(にのみや こずえ)さんが撮影したものを住人少女たちが買いあさっているのだ。
別に人前で見せびらかすわけでも、脅迫に使ったりするわけでもなく、あくまで個人の鑑賞用である。好きな女の子の写真がほしい、百合カップルがイチャイチャしている姿をじっくり見たいという淑女のための盗撮写真だ。私も何枚か写真を持っている。
「これも世界の平和のためですから我慢してください」
長谷部さんに背中をぽんぽんされる。
「まさか、自分のコスプレエッチ写真が死後の世界にばらまかれるとは……」
ちなみにコスプレの内容はというと、ワーウルフ(私)とキョンシー(椿さん)がエクソシストのシスター(長谷部さん)を返り討ちにするというファンタジックなものである。コスチュームが通販で買った妙にツヤツヤしてるチープなものなので、安っぽいコスプレエロビデオ感が半端じゃないのだが……。
私は冷静さを取り戻し、盗撮写真をメイドさんに返す。
彼女は写真を確認し終えるとニッコリと微笑んだ。
「こちらでOKです。それから心ばかりのお礼です」
「おおっ!」
メイドさんが差し出したものもまた写真束で、これに長谷部さんがすぐに食いついた。
どうやら、その写真束は黄泉国にいるメイドさんたちの生写真らしい。色とりどりのメイド服を着た女の子たちが思い思いのポーズで写っているのは、アイドルグループのランダム封入ブロマイドを思い起こさせた。
「か、可愛い子ばっかりですね……ふへへ……」
にやけ顔になっている長谷部さん。
彼女の言った通り、確かに美少女揃いである。
メイドさんが自慢げに胸を張った。
「ヨモツヘグイをして黄泉国の一員になると、姿形を自分の意思で変えられるようになるんですよ。つまり私たちヨモツシコメは生前の自分が理想としていた姿で生きているんです。ヨモツオオカミさまの好みもちょっと入ってますけどね。どうです、黄泉国の百合ハーレムに少しは興味わいてきたんじゃないですか?」
「「 そ れ は な い 」」
またもや私と長谷部さんの声がハモった。
私は今、自分を世界で一番幸せな人間だと思っている。長谷部さんもきっと今の生活に満足してくれているのだろう。不思議な力で理想の姿形になりたいと思うほど、私たちの現実は苦しいわけじゃない。
流石に満足したのか、メイドさんが屋台を片付け始めた。
私たちも空気を読んで、自分の座っていた椅子を屋台にしまう。
「長谷部さんにも加納さんにも、黄泉国ですでにファンがついてるのですが……本人が望んでいない以上は仕方ないですねえ。今日は大人しく帰ります。また百合写真が必要になったら来ますので、そのときまたお目にかかりましょう」
メイドさんが屋台をリヤカーのように引いて立ち去る。
私と長谷部さんは水路にかかる石橋の上にぽつんと残された。
少女九龍城の奥へ続く水路から、ひんやりとした夜風が吹き込んでくる。
「体が冷える前にお風呂へ行きましょうか、長谷部さん」
「そうですね。今日のことは忘れましょう」
いくら美少女たちのブロマイドをもらったところで、長谷部さんも黄泉国と関わりたい気持ちにはならなかったらしい。
ラーメンと雑炊で満腹になったお腹を抱えて、私たちはメインストリートへ引き返した。
×
それからしばらくして、少女九龍城にこんな噂が広まった。
メインストリートから離れたところに死者の経営する屋台があるらしい。その屋台で出された料理を食べてしまうと、死者の国に連れて行かれて帰れなくなってしまうという……。
おそらく私と長谷部さんの経験したことが、口伝えするうちに情報が盛られたりして、ある種の怪談や都市伝説になってしまったのだろう。
こんな恐ろしい噂話が流れていたら、屋台の利用者は減ってしまいそうなものだが、そこは超常現象に慣れっこの住人少女たちである。屋台の客足は衰えるどころか、死者の屋台見たさに探し回るものも現れた。
私も椿さんも相変わらず屋台にはまっているのだけど……気になることが一つ。
あの鶏刺しを出していた屋台が見当たらないのだ。
店主の女の子は鶏刺しで一儲けして少女九龍城から出て行った……とも考えられるけど、あの黄泉国からやってきたメイドさんの言っていたことが気にかかった。
あのメイドさんは黄泉国産の桃缶まで持ってきて私たちを勧誘していた。黄泉国では理想の姿で暮らせるとも言っていた。
少女九龍城の格安な家賃と食費すら払えず、その日暮らしをしている不法入居者の中には、黄泉国の百合ハーレムに入りたがる子も少なくないだろう。食べるのに困らないだけで、そういう子たちには魅力的な提案のはずだ。
少女九龍城の中で時たま人が消えているのに大して深刻な問題にならないのは、自ら望んで消えていく子が多いからではないか……そんな気がしてならない。
果たして屋台で成功して現世に残るのと、天国のような世界で百合ハーレムの一員として暮らすのと、どちらが幸せな生き方なのだろう?
そんなことを椿さんに話してみたら、
「わっちにとってはチズちゃんの隣が天国じゃから」
と励ますような言葉をかけてくれた。
別に私自身が励ましてほしかったわけじゃないけどなぁ……と思いながらも、やっぱりちょっとにやけてしまって、心の中ではホッとしたのだった。
(おしまい)
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