第58話 そして私は百合になる
わっちはやっぱり世界の果てに戻る。
その言葉を聞いた途端、大人心さんが反射的に立ち上がった。
「どういうことですか、椿さんっ!」
大人椿さんは呼びかけに応じることなく、駅のホームから線路に下りたかと思うと私たちに背を向けて歩き出してしまう。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださ……うげっ!?」
私も彼女を引き留めるべく、駅のホームからおっかなびっくり飛び降りる。しかし、着地をミスって派手に尻餅をついてしまった。じんじんするお尻をさすりながら、どうにか立ち上がる。
「心さんと一緒にチズちゃんのところへ帰るって言ってたじゃないですか!」
「あの場はそう答えるしかなかった……」
立ち止まる素振りのない大人椿さん。
私は彼女を追いかけて、肩をつかんで引き留めた。
「会うって約束したんだから会ってください! 嘘をつくのは卑怯ですよ!」
同意を求めて大人心さんの方に振り返ると、椿さんの嘘に余程のショックを受けてしまったのか、立ち上がったところから一歩も動くことができていなかった。
彼女の肩から滑り落ちたリュックが、駅のホームに落ちて大きな音を立てる。
それが私には大人心さんの心が折れた音のようにすら聞こえた。
「……ま、こうなると思ってたんだよ」
管理人さんがタバコの煙をわっかの形にして吐いた。
彼女はメトロ九龍の車体に背中を預けたまま、大人の余裕といった雰囲気の笑みを浮かべながら大人椿さんに向かって呼びかける。
「椿、お前にはある人と話してもらう」
「管理人さん……」
覚悟を決めている大人椿さんも管理人さんには逆らえないようで、彼女はそこで初めて私たちの方に振り返った。
彼女は「止めてくれるな」と言わんばかりに顔をしかめているが、それでもギリギリのところで迷っているのか、管理人さんの顔を直視できず視線を右往左往させている。
「お願いします、椿さん」
大人椿さんの耳元でささやくように念を押す。
すると、彼女は視線を逸らしたままながらも線路を引き返してくれた。
それから、私たちは管理人さんに連れられて、階段をのぼってメトロ九龍の始発駅から地上に出た。
階段を上った先は住み慣れた木造建築の廊下になっている。
長時間にわたってコンクリートに囲まれていたせいもあって、年季の入った木材から漂ってくる木の香りで高まった緊張感がちょっとだけ和らいだ。
(それにしても、管理人さんは大人椿さんを誰と……)
そう疑問に思っているうちに私たちは『メインストリート』の一角に連れてこられた。
メインストリートは食堂や大浴場に通じている少女九龍城の中心地である。メインストリートの周囲には多くの住人少女が住んでおり、そこも含めた一帯を『生活区画』と専門用語っぽく呼んでいたりする。
「管理人さん、とりあえず繋ぎっぱなしにしておきましたよ」
そう言ったのは少女九龍城の電話番こと、小山紗英(こやま さえ)さんである。
電話のすぐ近くの部屋に住んでしまったせいで、電話番を引き受けさせられた女の子だ。その代わりとして、食堂やら大浴場の掃除やらの当番を免れているのだとか。いつもアンニュイな顔をしている私的にはかなり近づきがたい。
「しかし、電話の相手は妙な名前を名乗ってやがるんですが、本当に本人なんですかね……」
小山さんが電話台に置かれている黒電話の受話器を差し出す。
受話器を管理人さんに受け取ってもらうと、彼女はさっさと自室に引っ込んでしまった。
「椿、ほら……」
管理人さんがさらに大人椿さんへ受話器を渡す。
私と大人心さんが同時にごくりとつばを飲んだ。
「もしもし……」
大人椿さんが恐る恐るといった様子で電話に応じる。
受話器から漏れ出る声が、やけにハッキリと私たちの耳まで届いた。
『――おぬし、誰じゃ?』
その声は私たちにとって……そして大人椿さんにとっても聞き慣れたものだった。
「わ、わっちは……20××年の倉橋椿……加納千鶴と倉橋椿が結ばれなかった世界の……」
『……そうか。おぬしとはもっと早く話したかったな』
声の主は小さくため息をついてから名乗った。
『わっちは21××年の倉橋椿……ただし加納千鶴と倉橋椿が結ばれた世界の、な』
私と大人心さんがギョッとして顔を見合わせる。
21××年というと今からおおよそ100年後である。
この黒電話が100年後の未来とつながっていること自体にも驚かされたけど、その電話相手が椿さんであることに重ねて驚かされた。大人椿さんと区別するために『未来椿さん』とでも呼ぶべきだろうか。
「100年後ということは……」
「……はい、そういうことですよね」
私と大人心さんは同時に察して小声で言い合う。
100年後の未来ということは、どう考えてもチズちゃんは亡くなっている。寿命の違いによって愛する人を失うこと……それは大人椿さんが一番恐れていることだ。未来椿さんはその恐怖を乗り越えているということになる。
『おぬしに言いたいことは一つ。今すぐにチズちゃんとくっつけということじゃ!』
「な、何を馬鹿なことを……」
『馬鹿なのはおぬしの方じゃ! わっちはチズちゃんが亡くなったあとも、彼女とのラブラブな思い出を大切にしながら毎日ハッピーに生きておるぞ。そりゃあ、たまに寂しくなってちょっぴり涙することもあるが、おぬしが想像するような地獄の苦しみとはほど遠く――』
「嘘だっ!! ふざけたことを言うなっ!!」
大人椿さんが受話器に向かって怒鳴りつける。
口調が崩れるほど余裕のない椿さんの姿を見るのは初めてだ。
見るべきではないものを見た気がして胸がズキズキしてくる。
「そんなのはお前の強がりだ! 大好きな人が……チズちゃんが死んだら悲しいに決まってるだろ!」
『そっちこそ強がりはよせ。本当はわっちのことがうらやましいんじゃろう?』
「……そんなのは見当外れだ」
『そして、おぬしは恐れている。しかも、恐れているのはいつか寿命でチズちゃんと別れることになるからではない。チズちゃんに告白を断れるかもしれないからじゃろう?』
「んなっ――」
突如、大人椿さんが耳まで赤くなった。
「ななっ……くっ……んぐっ……」
何か言い返そうと口をパクパクさせているが、全然言葉が出てこない。
目は今にも泣き出しそうに潤んでいる。
その姿はまるで好きな人の名前を言い当てられた女の子のようで、さっきまで重苦しい雰囲気だったというのに私はときめきを感じそうになってしまっていた。
隣の大人心さんまで「きゃーっ!」と黄色い声を漏らさんばかりに目をキラキラさせてしまっている。
まあ、気持ちは分かる。普段はちゃらちゃらして遊び歩き、気になった女の子を口説かずにはいられないような女の子が、本命の相手にだけは断られることが怖くて告白できないとか……大好物のシチュエーションです、本当にありがとうございました。
『ははっ! 図星か? 我ながら乙女じゃのう!』
「ち、違うっ! 私はそんなこと思ってないっ!」
『へーきへーき。チズちゃんはわっちにべた惚れじゃから、おぬしからの告白は絶対に断らんよ。自信を持ってどーんと行けば問題ない!』
「で、でもぉ……」
大人椿さんがいじいじと空いてる右手で赤襦袢の裾をいじくる。
「あれからもう、10年も経ってるしぃ……もう会わせる顔がぁ……」
『馬鹿! チズちゃんの失った10年のことを考えれば、今すぐに……1秒でも早く彼女に告白するべきじゃろうが! この10年間、おぬしはほとんど世界の果てで眠っていただけ……でも、チズちゃんはずっとおぬしを待ち続けていたんじゃからな!』
「う、ううっ……」
未来椿さんに強く叱咤されて、いよいよ大人椿さんの目から涙がこぼれ落ちる。彼女はその場に膝を突き、すがりつくように両手で受話器を握りしめた。
「わかった……ちゃんと告白する……」
『おぬしのためじゃない。チズちゃんのために告白するんじゃぞ!』
未来椿さんがそう念を押してから通話を終えた。
大人椿さんはしばらく呆然としていたものの、ゆっくりと立ち上がってから受話器を黒電話に戻す。彼女の目元は赤く晴れて、涙に濡れた頬が薄暗い照明の光を跳ね返しており、痛々しくもあったが表情はむしろすっきりと清々しく見えた。
大人心さんがハンカチを差し出す。
「それじゃあ、元の世界に帰りましょうか」
「あぁ、そうしよう……それにありがとう、二人とも……」
大人椿さんが申し訳なさそうに、そして気恥ずかしそうにはにかむ。
そんな彼女を見て、大人心さんは少し困った様子で笑い返した。
「これで私もちゃんとチズちゃんに謝れますよ」
「いや、もう、本当にすまんかった……」
「あっと、そうでした。私は心さんにお礼を言わないと!」
大人心さんが私の方に振り返った。
彼女も彼女でいつになくすっきりした顔をしている。
「最初はこっちの世界に来ちゃって戸惑っていましたけど、あなたと一緒に世界の果てへ行ったことで椿さんを見つけられました。それにチズちゃんと友達から始めるっていうアイディア……私には思いつきませんでしたから」
「あぁ……やっぱり10年かけても思いつかなかったんですね……」
流石は別世界の自分である。
でも、これできっと友達にはなれるだろう。
そこから先は私と同じく自分自身の頑張り次第だ。
「……で、帰るあてはあるのか?」
見守っていた管理人さんはいつの間にかタバコを吸い始めていた。
壁にもたれながらおいしそうに吸っている姿がとても様になっている。
「案外、ここの角を曲がったらすぐとか……」
大人心さんと大人椿さんがすぐそばの廊下の角を曲がってみせる。
そこは食堂に向かう方の道なのだけど――
「あっ!? 本当にいなくなってるっ!?」
「マジかっ!? はーっ、随分あっけないな……」
私たちと管理人さんが角の先を覗くと、そこにはもう二人の姿は見当たらなかった。
あまりにあっさりとした別れ方にぽかーんとさせられてしまう。
でも、まあ……名残惜しくなっていつまでも帰れないよりはいいかもしれない。
あの二人なら大人チズちゃんにきちんと自分の気持ちを伝えられるだろうし、例の中庭に辿り着くことがあったらその後の展開についても聞けるだろうから、私たちはきっとこんな別れ方でよかったのだ。
「……そうだ、チズちゃんと椿さん!」
私は自分のやらなくちゃいけないことを思い出す。
寝込んでいるという椿さんに自分の口から報告しなければ!
今頃はチズちゃんがお見舞いに行っているはずだ。
「管理人さん、ありがとうございました! 私も椿さんのところに行きます!」
私は疲れも忘れて、椿さんの部屋に向かって走り出す。
大好きなチズちゃんのみならず、椿さんの部屋の場所までしっかり覚えているのだから我ながら呆れてしまう。
私はチズちゃんのことが付き合いたい、結婚したい、なんなら同じ墓に入りたいくらい好きだけど、その次にチズちゃんと椿さんの百合カップルが好きなのだ。この場合、私は『百合カップルの間に挟まろうとする悪いやつ』なのだろうか?
椿さんの部屋の前に到着するなり、ノックの手間も惜しんでドアを開け放つ。
「チズちゃん! 椿さん! 全部無事に終わり――」
「あっ」
「あっ」
同時に振り返ったチズちゃんと椿さんの姿が視界に入る。
寝込んでいるという話はなんだったのか……畳に敷かれているくたびれた布団の上で、二人は生まれたままの姿で絡み合っていた。
チズちゃんと椿さんはお互いを激しく求めている真っ最中だったようで、部屋にはまともに息ができないくらいに汗のにおいが広がり、布団にはしたたり落ちた二人分の体液が生々しい大きさのシミを作っている。布団の周りには決して子供には見せられないおもちゃの数々が散らかっていて、どれもこれもしっとりと濡れて妖しく光っていた。ハンガーラックには多種多様なコスチュームが吊り下げられており、若干作りが安っぽいところが生々しい。
そんな光景を目の当たりにして、私は自分の中で何かがキレるのを感じた。
「チズちゃん、私たち……友達ですよね?」
問いかけながら体操服のズボンを下ろす。
世界の果てにぐしょ濡れのパンツを脱ぎ捨ててきたので、ズボンの下は当然のことながらすっぽんぽんである。
「な、なんで脱ぐんですかっ!? なんでノーパンなんですかっ!?」
うろたえて這うように後ずさるチズちゃん。
その一方、椿さんは布団の上で大の字になって大笑いした。
「あっはっは! そうじゃな! 友達なんだから一緒に遊ぶのは当然じゃな!」
「すみません、お二人とも……本当に我慢できなくて……」
「ほら、チズちゃん……頑張って探しに来てくれたんじゃから、少しはねぎらってあげてもいいんじゃないかのう? それに真っ直ぐな好意を向けられるとパニックしてしまう癖も、これからしっかり直していくべきじゃろうな」
こんな状況なのに平然と正論を説く椿さん。
後ずさっていたチズちゃんがおずおずと布団の上に戻る。
「そ、それはそうかもしれないですけどぉ……」
「ほらほら、今回の功労者である心ちゃんをわっちらで『おもてなし』してあげるんじゃ」
「わ、分かりました……それでは……」
椿さんに肩を抱き寄せられるチズちゃん。
二人は「さあ、お好きな方にどうぞ!」と言わんばかりに手を広げる。
いよいよ我慢できなくなった私は、二人の胸にためらうことなく飛び込むのだった。
×
翌日。
「――で、ちゃんと友達になることができたのに、その場の勢いに任せて夜通し3Pしてきちゃったとか、長谷部さんは性欲モンスターなんスか?」
「私も……自分の性欲がこれほど強いとは……知りませんでした……」
自室に戻ってきた私は二宮梢(にのみや こずえ)さんと反省会を開いていた。
私たちは薄っぺらの座布団に腰を下ろして向かい合っている。
私が一方的にぺこぺこしまくっている光景は、ぶっちゃけ反省会というよりも単なる説教を受けているだけに等しかった。
「長谷部さんのことだから『チズちゃんに嫌われたらどうしよう……』とか考えちゃってるんスよね?」
「いや、その点についてはあの二人から『私たちもなんだかんだ楽しんだから、長谷部さんが気にすることはないからね。むしろ、また気が向いたら私たちのことを誘ってね』と念を押されました……」
「それなら、よかったじゃないッスか。単なる友達を通り越して、体のおつきあいをしてもいい間柄として認めたんスから」
「いいのかなぁ……これでいいのかなぁ……」
私としてはちゃんとした友達から始めて、じりじりと距離を縮めていくつもりだったから、これでは予定が狂いまくりである。
「というか、これって友達じゃなくてセフレじゃないですかっ!?」
「やっと気づいたッスか……」
二宮さんが服のポケットから茶封筒を取り出す。
それは彼女がいつも現像した写真を入れているものだった。
「実を言うと全部見てたんスけどね」
「はい? それってどういう――」
私は差し出された茶封筒を受け取る。
その中から滑り出してきたのは数枚の写真だった。
が、
「なっ……なんですかぁ、これぇ――――っ!?」
私は写真を目にした瞬間に絶叫する。
それに映されていたのは布団の上で組んずほぐれつしているチズちゃん、椿さん、それから私の姿だった。
二宮さんは絶叫している私を眺めながらニヤニヤしている。
「なにって、いつもの盗撮写真ッスよ」
「いやいやいやっ! なんで私のことまで撮ってるんですかぁーっ!」
「そりゃあ、需要があるから撮るッスよ」
「どこに需要があるっていうんですかぁ!
私の裸なんて見ても全然楽しくないだろうにどこの物好きが楽しむというのか。
二宮さんが「まあまあ……」となだめてくる。
「長谷部さん、言ってたじゃないッスか。百合を眺める壁や観葉植物ではなく、百合をする側に回りたい。自分の人生の主役になって、自分の力で百合を生み出したいって……。というわけで、私は百合になった長谷部さんを観測させていただいたッス」
「しなくていいですよ!」
「百合は他者に観測されることによって初めて百合になる。これぞ有名な『シュレディンガーの百合』というやつッスね。よかったじゃないッスか、長谷部さん。これで長谷部さんも百合を観測される側の仲間入りッスよ」
「そ、それっぽいことを言って誤魔化さないでください……」
こんな写真が住人仲間たちの間で流通するかと思うと顔から火が出そうだ。
「なーにを今更焦ってるんスか」
二宮さんがやれやれと言った感じで肩をすくめた。
「長谷部さん自身、何百枚も盗撮写真のお世話になってるじゃないッスか。そして、盗撮写真を悪用するような子が少女九龍城にはいないと分かっているからこそ、あくまで個人的な用途に限って盗撮写真の流通が黙認されているんス。長谷部さんも少女九龍城の一員なら、そこんところは了承してもらわないと困るッス」
「うぐぐ……これまでお世話になっていた手前……というか、今後も盗撮写真を買い続けたいから何も言えない……」
「なんにせよ、よかったッスね。これで長谷部さんも紛うことなき百合ッスよ」
「そうかなぁ……そうなのかなぁ……」
いまいち釈然としない私を二宮さんはニコニコと眺めている。
ともあれ、こうして私はチズちゃんと友達になり、時たま夜のお遊びにも参加させてもらえる立場になり、そして百合を見る側から百合を生み出す側になったのだった。
それにしても気になるのは『長谷部心の盗撮写真を誰が買うのか』ということである。
私の写真を買うということは、少なからず私に好意があるわけで、もちろん私としても好意を向けてくれる人の存在はやぶさかじゃない……というか、そんな人がいるとしたら会ってみたいものだ。
ただ、しばらくしてから二宮さんに聞いてみたものの、それは「顧客情報は秘密です」と断られてしまった。そういうところがしっかりしているからこそ、彼女は盗撮写真専門のカメラマンとして住人仲間たちから信用されているのだろう。
私の写真から百合を感じている人がいるとしたら、ぜひ名乗り出ていただきたい。
なぜなら、百合を一緒に語れる友達を大募集中だから!
(おしまい)
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