第57話 世界の果ての果て
私、長谷部心(はせべ こころ)の前に現れた人物。
それは大人しく留守番しているはずの倉橋椿(くらはし つばき)さんと瓜二つで、私と大人心さんはすぐにその正体にピンときた。というのも、椿さんのそっくりさんが着ている赤襦袢が長い年月を経たかのようにボロボロになっていなのである。
私たちの目の前に現れたのは、おそらく『チズちゃんと結ばれることなく、世界の果てに10年間隠れ続けた椿さん』なのだろう。
大人チズちゃんや大人心さんと同じ要領で『大人椿さん』と呼ぶべきなのだろうけど、見た目が成長もしていなければ老けてもいないので、この呼び方が正しいのかは甚だ疑問だ。しかし、他に呼びようもない。
10年間探し続けてきた相手が目の前に現れて、ようやく努力が報われたからか……大人心さんは呆然としたままぽろぽろと涙を流していた。彼女自身は自分が泣いていることに気づいていないらしく、大粒の涙が頬を伝っているのに気にする素振りもなかった。
「椿さん……私は……あなたを10年間、探し続けていたんです……」
「はぁあっ!? じゅっ……そ、そんなにっ!?」
大人椿さんが私と大人心さんの顔を見比べる。
同じ顔の人間が二人いるせいで、いまいち状況を飲み込めないらしい。
(そ、そりゃあ困惑するよね……)
そんなことを考えながら、私はティッシュでこっそりと股ぐらを拭う。
それからパンツを穿こうとして、
(うわっ……なにこれっ!?)
いつの間にかパンツがぐしょ濡れになっていたことに気づいた。
どうやら、びっくりして尻餅をついたとき豪快に引っかけてしまったらしい。
私はこっそりとパンツを投げ捨て、ノーパン状態で体操服のズボンを引っ張り上げた。こんなシリアスな空気の中でパンツの話なんかしたくないので、今はとりあえず黙っておくことにする。
「おぬしは……心ちゃんじゃよな?」
「はい。あなたをずっと探していました」
「それはわっちをチズちゃんと会わせるために探していたということかのう?」
「あっ……当たり前じゃないですかっ!!」
突然、大人心さんが大人椿さんの胸ぐらをつかむ。
その力の入りようは赤襦袢の生地が裂けるほどだった。
(私も怒るときは怒るんだなぁ……)
大人心さんの声には明らかな怒気が含まれており、私は自分の中から怒りという感情が出てくるという事実に面食らっていた。でも、あれだけ苦労して突然あっさり見つかったら、理不尽すぎて喜びよりも怒りが湧いてきてしまう感覚は分かる。
大人心さんが大人椿さんの顔を覗き込むようにして言った。
「10年かけてあなたを探し続けた私に免じて、どうかチズちゃんと会ってくれませんか?」
「……あぁ、分かった」
流石の椿さんも観念したようで、大人心さんの要求を大人しく呑んでくれる。
それから妙な間が生まれて、私たちの間に変な沈黙が広がった。
「そ、そうだ! とりあえず事情を説明しますね!」
私は沈黙に耐えかねて、これまでの経緯について話し始めた。
私のせいでチズちゃんが世界の果てで迷子になってしまったこと、世界の果てで大人椿さんを探している最中の大人心さんと出会ったこと、チズちゃんを探すために大人心さんに協力してもらったこと……。
「わっちが寝ている間にそんなことが……二人分の気配を感じて飛び起きて正解じゃったな」
「一人分の気配でも起きてくださいよぉ!」
ガクッと膝をついてしまう大人心さん。
大人椿さんが気まずそうに視線を逸らす。
「ひ、一人分の気配だとチズちゃんが来ちゃったと思うじゃろ?」
「ああもう、ほんの徒歩1日の距離に隠れているなんて知っていたら、こんな苦労はしなかったのに……」
「そ、そうでした! 椿さんに聞きたいことが!」
私はなんとか気まずい雰囲気の二人に割り込んだ。
「チズちゃんが迷い込んでいそうなところって見当がつきませんか?」
「ふむ、それなら幸いにも一つある」
「本当ですかっ!?」
今度は私が大人椿さんの胸ぐらに飛びついてしまう。
椿さんはのけぞりながら答えた。
「う、うむ……これでも10年ずっと眠っていたわけではなくて、多少は世界の果てについて調べておったからな……ちょうど世界の果てで迷った人間が吸い寄せられるような場所が見つかったんじゃよ。というか、ぶっちゃけると去年チズちゃんと改めて決別したあと、ふらふらしているうちに迷い込んだというか……」
「行きましょう。案内してください」
「う、うむ……急いだら今日中には辿り着けるじゃろう……」
こうして、私たち三人はチズちゃん探しの最有力候補地へ向かうことになった。
私は「意外と近くにあって助かったなぁ……」と思った一方、大人心さんが丸1年かけても見つけられない場所があったという事実に現実の残酷さを感じていた。やはり少女九龍城は無限の不思議を秘めていて、たった一人で全容を解き明かすのは難しいのかもしれない。
それでも……こうして時間をかければ目的を達成することはできる。
そのことを証明した大人心さんのことが、自分のことながら私は誇らしかった。
目的地へ向かうにあたって、大人心さんは予備のロープで私と大人椿さんの体を繋いだ。
私は大人心さんと大人椿さんに挟まれ、二人と手を繋いで歩くことになった。おそらく私が真ん中になったのは、大人心さんの気遣いだろう。二人と手を繋いでいることで真っ暗な中でも自分を見失わずにいられた。
移動中は自然に目的地の話題になった。
「わっちはその場所を『世界の果ての果て』と呼んでおる」
「世界の果ての果て?」
「そう、世界の果てに差し込むはずの光が全て集約された場所じゃ。世界の果ての不自然な暗さは、本来あるべき明かりが意図的に追い出されていることに由来する。まあ、光を嫌う者どもの住処だからそうもなるだろう」
そう言われて、私は大人心さんから聞いた仮説を思い出す。
案の定、大人心さんが大人椿さんに問いかけた。
「世界の果てというのはやはり邪悪な存在の住処なのでしょうか?」
「物の怪や悪魔のたぐいは住んでいるかもしれぬが、実際のところ、おぬしもそういうものには遭遇していないじゃろう?」
「確かに1年間探索していても、超常的な存在から攻撃されたことはありませんでした。声を聞いたり、気配を感じたりすることはありましたが、その程度のことなら世界の果て以外の場所でもよくありましたし……」
「これはわっちの勝手な妄想なんじゃけど」
大人椿さんはそう前置きしてから言った。
「世界の果てを住処にしているものたちは、確かに人間に害を成してしまう存在なのかもしれん。でも、あまり実害が出ていないことから考えるに、向こうさんとしても積極的に人間を攻撃したいわけではないのだろう」
「ということは……世界の果てというのは人間との接触を避けるための『緩衝地帯』ということでしょうか?」
「まあ、あくまでわっちの妄想じゃけどな」
大人椿さんはそう補足したものの、私にはちゃんと理屈の通った説に思えた。
(緩衝地帯か……)
それなら、世界の果て中から光が集められ、迷子になった人間が自然と行き着くという『世界の果ての果て』とは、ここに棲まう存在たちが人間用に用意してくれたセーフハウスのようなものなのかもしれない。
目的地についての話題が終わったあと、今度は大人心さんが話を切り出した。
「椿さん、どうしてチズちゃんと付き合わなかったんですか?」
その質問を聞いた瞬間、私は思わず吹き出しそうになった。
(そ、そんな核心を突くようなこと、このタイミングで聞いたりしますかねっ!?)
二人と両手を繋いでいる私には、両者共に手が汗ばみ始めているのが分かった。そりゃあ、こんな話題をぶっ込んだら汗をかくのも無理はない。二人の表情が見えないから、なおさら緊張感が高まってくる。
「チズちゃんがナルシストだったから……というわけではないですよね?」
「それが最初のきっかけではある。鏡で自分の姿を眺めながら、ひとりえっちに興じるチズちゃんを目的したときの衝撃は相当なものじゃった。でも、本当の理由は……」
大人椿さんが強く私の手を握り返した。
「チズちゃんのことを本気で好いてくれているおぬしたちだからこそ言うが、わっちはいわゆる不老不死なんじゃよ」
ここが真っ暗闇でなかったら、目玉が飛び出すほど驚いている大人心さんを見ることができたろう。そう思うのも、他ならない私自身が目玉が飛び出すほど驚くあまり、痛いくらいに両手に力が入ってしまったからだ。
(不老不死って本当なのかな……)
私は思わず疑いたくなるが、実際に10年経っても姿形の変わっていない大人椿さんを見てしまっている以上、ここは納得するしかない。
それに椿さんが不老不死だとすると、彼女の今までの行動は理にかなっている。成長もしなければ老いもしない不老不死が、一般社会で暮らしていくことはかなり難しいことは、あまたの漫画や小説やドラマで表現されてきたことだ。
その点、少女九龍城には家賃を払っていない住人が隠れ住んでいることがたまにあるし、学生寮だけあって住人たちも数年でがらっと入れ替わる。世界の果てで冬眠しながら住人たちの入れ替わりを待てば、また周囲に不審がられることなく少女九龍城で暮らせるという寸法なのだろう。
「わっちは昔から、不老不死である自分と寿命のある人たちの差を……時間のズレを感じていた。たとえ心を通わせることができても、時間はわっちを取り残してしまう。残酷だとは思わんか、なあ?」
大人椿さんを連れ出そうとしていたときは大人心さんの方が怒っていたが、今度は彼女の方が理不尽な現実に対して明確な怒りを露わにしていた。
確かに怒るのも無理はない。どんなことがあっても死ねない人の苦痛なんて、いくら創作物で知っていたところで本当の意味で理解することはできないだろう。もちろん、理解するために同じ立場になれるかの聞かれたらノーだ。そこまでの覚悟は持てない。
そうこうしているうちに遥か前方に微かな光を発見する。
いよいよ目的地が近づいてきたと分かって、私たち三人の足取りも速まった。
徐々に強まるまばゆい光に目を慣らしながら突き進む。
そのうち、世界の果ての果てから漏れ出す光の強さは、まるで真夏の炎天下のように強力なものになった。
私たちはいよいよ世界の果ての果てに足を踏み入れる。
「……な、なにここ?」
私は目の前に現れた光景にぽかーんとさせられてしまう。
世界の果ての果ては意外にも芝生の生えた小さい公園になっていた。
どうして公園だと分かったのかというと、丸く広がった芝生の真ん中にブランコが設置されていたからである。児童公園に置かれているような金属のフレームで地面にしっかりと固定されている一人用のブランコだ。
ブランコはゆらゆらと揺れ動いている。
風に吹かれて勝手に揺れているわけではない。
青いリボンをなくしたチズちゃんが乗っていたのだ。
うつむいてブランコを漕いでいる姿は寂しそうで、それは母親になかなか迎えにきてもらえなくて落ち込んでいる幼稚園児を彷彿させる。
私たち三人が走り出すと、それに気づいてチズちゃんもブランコを下りて駆けだした。しかし、彼女は両手を広げてこちらに近づいてきたものの、大人椿さんに抱きつく寸前で踏みとどまってしまった。そして、それは大人椿さんの方も同じだった。
「わっちは……すまぬ、おぬしの世界の倉橋椿ではないのじゃよ」
「なんとなく分かりました……雰囲気が違いましたから……」
お互いに申し訳なさそうにしている大人椿さんとチズちゃん。
大人心さんがそんなチズちゃんに説明してくれる。
「私と椿さんは10年後の世界からやってきたんです。私は自分の世界の椿さんを探している途中で10年前の自分と偶然出会って、迷子になったあなたを探すために協力してほしいと言われまして……」
「10年後……」
流石に突拍子もなさ過ぎて、チズちゃんは事情を上手く飲み込めないらしい。
彼女は目をパチパチさせながら、ようやく私の方に視線を向けた。
しかし、私は反射的に目を背けてしまう。
(約1週間ぶりに見るチズちゃん……か、可愛すぎる……)
あんなことがあったのに再会したときの感想がこれなのは、我ながらあきれてしまう。
しかも、青リボンを解いて髪を下ろしている状態はレア中のレア!
そりゃあ、お風呂に入っているときは髪を下ろしているけど、ちゃんと服を着ている状態で髪を下ろしている姿はなかなか見られるものじゃない。色気が普段の2倍は出ている。
なんかいつもより、においまでかぐわしく感じられた。1週間にわたる迷子生活によって体臭が熟成されているのだろうか? 正直、今すぐに抱きついて髪のにおいとか嗅いでみたい。
「心さん……ほら、ちゃんと言わないと……」
大人心さんに肘で小突かれて、私はハッと我に返る。
すぐさま、脳天を地面にこすりつけるような勢いで頭を下げた。
「チズちゃん、愛人にしてなんて言ってごめんなさいっ!!」
「ちょ、ちょっと……長谷部さんっ!?」
「チズちゃんの気持ちを考えず、私は自分勝手なことを――」
「いやいや! 私の方こそ、ろくにお話も聞かないで出て行ってしまって……」
ぺこぺこと謝り合いになってしまう私たち。
大人心さんが「ほら、もっと大切なことが!」と横から助言してくれる。
私はようやく顔を上げると、チズちゃんに向かって右手を差し出した。
「チズちゃん、友達からお願いしますっ!!」
言った。
ついに言った!
これがきっと正しい第一歩。
そう信じる私の手をチズちゃんはそっと握ってくれた。
「私も長谷部さんのお友達になりたいです。探しに来てくれてありがとうございました」
柔らかな手のひらから彼女の体温が伝わってくる。
大人心さんとも大人椿さんとも散々手を繋いできたのに、チズちゃんと手を握った瞬間に生まれて初めて人と触れ合ったかのような感動が込み上げてきた。胸の奥でわだかまっていたものが一気に吹き飛ばされ、全身が軽くなって浮き上がったようにすら感じる。
「て、天使……」
チズちゃんの姿が神々しく見える。
彼女はもしかして冴えなかった私の人生を彩るため、天界から使わされた天使ではないのだろうか。私の人生は彼女に出会ったことで初めて色づいた。モノクロの世界で生きてきた私をチズちゃんが救い出してくれたのだ。
(いや、まあ……百合というジャンルに出会えた時点から割と楽しい毎日を過ごしてたけど、リアルでの恋愛というのは別次元というか、やっぱり初恋って胸キュンっていうか、チズちゃんの存在があらゆるフィクションよりもドストライクというか……)
「長谷部さん?」
「……いえ、とりあえず今は帰りましょう。協力してくれた二人のことも、無事に元の世界へ送り届けなくちゃいけないですしね」
私たちは世界の果ての果てで休息したあと、改めて『世界の果て駅』を目指して引き返すことにした。
道中は事の次第をチズちゃんに説明したり、大人心さんと大人椿さんの昔話(私とチズちゃんにとっては現在の話)を聞いたりしていた。
大人心さんは(別世界の存在とはいえ)チズちゃんを前にして複雑そうにしていて、最初こそ言葉数が少なかったものの、次第に昔話に花を咲かせるようになった。私としてはほんの数年前にあったエピソードをほじくり返されて恥ずかしい気持ちにさせられたが……。
ちなみに私とチズちゃんは未来の出来事について全く聞かなかった。
過去に干渉してでも変えなくちゃいけない未来があるとしたら、それは大人心さんと大人椿さんから教えてくれるだろうし、そもそも『私たちの世界』と『チズちゃんと椿さんが結ばれなかった世界』が同じ未来をたどるとは思えない。
(あとは……そう、未来は自分の手で切り開く的な?)
正直な話、私はこれからのことが楽しみすぎて浮ついていたのだった。
私たちが『世界の果て駅』に2日かけて戻ってくると、駅のホームにはいつの間にやら有線の黒電話が設置されていた。
どうやら、それは私たちを心配して管理人さんが設置してくれたものらしく、私は昔懐かしい黒電話で管理人さんへ迎えに来てくれるよう電話した。
管理人さんはすぐにメトロ九龍で駆けつけてくれて、私たちはその車両に乗り込んだところでようやく世界の果てから脱した事実に安堵した。そうして完全に気が抜けた結果、私たちはそろいもそろって客席で居眠りしてしまったのだった。
私たちは始発駅で管理人さんに揺り起こされると、宇宙から地球に帰ってきたばかりの宇宙飛行士のように、だるくなった体を引きずるようにしてメトロ九龍の車両から降りた。
メトロ九龍の始発駅は地下放水路を思わせるコンクリート打ちっ放しの巨大空間で、最初に来たときはそのスケールの大きさに圧倒されたものの、こうして帰ってくるとまるで実家に戻ってきたような安心感があった。
「椿のやつ、千鶴を心配しすぎて寝込んでるから早く行ってやりな」
「本当ですかっ!? じゃあ、そのっ……ここで失礼しますっ!!」
管理人さんからそう伝えられると、チズちゃんは私たちにぺこりと一礼してから、歩き通しで疲れているとは思えないスピードで階段を駆け上がっていった。
(早速帰って一寝入り……いや、その前にちゃんと二人を見送らなくちゃね)
私は大きく伸びをして、それから大人心さんと大人椿さんの方に振り返る。二人とも流石に疲れているようで、冷たい駅のホームに腰を下ろしていた。
「それじゃあ、帰り道を探しましょうか」
「いやいや、それには及ばないですよ」
パタパタと手を振る大人心さん。
無造作に伸びた前髪の隙間から、達成感に満たされた満足顔が覗いていた。
「お互いの抱えている問題を解決するために別世界へ呼び出されたわけですからね。それが解決したんだから、きっと自然に元の世界へ戻れますよ。それが少女九龍城のいつものパターンじゃないですか」
「ははぁ……10年後の少女九龍城もそんな感じなんですね」
私と大人心さんは気が抜けた感じに笑い合う。
そんな私たちを眺めながら、管理人さんがおいしそうに煙草を吸っていた。
椿さんが口を開いたのはそんなときだった。
「心ちゃんには悪いけど……わっちはやっぱり世界の果てに戻るよ」
(続く)
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