第56話 私たちインアビス

 私、長谷部心(はせべ こころ)と倉橋椿(くらはし つばき)さんが世界の果てで遭遇した謎の女性……その正体は大人になった私だった。

 ここでは私と区別するために『大人心さん』と呼ぶことにする。


 長身の女性改め大人心さんを連れて、私と椿さんはメトロ九龍でひとまず始発駅まで引き返すことにした。

 私たちは横長の客席に並んで腰掛け、車窓の外を流れる風景を眺めながら、ひとまず大人心さんから詳しい話を聞いた。

 しかし、話を聞いている間の私はかなり上の空だった。


 世界の果てから大人になった自分が現れたことにも驚かされたが、大人になった自分が未だに高校時代の体操服を着ていて、優雅さのかけらもないクソダサ陰キャのままであるという事実に重ねてショックを受けていたからだ。


 もちろん、身長がやたらと伸びていることにも地味に驚かされた。間違いなく170センチは超えているし、たぶん七頭身くらいになっている。まあ、背が高いだけでモデル体型とはほど遠いけど……。


 あらかた話を聞いたあと、椿さんが話の要点を要約した。


「つまるところ、おぬしは『加納千鶴(かのう ちづる)と倉橋椿が結ばれなかった世界からやってきた長谷部心』ということじゃな?」

「はい……私の世界の椿さんが失踪してから10年間、ずっと彼女を探し続けていました。でも、まさか別世界の椿さんと出会ってしまうなんて……椿さんとチズちゃんが幸せになれた世界も存在していたんですね……」


 今もなおめそめそと泣き続けている大人心さん。

 私は大人チズちゃんの言っていたことを思い出す。


 別世界の私といえば『椿さんが失踪して傷心中のチズちゃんに告白し、手ひどく振られた直後から行方不明になっている』らしいが、どうやら自宅に引きこもっていたわけではなく、チズちゃんに対する罪滅ぼしのつもりで椿さんを探し続けていたようだ。


(それじゃあ、椿さんを見つけて喜ぶはずだよね……)


 しかし、実際に見つかったのは『チズちゃんと結ばれた世界の椿さん』だったわけで、大人心さんにとっては残念なことこの上ない話だろう。少女九龍城に神様がいるとしたら、あまりにも住人少女の運命をもてあそびすぎだ。


 そして、やはり世界の果ては恐ろしい場所である。あそこから大人心さんが出てきたということは、世界の果てではあの中庭のように時間が歪んでいるのだ。

 ともあれ、大人心さんとの出会いは私たちにとっては幸運と考えられる。


「あの……わ、私……?」


 私は大人心さんに声をかける。

 なんと呼んだらいいか分からなくて、とてもぎこちない呼び方になってしまった。


「な、なんですか……私?」


 案の定、大人心さんの方も受け答えがぎこちない。

 そんな光景を見せられて、椿さんが「ははは」と苦笑いした。


「別に自分同士だからって『私』と呼ばなくていいじゃろう? しかも敬語じゃし……」

「そ、それじゃあ、なんて呼び合えばいいんですか?」

「普通に『心』って呼べばいいじゃろう」


 呼び捨てか……。

 相手が自分といえども、呼び捨ては距離が近すぎる気がする。

 一番仲のいい二宮さんにすら『長谷部さん』と呼んでもらっているのに……。


「じゃあ、その……10年後の心さん?」

「な、なんですか、10年前の心さん?」


 駄目だこりゃ、と椿さんが天を仰いだ。

 自分自身とすらまともに距離を詰められない。

 これがコミュ障陰キャの神髄なのだ。


「ええと……私たちは世界の果てに迷い込んだチズちゃんを探しているんです」

「チ、チズちゃんを!? そうですか、そっちの世界ではチズちゃんの方が……」

「でも、私たちには世界の果てでチズちゃんを探せる力がなくて……だから、それを心さんに手伝ってほしいんです。世界の果てから出てきたってことは、心さんは世界の果てで椿さんを探していたってことですよね?」

「それは、まぁ……」


 大人心さんが体操服の袖で濡れた頬を拭う。

 途端、彼女の表情が別人かと思うほど引き締まった。


 別世界の自分自身とはいえ、己がそんな顔をするとは思わず、私は内心かなりびっくりさせられていた。そもそもの話、10年間も椿さんを探すことだけに人生を費やしていることが信じられない。この人は本当に私と同一人物なのだろうか?


「……これも神のお導きというやつですかね」


 大人心さんが両膝をパンッと力強く叩いた。


「やってみましょう。なんにせよ、私は椿さんを探すために世界の果てへ潜らなくちゃいけないんです。チズちゃんも一緒に探したって手間は変わりません。ただし、チズちゃん探しには私についてきてもらいます」

「わ、私ですかっ!?」


 ボサボサに伸び散らかした髪の隙間から、大人心さんの真剣な眼差しが覗いている。

 どうやら本気で言っているらしい。


「10年後の私がこうして世界の果てを歩き回れているんです。それなら10年前の私だって訓練次第で同じことができるはず。本当にチズちゃんのことを愛しているのなら、私には無理なんて情けないことは言わないでください」

「うっ……確かにその通り……」


 的を射た発言に心をグサッと刺される。


「大体、世界の果てなんて危険な場所を他の誰かに探させるわけにはいかない……」

「わっちもついていこうか?」


 椿さんが心配そうな顔をして挙手する。

 しかし、それを大人心さんが押しとどめた。


「いや、それには及びません……というか、私が二人も連れて行ける自信がないです。それにやらかした原因の私ならともかく、椿さんの命まで預かることはできません。椿さんはちゃんとチズちゃんの帰りを待ってあげてください」

「そこまで言うなら……でも、二次遭難にだけは本当に気をつけるんじゃぞ?」


 椿さんの気遣いを受けて、私と大人心さんは同時にうなずいた。



 メトロ九龍が始発駅に到着したあと、私は準備のために生活区画へ戻った。

 椿さんの許可を得てチズちゃん愛用のライト付きヘルメットを拝借し、大人心さんから頼まれた必要品の数々をリュックに詰め込んだ。

 椿さんの言ったとおり、世界の果てでは本当に食事や水分補給の必要がないらしい。そのため、幸いにも食料や水が満載の重い荷物を背負う必要はなかった。


 チズちゃんの青いリボンが見つかり、彼女が世界の果てで迷子になっているかもしれないという話は、すでに住人仲間たちの間で噂になっていたが、私は自分が世界の果てへ向かうことを誰にも知らせなかった。

 知らせたら間違いなく止められるだろう……というか、もう管理人さんには猛烈に止められていて、説得するのにかなり苦労した。管理人さんが心配してくれるのはありがたいけど、これは私なりのけじめなのだ。


 そんな一方、大人心さんには食事を取ってもらったり、お風呂に入ってもらったりして英気を養ってもらおうかと提案したけど、彼女にハッキリと断られてしまった。

 どんなきっかけで元の世界に戻るか分からないし、なにより過去の知り合いと顔を合わせるのが気まずいらしい。そういう小心者なところはやっぱり私と同じだ。


 私は準備を終えて戻ってくると、大人心さんと共にメトロ九龍へ乗せてもらい、再び世界の果てへ向かって出発した。その際には椿さんが見送ってくれて、彼女がレトロな服装で私たちに手を振る様子は、まるで戦争に出兵する兄弟を見送る少女のようだった。


 さて、こうして大人心さんと二人きりになって分かったことだけど――


(……な、なんか気まずい)


 別世界の自分に聞きたいことがないわけではない。

 でも、本当に聞いてみてもいいものか……。

 結局、私は我慢できず質問を投げかけた。


「あの……どうして、あんなタイミングで告白しちゃったんですか?」

「ブハァ――ッ!?」


 大人心さんは飲んでいたスポーツドリンク(私が頼まれて持ってきたものだ)を思い切り吹き出した。

 げほげほと咳き込みながら、彼女は私に聞き返してくる。


「な、なんで知ってるんですか、そんなことぉ……」

「そっちの世界のチズちゃんから聞いたんです」

「チ、チズちゃん……ううう……やっぱり私のことを今も嫌って……」

「い、いや……あれは単に私をからかおうとしていただけだと思いますよ?」


 正直な話、あっちの世界のチズちゃんはかなりひねくれたところがある。

 椿さんとの別れが彼女の性格を変えてしまったのだろう。

 大人心さんがげんなりした顔でさらに聞き返してくる。


「そっちこそ、どうして『愛人にしてください』なんて言っちゃったんですか?」

「ちょっ!?」


 瞬間的に全身から冷や汗があふれてきた。


「だ、誰が言ったんですかっ!?」

「椿さんですよ。私が待ってる間の話し相手になってくれて……」

「……いや、本当は私の口から話しておくべきでしたね」


 これから大変なことを手伝ってもらうのに、どうしてこんな事態になったのかも知らせないというのは確かにおかしい。とはいえ、己のやらかし話を知られてしまうというのは、相手が自分でも非常に恥ずかしかった。


(お互いの告白失敗エピソードを知って、痛み分けってことでいいかなぁ……)


 とりあえず、この話題はもうやめておこう。

 そんな空気が私たちの間に広がった。


「……そ、そういえば、世界の果てって一体なんでしょう?」


 私は強引だと承知しつつ話題を変えた。


「光も音も届かない、お腹も減らないし喉も渇かない、時間が歪んでいる……超常現象満載の少女九龍城の一部にしたって不気味すぎます」

「私の世界の稗田さんが言うところによると、少女九龍城の奥深くというのは、若い女性たち……つまりは巫女たちによって守られた『神域』なんだそうです。神域とはつまり神様なんかの住んでいる場所で、しかも外の世界に居場所を失った超常的存在がわんさか集まってくるのだとか……当然、よいものも悪いものも……」

「悪いものも……って、それって悪霊とか妖怪とかですか?」

「そういうわけです。そして、世界の果てというのはそういった悪いものが集まった場所なのではないか――と稗田さんは言っていました。基本的に他愛のない超常現象しか起こらない少女九龍城において唯一のデンジャーゾーンってわけです」

「め、めちゃくちゃ危険じゃないですか……」

「稗田さんの研究によると、少女九龍城と同じような性質を持つ場所が世界中にちらほらと存在しているらしいです」

「えええ……」


 世界中に少女九龍城みたいな場所がたくさんあり、そこに数え切れないほどの女の子が住んでいるまではいいとして、悪霊やら妖怪やらまで奥の方に住んでいるなんて……ぶっちゃけ知りたくない事実だった。


「まあまあ、そこまで心配することはないですよ。現に私が無事に帰ってきたわけですしね」


 大人心さんがうつむいている私の背中をさする。

 気持ち悪くなったときは背中さすさすが一番。

 それを知っているとは、流石は別世界の私である。


(実際に探索を始める前からグロッキーになってたら世話ないよなぁ……)


 私は今しばらく、自分の気持ちを落ち着かせるのに集中する。

 メトロ九龍の静かな走行音は、波立った心を静めるのには最適だった。



 メトロ九龍が『世界の果て駅』に到着するなり、大人心さんは自分の腰にロープを結ぶと、それから私の腰にも同じようにロープを結んで繋いだ。その手つきはかなり手慣れていて、登山やキャンプに詳しい人がやるような複雑な結び方をしていた。


「二人とも絶対に無茶はするなよ」


 運転席から出てきて、最後の準備を見守っていた管理人さん。

 いつもは剛胆な彼女といえども、今回ばかりは不安が表情に現れている。

 ロープを結び終えた大人心さんが、そんな管理人さんに微笑みかけた。


「大丈夫です。心さんのことは私が守ります」

「心……10年経ったら随分と頼もしくなったな」


 管理人さんの表情が微かに和らぐ。

 その一方、大人心さんが『微笑みかける』なんて高度な感情表現をしたことに私は心の底から驚いていた。


(この他者を励ます心の余裕、一体どこから出てくるんだろう……)


 私と大人心さんはいよいよメトロ九龍の車両を出る。

 ホームに降り立った瞬間、ヘルメットについているライトの明かりが弱まった。正確にはライト自体が弱まったわけではなく、ライトの明かりが闇に吸収されてしまったのだが、あまりにいきなり暗くなったので一瞬故障でもしたのかと誤解してしまう。

 私は自分の手のひらを見ようとするが、顔にくっつくほど近づけないと手の形すら分からなかった。


「それじゃあ、私の後ろをゆっくりとついてきてください」

「わ、分かりました……」


 大人心さんの先導に従って、私は暗闇の中を歩き出す。

 歩き出した途端、すぐに猛烈な違和感を覚えた。

 真っ直ぐ歩くことができず、左右にふらついてしまう。


 前を歩いているはずの大人心さんの背中も、自分の手足も見えない……ぶっちゃけ目を閉じて歩いているに等しい状態なので、ふらつくなという方が無理な話だ。


 それに加えて、足音が聞こえてこないのが実に不気味である。トンネルの中なのだから音が反響してしかるべきなのに、まるでゴムマットの上を歩いているかのように音が響かない。固いコンクリの地面を歩いているはずなのに靴裏の感触も妙に思えてくる。


 おまけに吹き付けてくる風が絶妙に生暖かく、自分の体温と空気の温度の境目が全然分からない。いつもの体操服を着てきているのに、なんだか素っ裸で温水プールの中を漂っているような気分になってきた。


(なんだか、体がふわふわと……)


 それは突然に起こった。

 私の体がぐるんと回転しながら空中に浮き上がったのだ。


「うっ……うぁあああああっ!?」


 かと思ったら、今度はものすごい勢いで落下し始める。

 その間も体は高速で回転を続けて、遠心力のかかった体の先端部に血液がたまってきた。

 熱湯でも飲んだかのように全身が熱くなり、ねばついた汗が噴き出してくる。

 私は必死に腰に結びつけられたロープを探そうとしたが、両手は空を切るばかり……いや、それどころか両手の感覚すらなくなりかけていた。


「た、助けてぇっ!! 死ぬっ……死んじゃうぅううううっ!!」

「落ち着いてっ! 落ち着いて、心さんっ……ほらっ、しっかりしろっ!!」


 突然、両の頬を力任せにひっぱたかれる。

 釣り上げられた魚のように背筋がびくんと反り返り、私はようやく自分がコンクリの地面に仰向けで倒れていることに気づいた。どうやら、大人心さんが私のお腹にまたがって、暴れ回っていた私の体を押さえつけてくれたらしい。


「は、吐きそう……」


 正気に戻った途端、強烈な吐き気が込み上げてきた。

 大人心さんにどいてもらって、私は胃の中のものをリバースする。

 そして、ふらふらになりながら荷物から貴重なミネラルウォーターを取り出し、それで口の中をゆすいだ。喉は渇かないから飲み水は要らないと聞いていたけど、念のために一本だけ持ってきて本当によかった。


「ごめんなさい、私の見込みが甘かったです」


 大人心さんが私の背中を優しくさすってくれる。


「心さんはやっぱり帰ってください。ここは危険すぎます」

「……い、いえ、吐いたら楽になりました」


 私は体を冷まそうと体操服のジッパーを開けた。

 胸元をパタパタさせて、汗ばんだ服の中に空気を送り込む。


「心さんの方こそ、どうやって耐性をつけたんですか?」

「こればかりは訓練としか言い様がないですね。少女九龍城を長年歩き回ってるうちに、どんな場所を歩いていても方角を見失わないようになったり、自分の歩いた道のりが頭の中で立体図になるようになったんです」

「心さん、まるでチズちゃんみたいですね……」

「うぇっ!?」


 驚いたのか、動揺したのか、嬉しがっているのか、恥ずかしがっているのか。表情が分からないので断定できないが、大人心さんが素っ頓狂な声を漏らした。


「い、いや……チズちゃんに比べたら私なんかまだまだ……。チズちゃんが10年前に地図作りをやめていなかったら、きっと世界の果ての地図だって作っていたでしょうし……」

「自信を持っていいと思いますよ、心さん」


 それから、私たちは他愛ないことを話しながら探索を再開した。

 その間、大人心さんは私の手を握ってくれていた。


 話題が途切れたとき、あるいは話し疲れたとき、無言の時間を彼女の体温が私の正気を保ってくれた。私たちはほぼ五感を封じられているに等しい。しかし、大人心さんと手を握りしめ合っていると、手と手の間に熱がこもり汗がたまって、そこだけ他とは違う他者の存在というか、命の鼓動というか……とにかくそういうものが感じられるのだ。


 まるでチズちゃんみたい、と言ったのはお世辞でもなんでもない。

 私にとって大人心さんはそれだけ頼もしかったのだ。

 彼女はもう私のようなコミュ障で陰キャの駄目人間ではない。

 10年間で一回りも二回りも、心身共に大きく強く成長していた。


「心さんは世界の果てで椿さんを探し始めてどれくらいになるんですか?」

「うーん……本格的な探索はここ1年くらいですかね。もちろん、世界の果てに行きっぱなしだったわけではなく、長くても一度の探索は3日にとどめるようにしていました。外での用事もありますし、お風呂に入ったりなんだりしたいですしね」


 大人心さんは大したことでもないように答えた。


「世界の果てを探索する準備だけで1年間かかっていて、それよりも前はずっと少女九龍城の中を探し回っていました。チズちゃんや他の女の子たちと顔を合わせないようにしていましたから、そのせいで失踪したことになっていたんでしょうね」

「どうして、椿さんはこんな場所に隠れたり……」


 少女九龍城から出て行くだけでは駄目だったのだろうか?

 わざわざ、こんなところで冬眠することを選ばなくても……。


「それは私にも分かりません。でも、一度だけ少女九龍城に戻ってきた椿さん自身が『自分は世界の果てにいた』ということを言っていたらしいんです。わざわざ言ったってことは、本当は探してほしいってことだと思いませんか?」

「いわゆる『止めないで!』ってやつですかね……」


 椿さんにもそんな素直になれない初心な女の子みたいな一面があるのだろうか?

 いや、どれだけサバサバしていたとしても女の子は女の子なのだ。

 彼女にだって乙女心というものはあるのだろう。



 心身共に疲れ切った私と大人心さんは早めに1日目の探索を切り上げた。

 固いコンクリートの地面に寝袋を敷き、私たちはなるべくくっついて寝ることにした。

 お互いの寝息が微かに聞こえるだけでも心の負担が大きく和らいだ。

 で、タイマーをかけてたっぷり眠ること8時間。


「ト、トイレ行きたいです……」


 翌日、私の尿意は限界に来ていた。

 いくら飲食が必要のない空間といっても、世界の果てに足を踏み入れる前に飲み食いした分は消化しなくてはいけない。改めて考えてみると、生きるために食事が必要のない世界ってかなり快適なのでは?


「それじゃあ、ロープを長めにしますね」


 寝袋をまとめていた大人心さんがすぐに気を利かせてくれる。

 相手が自分自身とはいえトイレの音を聞かれたら恥ずかしいし、万が一荷物にかかってしまったりしたら洒落にならない。

 私はライト付きのヘルメットをかぶり、できるだけ大人心さんから離れた。

 体操服のズボンとパンツを下ろして地面にしゃがみ込む。


(足とか靴とかにかかりませんように……)


 野外でトイレを済ますなんて幼稚園児のとき以来だ。

 私が背徳的な解放感に浸っていると――


「……おぬし、誰じゃ?」

「ぐぎゃぁ――――――――っ!!!!」


 突然、目の前に何者の顔が現れて、私は大絶叫を上げてしまった。

 トイレが終わっていないのに尻餅をついて動けなくなってしまう。


「だ、だれーっ!? お化けっ!? それとも妖怪っ!?」

「お、落ち着け! わっちは人間じゃ!」


 何者かがパニックに陥った私の両手首をつかんできて、ぞわぞわっと全身に鳥肌が立った。


「に、にんげ……人間っ?」

「そうじゃ! ほら、よく見たら可愛いじゃろ!」


 私は両手首をつかまれたまま仰向けに押し倒された。

 ヘルメットについているライトが何者かの正体を映し出す。


「あなたは……」


 真っ暗闇の中でライトアップされたのは、私も見慣れている椿さんの顔だった。

 念のためにライトを近づけて全身を確認する。

 顔だけ椿さんで胴体が蛇……というわけではなく、ちゃんと人間の体つきをしていた。ただし、彼女のお気に入りの赤襦袢は何故かぼろきれのようになっている。

 ということは、もしかしてこの椿さんは――


「心さんっ! 何かあったんですか、心さんっ!」


 私の体に結ばれたロープを引っ張りながら、大人心さんがこちらに近づいてきた。

 彼女はロープをたぐって私の体を起こしてくれる。

 二人分のライトが重なって、暗闇の中に椿さんの全身像を映し出した。

 どこからどう見てもやはり椿さん本人である。


「椿さんっ!? まさか、私たちを追いかけて――」


 大人心さんも不自然な点に気づいたのか、彼女はすぐに言い直した。


「……ようやく見つけましたよ、私の世界の椿さん」



(続く)

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