第54話 β世界線との遭遇

 天井から吊り下げられたミラーボールがゆっくりと回転している。

 それから放たれる無数の光が部屋中を照らし、まるでプラネタリウムのようになっていた。

 私、長谷部心(はせべ こころ)は仰向けの状態でその光景を眺めている。


(……私、なんでこんなところに?)


 昨日の夜はちゃんと自室の布団で寝たはずだ。

 少女九龍城は超常現象が日常茶飯事だけど、まさか寝ている間にどこかへ移動させられてしまったとか? なんだか頭がぼーっとして上手く物事を考えられない。それどころか、体も金縛りに遭ったかのように動かない。


(私の体はどうなって……う、うわっ!?)


 自分の姿を確認してギョッとしてしまう。

 大の字に広げている両手両脚が赤色のリボンで縛られていた。リボンの先は寝かされているベッドの下に伸びており、おそらくはベッドの足に結ばれているのだろう。そして、ベッドに敷かれているシーツはつやつやとした紫色でいかにも妖しい雰囲気をしている。


 とどめに全裸だ。

 もちろん、私に素っ裸で寝るような趣味はない。


「こーこーろーさん?」


 不意に猫なで声が聞こえてくる。

 大きく広げた股の間にいつの間にか誰かが腰を下ろしていた。

 その誰かの顔を見て、私はまたもやギョッとさせられる。


「チ、チズちゃんっ!?」

「すごい格好ですね、心さん。そういうの、好きなんですか?」


 チズちゃんこと加納千鶴(かのう ちづる)さんは今まで見たことのないような嗜虐的な笑みを浮かべていた。


 身につけているのは黒くてスケスケのキャミソールのみで、彼女の体のラインがハッキリと透けて見えている。乳房は小ぶりながらも品がよく、色の薄い乳首がキャミソールの布地をツンと押し上げており、地図作りで鍛えられている体はほっそりとしていながら健康的で、ウェストはくびれてお尻がぷりんと持ち上がっていた。


 椿さんからプレゼントされたという青いリボンをほどき、いつもはポニーテールにしている髪を垂らしている姿はセクシーの一言で、髪から漂ってくる甘い香りは思わずむせそうになるほど私の鼻腔を刺激した。


(や、やばい……鼻血が出そう……)


 憧れの女性の下着姿を前にして興奮が止まらない。

 そりゃあ、チズちゃんの下着姿は脱衣所で見たことがある。というか、大浴場なら裸だって余裕で見られる。彼女の盗撮写真だって持っている。しかし、この私に向かって淫靡に迫ってくる光景はやはり特別だった。

 全身が熱くなってきて、じっとりと汗ばんでくるのを感じる。


「あ、あの……私は……もう、何がなんだか……」

「好きなんですよね、こういうの?」


 チズちゃんが私のおへそを指でツンツンする。


「んひっ!? や、やめてください、チズちゃんっ……」

「私とこういうこと、したかったんですよね? 正直に言ってくれないとやめませんよ?」

「そ、そんなぁ……」


 おへその下辺りを指先でくるくるとなでるチズちゃん。

 軽く爪を立てているのが絶妙にくすぐったい。

 チズちゃんはうっとりとした顔をして私を見つめてくる。

 その表情は大好きなご馳走を前にしたときそのものだ。


「おいおい、チズちゃん。おぬし一人だけで楽しむつもりかえ?」


 突如、聞き慣れた声が私のすぐ右から聞こえてくる。

 そこに現れたのは赤襦袢をはだけさせた倉橋椿(くらはし つばき)さんだった。


 真っ直ぐに切りそろえられた前髪の奥から好色そうな目を覗かせ、獲物を目の前にした肉食獣のように舌なめずりしている。はだけた赤襦袢から見えている彼女の体は、第二次性徴を始めたばかりの少女そのもので、限りなく無垢であると同時に大人の女性にはない独特の淫靡な雰囲気を漂わせていた。


(け、毛がない……どことは言わないけど……)


 椿さんが戸惑う私の体にぴったりと添い寝してくる。

 ふくらみかけの乳房が右脇腹に押しつけられ、


「ふにゅっ!? つ、椿さん、いきなり何を……」


 私は思わず変な声を漏らしてしまった。

 ささやかなふくらみの頂点で、青いつぼみが固く勃っていることすら分かってしまう。


「おぬしのことを前々から狙っていたと言ってたじゃろう?」

「そそそ、それはチズちゃんの気を引くための演技じゃ……」

「そんなわけなかろう。わっちは本気で堕としたい子だけに声をかける主義なのじゃ」

「――ちょっと、椿さんっ!」


 チズちゃんが少し怒った様子で、負けじと抱きつくように添い寝してくる。キャミソールの生地越しでも、彼女の体温がありありと伝わってきた。感じるふくらみは椿さんのものよりも大きく、私の脇腹にむっちりと押しつけられている。


「心さんは私のことが好きなんですよ? 横取りなんてしないでください」

「本当にそうなのかのう? 案外、わっちとも手合わせしたいと思ってたりとか……以前にわっちに誘われたときも満更でもなさそうな顔をしておったしな。守備範囲なんじゃろう、百合の不倫とか寝取られとかも……」

「本当ですか、心さん? くすっ……それってちょっとヘンタイですよ?」


 左右から挟まれての言葉責め。

 いよいよわけが分からなくなり、私の意識が急速に遠のいていく。

 くすくすと笑う二人の声が頭の中で反響していた。


 ×


「――という夢を見たわけッスね?」

「……はい」


 ある日のこと、いつものように二宮梢(にのみや こずえ)さんが私の部屋へ遊びに来ていた。私と彼女は薄っぺらの座布団にあぐらをかいて座り、まるで地球の未来について議論するような真剣な表情で話し合っていたのだった。


「長谷部さん、たまってるんスか?」

「そ、その言い方はやめてよぉ……」

「別に気にすることないじゃないッスか、女同士なんスから。というか、私が盗撮写真の使い道について何一つ想像してないとでも思ってたんスか? 私は写真をどう使われようと気にしないッスし、別に長谷部さんのことを変に思ったりとかは――」

「いや、今までは本当に何もしてなかったんですって!」


 二宮さんが「ホントぉ?」と疑いの眼差しを向けてくる。

 私は顔が真っ赤になりながら弁明した。


「そりゃあ、エッチなことをしている最中の盗撮写真を二宮さんから買ってますし、エッチ描写ありの百合漫画や百合小説もたしなんで来ましたよ。もちろんドキドキしました。でも、だからといってエッチな気持ちになったことは……」

「まあ、これでハッキリしたんじゃないッスか?」


 二宮さんが神妙な顔をして言い放つ。


「長谷部さん、あなたはガチの……同性愛者なんスよ」

「ううう……やっぱりそうだよねぇ……」


 チズちゃんに恋をしてもなお明確に自覚できていなかった。

 否、自覚できた今になって考えると『気づかないフリをしていた』と言うべきか。

 ともかく、もはや自分自身を誤魔化すことはできない。


(だって……夢の続きを見られなくて残念に思っちゃってるんだもんっ!!)


 もう性欲を抑えられない。

 あのまま夢を見続けていたら、ミス少女九龍城の二人から取り合われるという神シチュエーションを楽しむことができたというのに……単に目覚めの時刻を迎えただけなのか、私のメンタルが貧弱すぎて夢の中で気絶してしまったのか……。


「ショックそうッスね」

「そりゃあショックですよ! いくら百合が好きだからって、自分が本当にガチとは思わないじゃないですか。それに家族にもどう説明したものか……。いくら理解してくれる人が増えてきたからといっても、リアル同性愛を取り巻く環境は今も厳しいですし……」

「単なる百合好きなのか、あるいは同性愛者なのか……それを延々と悩み続けるよりも、ちゃんと答えを出せたことを今は前向きに捉えるしかないッスね。もちろん、そう簡単に割り切れるものでもないと思うッスけど」

「ですよねぇ……」


 背骨を抜かれたかのようにぐんにゃりとうなだれる私。

 前のめりになりすぎておでこが畳にくっついてしまう。

 そんな私の落ち込んだ姿を目の当たりにして、二宮さんが正座に座り直したかと思うと、ぽんぽんと自身の太ももを軽く叩いた。


「ほら、そんな変な格好してないで、ここに頭をのせるッスよ。メンタルをやられちゃったときは膝枕に甘えるのが一番スから」

「マジですかっ!?」


 二宮さんの提案につられて、私は反射的に顔を上げる。

 しかし、即座に思いとどまって首を横に振った。


「い、いや……やっぱりそれはまずいですって! 私、ガチなんですよっ? もしかしたら、二宮さんの膝枕に興奮しちゃうかもしれないじゃないですか! そんなことになったら二宮さんに申し訳ないし、自分自身にも嫌悪感だし……」

「長谷部さんは今めちゃくちゃへこんでるんスから、四の五の言ってないで大人しく膝枕されるッスよ」

「神か……」


 磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、私は二宮さんの太ももに顔面から突っ込む。

 学生服のスカートから剥き出しになっている太ももは、見た目はすらっとしているのにむちっと柔らかく、しかも洗濯したばかりの布団のようなお日様のにおいがした。


「ひ、膝枕をするとは言いましたけど、いきなりうつぶせッスか……」

「ご、ごめん……でも、もう少しだけこのまま……」


 ×


「迷った……」


 明くる日のことである。

 大浴場からの帰り道、唐突に迷子になってしまった。


 洗濯物の入ったビニールバッグを抱えて、若干のぼせた状態でふらふらと歩いていたら、いつも通りの道順で歩いていたはずなのに見知らぬ場所へ出てしまったのである。無論、引き返したところで帰り道は見つからなかった。


(先週チズちゃんに助けてもらったばっかりなのに……)


 私は板張りの廊下にしゃがみ込み、頭上に吊り下げられたオイルランプ(いつ誰が明かりをつけ、油を補充しているのだろう?)の明かりを頼りにスマホの画面を見つめた。


 ここで素直に電話すれば、チズちゃんは助けに来てくれるだろう。そうなれば今度こそ二人きりになれる。立て続けに迷子になったところを助けてもらって、いよいよ好感度がMAXになって告白に踏み切った……という雰囲気も演出できるかもしれない。


(でも、あんな夢を見た昨日の今日でチズちゃんに会うのは――)


 思い悩んでいた私の首筋にどこかから風が吹き付けてくる。

 拭いきれなかった水滴がひやりとして、反射的に風の吹いてきた方へ振り返った。


 廊下の奥の方に青白い月明かりが差し込んでいる場所を発見する。そこは四方をガラスに囲まれた小さな中庭で、半開きになったガラス張りのドアの隙間から外気が流れ込んできているらしかった。


 私は吸い寄せられるように中庭へ近づく。

 中庭の地面にはレンガが敷き詰められており、小さな花壇があつらえられていた。

 そして、一人の女性が花壇にじょうろで水やりをしていた。


 腰のあたりまでつやつやの黒髪を伸ばしている二十代半ばの女性である。伏し目がちな視線が長いまつげを強調しており、実にミステリアスな空気をまとっていた。身につけている薄手のワンピースは青白い月明かりによって透けて見え、まるで一流モデルのようなスレンダーなシルエットを浮かび上がらせている。


 少女九龍城には大学生も何人か住んでいるが、その後ろ姿には全然見覚えがない。


「あら? あなたは……」


 私が中庭に入ってきたことに気づいて、謎の女性が振り返る。

 彼女の顔を見た瞬間、私は思わず腰を抜かしそうになった。

 言葉が出ずに口をパクパクさせてしまう。

 その一方、謎の女性は私の顔を見るなりにクスッと微笑んだ。


「もしかして……あなたは10年前の長谷部心さん?」

「じゅ、10年前って……そういうあなたはもしかして……」

「あなたから見たら、10年後の加納千鶴ということになるわね」


 や、やっぱりーっ!!

 相変わらず言葉が上手く出てこないまま、私は心の中で叫んだ。


 目の前にいる女性は間違いなくチズちゃんと同じ顔をしている。しかし、明らかに一回りは大人びており、肉体的にもほどよく成熟していた。美少女は紛れもない美女に成長し、幻想的な月明かりの下で満月よりも輝いて見える。


(や、やばい……心臓がバクバクしてきた……)


 私はパジャマの胸元をぎゅっと握りしめる。

 謎の女性改め、10年後の大人チズちゃんがじょうろを地面に置いた。


「そっちの私はどんな感じ?」

「ど、どんなって……椿さんと仲良くしてますし、元気に地図も作ってますけど……」

「あぁ、やっぱりそっちの『世界線』なんだ……」

「せ、世界線?」


 SFチックな単語が出てきて、ますます混乱しそうになってしまう。

 大人チズちゃんが「まあ落ち着いて」と私の肩を叩いた。


「私は『加納千鶴と倉橋椿が結ばれなかった世界』の加納千鶴なのよ」

「ふ、二人が結ばれなかった……」

「いわゆる『平行世界』ってやつね。この中庭はそういった本来交わることのない平行世界のつなぎ目で、時々こうして会うはずのない人同士が会ってしまうの。まあ、これも何かの縁なのかもね」


 チズちゃんに片思いしている私と椿さんと結ばれなかったチズちゃん。

 縁のある組み合わせといったらそうかもしれない。


「どうして結ばれなかったのかは……聞いても大丈夫ですか?」

「お互いに気持ちをちゃんと伝えられなかったのよ。本当にそれだけだった。椿さんは少女九龍城から去り、私は地図作りを諦めて普通のOLになった。でも、職場の女の子に手を出しちゃってクビになっちゃったけどね。今は少女九龍城の新管理人ってわけ」

「い、いくら失恋したからって、その後の人生が乱れすぎでは……」


 私の指摘を受けて、大人チズちゃんが「えへへ」と照れ笑いする。

 そこは照れるところじゃなくない!?


「ねえ、なんなら私と付き合ってみない?」


 突然、思いも寄らぬ提案をしてくる大人チズちゃん。

 私は素っ頓狂な声を上げてしまう。


「うぇっ!? い、いきなり何を言ってるんですかっ!?」

「私のこと、好きなんでしょ?」

「そ、それはぁ……」


 もしかして、こちらの世界のチズちゃんにも気づかれているのだろうか?

 好き好きオーラ丸出しのくせに気づかれてないと思い込んでいるとか、交差点のど真ん中で素っ裸になっているやつよりも恥ずかしい。まさか、チズちゃんだけではなく住人仲間たちにも悟られているのでは……。


「そ、そそ、そっちの世界の私はどうなってるんですかっ!?」


 私は必死になって言い返す。


「そっちの世界の私と付き合えばいいじゃないですかっ!!」

「それが消息不明なのよ」

「ひぃっ……な、なんですか消息不明って……」

「あれは椿さんとすれ違って、とてつもなくやさぐれていたときだったわ。長谷部さんが告白してくれたんだけど、それが私には失恋した弱みにつけ込まれているように感じられちゃってね……かなり手ひどく長谷部さんをフってしまったの。長谷部さんはそれがきっかけで少女九龍城から引っ越して、それからは連絡を取ることができていなくて……」


 神隠しで消息不明になったわけではないのにはホッとしたものの、大人チズちゃんの口から語られた話もなかなかに悲惨である。というか、平行世界の私は間が悪すぎない? もうちょい適切な告白のタイミングがあったのでは?


 そんなことを考えている私のあごを大人チズちゃんが指でなぞる。


「長谷部さんに酷いことをしてしまったと今は反省しているの。せめて、別世界のあなたに罪滅ぼしをさせてくれないかしら?」

「つ、罪滅ぼしとはいったい……」

「分かってるくせにぃ! 大丈夫、処女までは奪わないから!」

「何なら奪う気なんですかーっ!?」


 大人チズちゃんが背後から私の体を抱きすくめてくる。

 私はなんとか抵抗しようとするものの、大人チズちゃんの腕の絡め方が絶妙すぎて身動きすることもできない。さながらプロの格闘家に関節技をかけられているかのようだ。しかも、パジャマの中に手を入れて脇腹をくすぐってくる。


「いや、ホント……ちょっ……やめっ……うりゃあああっ!!」


 私は雄叫びを発しながら、がむしゃらにヘッドバンキングする。

 後頭部が鼻っ柱に命中したようで、


「はぶっ!?」


 大人チズちゃんがようやく離れてくれた。

 彼女はふらふらとよろめき、危うく花壇に足を突っ込む寸前で踏みとどまる。流石に怒らせてしまったかと思ったが、大人チズちゃんは不敵な笑みを浮かべていた。


「も、もう……素直じゃないんだから……」

「いや、これが私の素直な気持ちですから……」


 私はしゃにむに暴れて乱れた呼吸を整える。


「罪滅ぼしをしたいと思ってるなら、そっちの世界の私にしてあげてくださいよ。へたれの私のことだから、いくらフられたことがショックでも自殺なんてしないでしょうし、どうせ実家暮らしでニートしてるはずですからね」

「私は今この瞬間、あなたを襲いたいのになぁ……」

「ただの痴女じゃないですかっ!!」


 私は大人チズちゃんに向かってハッキリと言い放つ。


「ともかく、私が好きなのは『私の世界のチズちゃん』なんです! 恋人の椿さんをとても大切にしていて、少女九龍城の地図を作るのに一生懸命で、私みたいな百合厨の陰キャにも気さくに話しかけてくれる……チズちゃんはそんな素晴らしい女の子なんですからっ!」

「はぁー、そんなに私のことが好きなんだぁー」

「そうです、本気です」

「でも、私って椿さんのことが大好きだし、何より自分自身に興奮する変態だからなぁ……」

「はい?」


 私は首をかしげる。

 大人チズちゃんがあっけらかんとして言った。


「みんなは私が椿さんに恋をして可愛くなったと思っているけど、本当は10年後の自分に一目惚れしたことがきっかけなのよね。綺麗になった自分自身を鏡で眺めながら、ひとりエッチにふけるのは毎晩の習慣となっていたわけだけど……それでも私のことが好き? たぶん、椿さんと結ばれたあとも続けてると思うんだけど……」

「う、うぐぐ……」


 実のところ、それらしい盗撮写真を二宮さんから買ったことがあった。

 私はそれを椿さんを想いながらの行為だと解釈していたけど、よくよく考えていると明らかに鏡で自分自身の姿を見ていたし、その写真を撮られた直後に珍しく椿さんがチズちゃんを叱っていたし、確かにない話ではないように思える。


「た、たとえあなたの言うとおりだったとしても、私はチズちゃんのことが好きです」

「意外と動じないのね」

「そりゃあ、略奪愛をしようと思ってますから、それなりのことは覚悟してますよ」

「でも、実際のところは誰も傷つけたくないと思っている」


 海外ドラマに登場する敏腕捜査官のように痛いところを突いてくる大人チズちゃん。

 実際、私は確かにチズちゃんと椿さんを傷つけたくないと思っている。

 チズちゃんと付き合いたいからといって、椿さんを排除したいわけではないのだ。

 むしろチズちゃんと椿さんの二人こそ理想のカップルだと思っている。

 大人チズちゃんがニヤリとほくそ笑んだ。


「誰も傷つけたくないのに略奪愛をしたいなんて、偽善的すぎるとは思わない?」

「うっ……それは……確かに……」

「まあ、それは長谷部さんが善良である証拠でもあるけどね。善良であるからこそ、誰も傷つけたくないという考え方が偽善であることに気づけない。そして、最終的には自分一人が傷つくことで物事を丸く収めようとしてしまう。そこを悪い人に上手く利用されて、損な役回りを押しつけられることもしばしば……」


 心当たりがありすぎる!

 掃除のゴミ捨て、係決め、委員会……どれだけ貧乏くじを引かされてきたか!

 というか、高校生になった今でも学校ではそんな感じだ。


 周りの人たちが嫌な気持ちをしたら困るからと、空気を読んだ気持ちになって汚れ役ばかりしてきたあの日あのとき、勇気を出して自分のやりたいことを主張していたらどうなったのか……ぶっちゃけ、自分の立場がさらに悪くなって別ベクトルで生きづらくなってしまう気がしないでもない。


 私は自分の人生の主役になれるのか。

 改めて考えてみて本当に不安になってきた。


「それじゃあ、善良な長谷部さんには思いつかないアイディアを伝授しましょうかね」


 大人チズちゃんが耳打ちしてくる。

 そのアイディアを聞かされた瞬間、私は魂が口から抜けそうになった。


 ×


 大人チズちゃんと話し終えたあと、私は彼女に案内されて少女九龍城のメインストリートまで戻ってきた。流石は夢破れたとはいえチズちゃんと同一人物である。迷子を帰してあげることくらいはお手の物らしい。


 その日はもう遅かったので自室で寝た。


 そして、翌日のことである。

 チズちゃんと椿さんが一緒にいるタイミングを見計らって、私は食堂で仲良く話し合っている二人のところに乗り込んだ。


 真っ昼間から缶ビールで晩酌している椿さんにチズちゃんが付き合っているらしく、椿さんは顔をうっすらと赤くしており、チズちゃんは「やれやれ……」という顔をしながらも楽しそうにおしゃべりしていた。二人の醸し出している空気は恋人というよりも、もはや夫婦の域に達しようとしている。


「……チズちゃん、椿さん」


 私が声をかけるとチズちゃんと椿さんが同時に振り返った。


「こんにちは、長谷部さん。今日はどうかしました?」

「おーう、心ちゃん! わっちと一緒に飲まぬか?」

「……いえ、今日は大切な頼み事があって来ました」


 和やかに応じる二人に向かって、私は真剣な顔をして深々と頭を下げる。

 そして、食堂全体に聞こえるような大声で伝えた。


「私を……チズちゃんの愛人にしてくださいっ!!」



(おしまい)

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