第53話 ヨモツヒラサカ往復路
ボトル型の濾過器から綺麗になった水を飲み、カロリーメイトを半分だけかじる。
窓から引きはがしたほこりっぽいカーテンにくるまり、かび臭い畳に横たわって静かに目を閉じると、空腹よりも強い眠気が一気に襲いかかってきた。
3日分の食料を節約して食べていたら、あっという間に力が出なくなってしまった。3日目の今日の時点で、歩けた時間よりも休んでいた時間の方が長い。このまま食料が見つからなかったら、その場で動けなくなって座して待つしか選択肢がなくなる。
スマホは毎日欠かさず電波をチェックしている。けれども、電波の途切れてしまった1日目以降、私のスマホに電話がかかってくることはなかった。ソーラー充電器のおかげで電池切れの恐れがないことだけが救いだろう。
(どうしてこんなことになっちゃったんだ……)
私、長谷部心(はせべ こころ)はことの始まりを振り返る。
あれは1週間前のことだ。
×
その日、私は唯一無二の友人である二宮梢(にのみや こずえ)さんの自室に招かれ、とあるアイディアを聞かされていた。
「わざと迷子になるんス」
座布団にあぐらをかきながら、二宮さんが愛着している丸眼鏡をくいっと持ち上げる。不敵の笑みを浮かべている様から、これから話すアイディアにかなりの自信があることがうかがえた。
二宮さんの部屋は何の変哲もない六畳一間であるが、壁一面には彼女の撮影した『ピントのズレた写真』が貼り付けられている。何の事情も知らない人が見たら、ある種のサイコパス感を感じるだろうけど、これが彼女の癖なのだから仕方ない。盗撮写真しか上手に撮れないとは本当に不思議な業である。
「わざと迷子?」
「そうッス。長谷部さんが少女九龍城で迷子になれば、チズちゃんさんが必ず探しに行くってくれるッス。そうすれば迷子からの帰り道は、長谷部さんとチズちゃんさんの二人きり……告白するには絶好のチャンスというわけッスね」
「確かに!」
という話をしたのが1週間前。
そして、私が迷子になるべく少女九龍城の奥へ歩みを進めたのが3日前のことである。
私はしゃれたアウトドア用品なんて持っていないので、通学用のリュックサックに学校指定の体操服という死ぬほどダサい格好で出発した。まあ、バッチリおしゃれして迷子になるのも不自然だし、ここはありのままの自分で挑むしかない。
念のために3日分の食料を用意し、二宮さんは災害対策に使われるボトル型の濾過器を持たせてくれた。
といっても、チズちゃんこと加納千鶴(かのう ちづる)さんの迷子捜し能力の高さは半端じゃない。どんな迷子も半日足らずで見つけてくれるので、食料も濾過器も大げさな準備だと思っていたのだけど……。
『長谷部さん、大変なことになったッス』
迷子1日目の正午過ぎのことである。
チズちゃんに迷子捜しを頼んでくれるはずの二宮さんから電話がかかってきた。
支柱のない螺旋階段に腰掛けて、私は二宮さんの言葉に耳を傾けた。
『チズちゃんさんと椿さん、無人島に出かけちゃったんス……』
「む、無人島っ!?」
『なんか有名な映画監督さんのお誘いかなんかで、電話もなにもない無人島に1週間も泊まるらしいんスよ! というか、すでに連絡がつかないッス! これから1週間、長谷部さんにはなんとか生き延びてほしいッス!』
「い、生き延びてって……助けに来てくださいよ!」
『やれるだけのことはやるつもりッスけど、いくら少女九龍城の地図があっても、チズちゃんさん以外の人間じゃ二次遭難の危険が高すぎるッス。チズちゃんさんが帰ってくるまでの1週間、とにかく耐えてほしいッスよ!』
むちゃくちゃな話すぎる。
こんなことになると分かっていたら、わざと迷子になんてならなかったのに……いや、そんな後ろ向きなことを考えても仕方がない。もはや1週間後まで生き残るか、自力で帰るかしない限り、私にチズちゃんと再会できるチャンスはないのだ。
『幸いにも少女九龍城はやたらと電波の通りがいいッス。電話はいつでもかけられるので、お互いに連絡を取り合いながら解決策を――』
というところで電波が途切れた。
×
スマホの電波が途切れてから、私は記憶を頼りに来た道を戻ってみた。
しかし、案の定というべきかなんというか……私の通ってきた道はなくなっていた。
通ってきた道がなくなる、階段をのぼっていたのに地下へ出る、無限ループにはまるといった現象は、少女九龍城では日常茶飯事であるらしい。なんだかんだしているうちに元の道へ戻ってこられたり、たとえ戻れなくてもチズちゃんが助けてくれるので、ガチの遭難者や行方不明者は現れないのだが……今回ばかりは勝手が違った。
少女九龍城の中をさまよい始めて5日目。
節約してきた食料も完全に尽きて、私は空きっ腹を抱えて途方に暮れていた。
少女九龍城は仮にも建物の集合体なので、水道やら井戸やらは割と見つかる。二宮さんの持たせてくれた濾過器は何千回も使える代物らしいので、飲み水については全く困らなかった一方で新しい食料は一切見つからなかった。
(これだけ広いんだから、畑とか菜園とかあってもよさそうだけど……)
私はリュックから写真の束を取り出して眺める。
それは二宮さんから買い取った百合百合な盗撮写真の数々だった。
この寂しい遭難生活では、暇つぶし用に持ってきたこの写真だけが心の救いである。
微かな甘いにおいを感じたのはそのときだ。
食べ物に飢えていた私は、壊れたマッサージチェアーから反射的に立ち上がった。
花のにおいではない。
明らかな糖度を感じるにおいに誘われて、私はよろよろと歩き始める。
そうして見つけたのが……まるでRPGに出てくるような洞窟の入口だった。
洞窟の入口の傍らには、私の身の丈を超えるような岩が放置されていた。洞窟の入口を塞いでいたのが動かされたのか、地面には岩を引きずったような跡が残されている。コンクリート打ちっ放しの廃墟の壁に突然現れた光景からは、時空が歪んだような違和感を覚えた。
それから、洞窟の入口にかけられていたのだろうか、かなり年季の入った看板らしき木板が私の足下に転がっていた。
(ヨ……ツ……サカ……なんだろう、これ?)
あからさまに怪しいとは思いつつも、私は洞窟の中へ足を踏み入れてしまう。
空腹過ぎて思考力はゼロ。
誘蛾灯に引き寄せられる蛾のように、私は甘いにおいに吸い寄せられる。
洞窟の中は下り坂になっており、両手を広げても壁や天井に届かない程度には広い。光源がないにもかかわらず暗くはなく、さながらムーディーな間接照明で照らされているかのような雰囲気だった。
数分で坂道を下り終えると、そこには一本の木が生えていた。高さ3メートルくらいの葉が青々と茂った若木である。植物に詳しくない私にも、その木がなんの木なのかはすぐに分かった。というのも、スーパーマーケットの青果コーナーに並んでいるような、とても立派な桃色の果実がなっていたからだった。
私は桃色の果実をもぎ取ってかじりつく。
その瞬間、むせそうになるくらいの甘い果汁が口いっぱいに広がった。
こんな洞窟に生えていた理由は分からないけど……これは間違いなく桃! しかも、これまで食べてきた果物の中で間違いなく一番おいしい。空腹は最高の調味料とも言うけれど、それを抜きにしても非現実的なおいしさに感じられた。
夢中になって二つ目を食べようとしたところ、私のスマホにいきなり着信が入った。
私は桃の果汁でベッタベタになった手でスマホを手に取る。
「もしもし、長谷部です」
『よかった……ようやくつながりました! 長谷部さん、無事でしたかっ!』
「桃の木を見つけることができたので、そこで採れた桃を食べているところです」
『そうッスか! とにかく、生きてるようでよかったッス!』
ホッとしているらしい二宮さんの声。
私の方は驚いたり喜んだり怒ったりする力すら出てこない。
二宮さんは食堂で電話しているのか、スマホからは騒がしい話し声が聞こえてくる。
『それにしても桃の木なんて……今、どこにいるんスか? 私たちのいる生活スペースの意外と近くかもしれないスし、もしかしたら迎えに行けるかも……』
「ヨなんとかサカっていう洞窟を下りた先です」
『え? ヨなんとかサカ?』
二宮さんが聞き返した途端、
『――ちょ、ちょっとスピーカーにしてくださいっ!』
彼女以外の女の子の声がスマホから聞こえてきた。
通話をスピーカーに切り替えたのか、その声がよりハッキリと聞こえてくる。
『突然すみません! 私、稗田礼子(ひえだ れいこ)というものです!』
「あぁ……噂の妖怪ハンターさんですか」
『長谷部さんのいるヨなんとかサカですが、もしかして坂を下った先に桃の木がありませんでしたか?』
まるで見てきたように言い当てる稗田さん。
私はちょっと嫌な予感を覚えながら答える。
「その桃を食べているところです」
『あああ……』
その嘆きからは稗田さんが膝から崩れ落ちる姿が容易に想像できた。
「あ、あの……私、なんかやっちゃいました?」
『長谷部さん、あなたのいる場所はおそらくヨモツヒラサカです』
「ヨ……なんですかそれ?」
『ヨモツヒラサカは日本神話に登場する死者の国の入口です。死者の国の食べ物を口にしてしまうことをヨモツヘグイと言って、それをしてしまうと死者の国の一員となり、こちらの世界に戻ってこられなくなってしまうんです』
「つ、つまり……?」
『私の推測が正しかったら、長谷部さんはもう戻ってこられません』
「そんなぁっ!!」
少女九龍城で5日間も迷子になっているだけでも大変なのに、死者の国に迷い込んだうえにもう帰れない? そんなめちゃくちゃすぎる話、絶対に信じたくない! というか、死者の国の入口なんてそこら辺にあるもんなの!?
「た、食べたものをげーしたら平気になったりしないですか?」
『それはやってみないことには――』
突如、通話の音声にノイズが混ざり始める。
スマホの画面を確認したら、アンテナが一本しか立っていなかった。
私は慌ててスマホに向かって叫ぶ。
「二宮さんっ! チズちゃんに伝えてくださいっ! 私はチズちゃんが――」
言い切らないうちに通話が途切れる。
電話をかけ直してみるものの、つながる気配は一切なかった。
桃の糖分で頭が回ってきたのか、ようやく焦りを感じて冷や汗が出てくる。
(もしかして、これって絶体絶命なんじゃ……)
私は思いきって自分の口の中に手を突っ込んでみる。
しかし、えずいただけで食べてしまった桃を吐き出すことはできなかった。
苦しくて涙だけではなく鼻水まで出てくる。
(とにかく、本当に外に出られないのか確かめないと!)
私は下りてきた坂道……ヨモツヒラサカを引き返そうとする。
そのときだった。
洞窟のさらに奥、明るいのにもやがかかったように見通せない先から、何者かの足音がいくつも聞こえてくる。
誰か助けに来てくれたのかと思って振り返った瞬間、私は予想外の光景に目を見張った。
メイドさんである。
両手では数え切れない人数のメイドさんたちがこちらに向かって走ってきたのだ。
メイドさんたちは私を取り囲むなり、担ぎ上げて洞窟の奥へ運び始める。
「だ、誰なんですか、あなたたちはーっ!?」
見たところメイドさんたちは日本人風の顔立ちをしている。着ているメイド服は色とりどりのミニスカートタイプであり、彼女たちが軒並み可愛いことも相まって、まるでアイドルグループの一団のようだ。
メイドさんの一人が仰向けで担がれている私にささやいてくる。
「あなたも立派なヨモツシコメになるのよ、芋っぽいお嬢さん」
「ヨモツシコメってなにーっ!?」
そうこうしているうちにメイドたちが立ち止まった。
私が連れてこられた場所は、まるでキャバクラのような場所だった……いや、もちろんキャバクラなんて行ったことないけど、薄暗い空間に革張りのソファーやガラスのテーブルが置かれており、棚に高そうなお酒のボトルが並んでいる光景はそうとしか表現できない。
(どうして死者の国にキャバクラが……)
メイドさんたちは私を床に下ろすと部屋の隅に移動した。
「ふふっ……あなたが今回の新入りね」
部屋の中央にあるひときわ豪華なソファーに妙齢の女性が腰掛けていた。
メイドさんたちを束ねているらしい彼女は、さながら女王様のようなボンデージを着こなしている。肘まである革製の手袋、そしてピンヒールまで身につけており、ここに鞭でも持っていたら百点満点だ。
メイドさんたちと同じく純和風の顔立ちながら、かなり濃い口の……ぶっちゃけケバい化粧をしているせいでかなり迫力がある。
「あなたは……」
「ヨモツオオカミ、と今は呼ばれているわ」
腰まである黒髪をかきあげながら、女王様が……ヨモツオオカミが言った。
見た目こそケバケバしいものの、声からはお母さんのような優しさを感じる。
「あなた芋っぽいけど、磨けば光る感じがするわね」
「そ、それはどうも……」
「旦那と別れてから、すっかり女の子の魅力に目覚めちゃってね……こうして迷い込んできた女の子をヨモツシコメにして、私のハーレムに加えているの。ああやってヨモツヒラサカの入口を開いておくと、不思議と可愛い女の子が紛れ込んでくれるのよね~♩」
「それじゃあ、もしかして私もメイド隊の一員にっ!?」
私の問いかけに対して、ヨモツオオカミは満足そうにうなずいた。
血の気が引いてきて、私は反射的に訴える。
「ダメっ! それだけはダメですっ! 私、好きな人がいるんですっ!」
「ダメもなにもないわ。こちらの世界の食べ物を口にしてしまった以上、あなたはもう現世では生きられないのよ。この黄泉国(よみのくに)……改め、百合国(ゆりのくに)でハーレム要員になってもらうしか道はないわ!」
「ぐぬぬぬ……」
百合ハーレムというものに興味はあるけど、今回ばかりは受け入れられない。このままチズちゃんに告白せず、メイドさんにされるなんて嫌すぎる。
せめて、ここから本当に出られないのか確かめたいけど、目の前には女王様、周囲には両手で数えられない人数のメイドさんというこの状況……どうすれば脱出のチャンスを作れる?
とりあえず、ご機嫌を取るなりして気を逸らすことでもできたら――
「あのっ! これをどうぞっ!」
私はふとひらめいて、リュックから写真の束を取り出す。
それは暇つぶし用に持ってきた百合写真だった。
「こちら、みなさんへの献上品です。お近づきの印にお納めください……」
「ほほう、なかなか殊勝な心がけね」
ヨモツオオカミが嬉しそうに手を伸ばしてくる。
私は持っていた百合写真の束をわざと床へ落とした。
「ああもうっ! ほら、みんな拾いなさいっ! こんな綺麗な写真、見たことないわっ!」
ヨモツオオカミがメイドたちを呼んで写真を拾わせ始める。
彼女たちは百合写真に興味津々なようで、拾った先から食い入るように眺め始めた。
(よし、今だっ!)
私は床を這うようにしてその場から脱出する。
足音を立てないようにキャバクラ風の部屋を出て、十分に距離を取ってから走り出した。
メイドさんたちに運ばれている最中は気づかなかったけど、ヨモツヒラサカからキャバクラまでの道のりはまるで歓楽街のようになっていた。
そこかしこにネオンサインが飾られ、メイドさんたちに負けず劣らずの美少女たちが客引きをしている。その子たちもハーレムの一員なのか、それとも単に客引きしているだけなのか、全力疾走で駆け抜けている私に向かって手を伸ばしてきた。
「私、未成年です! 私、未成年ですから!」
私は客引きたちの手を振り払い、百合国の歓楽街を一目散に走り抜ける。
正直、百合国の歓楽街とか興味ありまくりだけど!
へろへろになった頃、ようやく桃の木の場所まで戻ってくる。
(よし、あと少し……)
残された力を振り絞り、私はヨモツヒラサカをのぼり始めた。
ろくに食事もできなくてへろへろになっていたのに、ここまで走ってこられたのはあの桃を食べたおかげかもしれない。まあ、あの桃のせいで私は百合国に閉じ込められている可能性もあるから、一概に喜ぶこともできないけども――
(後ろから足音っ!?)
私は一瞬立ち止まってしまうものの、すぐさまスピードアップして坂を駆け上がった。
追いかけてきている足音はおそらく一人分。
ヨモツオオカミが追いかけてきたのか、それともメイドさんの中の一人だけが私の不在に気づいたのか……どちらにせよ安心はできない。
この疲労のたまった体ではろくに抵抗できないし、あんな見た目でもこの世のものならざる存在だ。私を捕まえるためなら、どんな力を発揮するか想像もつかない。
私は息を切らしながらも、どうにかヨモツヒラサカの入口へ到着する。
入口の先に見えるのはコンクリート打ちっ放しの廃墟。
ほこりまみれの床には『ヨ……ツ……サカ』の看板が落ちている。
(あとはここから出られさえすれば――)
入口に向かって右手を伸ばす。
瞬間、こんにゃくに手を突っ込んだような感触が私の右手を襲った。
「き、気持ちわるっ!?」
私は反射的に右手を引き抜き、今度は入口に向かって体当たりしてみる。
しかし、入口に見えない壁でも貼られているかのように、私の体はソフトに受け止められてしまった。両手で押してみたり、蹴りを入れてみたりしても、一向に通れそうな気配がない。危惧していた事態に直面して、ドッと冷や汗が吹き出してきた。
(ヨモツヘグイ……本当だったんだ!)
しかも、追いかけてきた足音がいよいよ背後まで迫ってくる。
恐る恐る振り返ってみると、ピンク色のメイド服を着たメイドさんが立っていた。
彼女の方もかなり疲れているようで、私と同じくらい息を切らしている。
「よかった。やっと追いついた……」
私の姿を目の当たりにして、ホッと一息ついているメイドさん。
人畜無害そうな顔に見えるものの、私は気を抜かずに警戒し続けた。
「……私を捕まえに来たの?」
後ずさった途端、私の背中が見えない壁にぶつかる。
絶体絶命のピンチを悟ってか、心臓がびくんと大きく跳ねた。
(こんなところで諦めたくない……!)
少し前の自分なら、このまま喜んで百合国の一員になっていたかもしれない。
私は一生百合を外から眺めているだけで、自分が百合を生み出せる人間になれるとは思っていなかった。百合国に迷い込んだことを天啓と受け取ってすらいたかもしれない。
でも、今はもう違う。
チズちゃんに告白するためなら、地獄の底からだって戻ってやる!
具体的にどうやって戻るのかは謎なんだけど……。
「大丈夫、私はあなたを逃がしたいんです」
メイドさんが優しい声で訴えてくる。
「私、元々は少女九龍城の住人だったんです」
「ええっ!?」
ヨモツヒラサカの入口を開けておくと女の子が迷い込んでくる、とヨモツオオカミは言っていた。もしかしたら、少女九龍城の住人は過去に何人も神隠しのように百合国へ誘われていたのかもしれない。
「あの……あなたのお名前は?」
「いいえ、もう自分の名前を思い出すこともできません。ヨモツヘグイをして百合国の食べ物が完全に体へ馴染んでしまうと、名前をヨモツオオカミに奪われてしまうのです。そうなったら百合国からは絶対に出られません」
「名前は忘れちゃっても、他に何か覚えていることとか……」
「私が少女九龍城にいた頃は、写真はまだ白黒だった気がします。あなたの持ってきた写真に色がついていたので本当にびっくりしました」
「写真が白黒って……そんな前に連れてこられちゃったのっ!?」
ヨモツオオカミの『たまに迷い込んでくる』というのは数十年単位の話らしい。
神話クラスの存在は流石に時間の感覚もスケールがでかい。
「ともかく、私があなたの体から百合国の食べ物を吸い出します」
「す、吸い出すって……むぎゅっ!?」
それは突然のことだった。
メイドさんの唇が私の唇に押しつけられていた。
しかも、クラスメイトの女の子たちが悪ふざけでやるようなキスではない。
お互いの唾液が絡まり合い、卑猥な水音を立てる大人のキスだった。
「む、むぐっ……むむーっ!?」
大人のキスどころか子供のキスですら未経験の私は、今までに体験したことのない圧倒的高密度の刺激に頭が混乱してしまう。気持ちいいのか気持ちよくないのかも判断できない。唾液でぬるぬるになった舌同士が絡まるだけで、こんなに何も考えられなくなるなんて……。
(ファーストキスなのにーっ!!)
私の心の叫びが届くわけもなく、メイドさんは一生懸命に私の唇を吸い続ける。あくまで私を助けるためのはずだけど、彼女は時折「んっ♥」とか「はぁんっ♥」とか、明らかに感じているっぽい悩ましげな声を漏らしていた。
そんな声を聞かされてると、私まで変な気分になってくる。
(私、やっぱり興奮してるのかな……ガチなのかな……)
チズちゃんに告白すると決めた今も、私は自分が単なる百合好きなのか、それとも生粋の同性愛者なのか、はたまたチズちゃんだけが特別好きなのか分かっていない。ああもう、なんてハッキリしないやつなんだ、私はっ!
そうこうしているうちにメイドさんの唇が離れる。
長時間にわたる濃厚なキスが終わったとき、私たちは離乳食を食べているときの赤ちゃんみたいに口周りがよだれまみれになっていた。
キスが終わってホッとしたのもつかの間、私は激しく咳き込んでしまう。
咳が止まったと思ったら、足下にはいつの間にか桃の果実が一つ転がっていた。
「こ、これ……私が食べた……」
「なんとか吸い出せました。これで大丈夫です」
ちゃんと咀嚼して食べた桃が、元通りの形になって出てきた原理は不明だけど、とにかくこれで助かったようだ。
「あ、ありがとう。メイドさん……」
私はジャージのポケットからハンカチを取り出し、唾液でベタベタになったメイドさんの口を拭いてあげる。自分の口も拭いてダブル赤ちゃん状態から脱すると、メイドさんは嬉しそうに笑顔を見せてくれた。
私はヨモツヒラサカの入口に向かって手を伸ばす。
先ほどまでのこんにゃくのような感触はなく、私の体はすんなりと外に出た。
自然と笑みがこぼれて、メイドさんの方に振り返る。
「出られたっ! ちゃんと出られたよ、メイドさんっ!」
「よかったですね、迷子さん。これで好きな人のところに戻れますよ」
そう祝福してくれながらも、どこか寂しそうな顔をするメイドさん。
私は手を伸ばして彼女と握手を交わす。
「あの……私、みんなのところに帰ったら百合国のことを話してみる。もしかしたら、百合国に迷い込んだ人たちを助ける方法があるかもしれない。助けてもらった私が一人だけ地上に帰るってのも、なんか申し訳ないし……」
「気にしないでください。私、こっちの生活を気に入ってますから。ハーレムのみんなは仲良しですし、ヨモツオオカミさまもあんな感じですけど意外と優しいですし、それに怪我をしたり病気になったりする心配のない生活って気楽なもんですよ?」
「へへえー、それは確かに良さそうですね」
てっきり不本意なままハーレム要員を続けているものと思い込んでいたので、思いの外楽しく過ごしていることを知って安心する。住めば都という言葉もあるし、百合国を本当の理想郷として受け入れられている人もいるのだろう。
ヨモツヒラサカの入口脇に鎮座していた岩が独りでにスライドし始める。
私の脱出を防ごうとヨモツオオカミが遠隔操作でもしているのかもしれない。
「迷子さんのお名前、聞いてもいいですか?」
「長谷部です……長谷部心です!」
私の名前を聞いて、メイドさんが嬉しげに微笑む。
その直後、岩がヨモツヒラサカの入口を完全に封じた。
こちらの世界に戻ってきた安心感からか、私の意識も同時にぷっつりと途切れた。
×
次に目を覚ましたとき、私は自室のベッドで点滴を打たれていた。
自室の壁には大好きな百合漫画や百合アニメのポスターが貼ってある。点滴を打たれていることにびっくりしたものの、見慣れた百合ポスターを目にしたら気持ちが落ち着き、ひとまず取り乱さずに済んだ。
まるで私と添い寝するようにして、毛布にくるまった二宮さんが居眠りしていた。
ちゃぶ台にのっている置き時計を確認したところ今は午前十時。
果たして自分はどれだけ眠っていたのか、二宮さんはいつから看病してくれていたのか……。
「……おっ? 起きたッスね?」
二宮さんが目を覚まして大きく伸びをする。
彼女は上半身がタンクトップ一枚というラフな格好で、いつもポニーテールにしている髪を下ろしていた。愛着している丸眼鏡もかけていない。盗撮写真専門といえども、基本的にジャーナリスト然としている彼女にしては珍しい無防備な姿だ。なんかエロい。
「向かいの診療所にいるお医者さんが診てくれたんス。単なる栄養不足らしいッスから、点滴が終わったらお粥でも作ってあげるッスよ。元はといえば、私がチズちゃんさんの予定を把握できてなかったのが迷子の発端ッスから、埋め合わせはなんでもするッス」
「ありがとう、二宮さん……」
「お礼ならチズちゃんさんに言ってあげてくださいッス。無人島から少女九龍城に戻ってきたあと、休みなしで長谷部さんを探し始めたんスから。しかも、足跡やら水場を利用した痕跡やらから予想を立てて、たったの半日で長谷部さんを見つけちゃったんス」
「……そ、そうなんだぁ!」
胸の奥から嬉しさが無限に込み上げてくる。
チズちゃん、やっぱり私みたいな根暗女にも優しい!
これはもう告白するしかない!
「――長谷部さん、入りますよ」
自室のドアが開いたのは突然のことだった。
廊下からチズちゃんがひょっこりと顔を出し、私は飛び上がりそうなほど驚かされる。
彼女は部屋着の替わりらしい紺色の体操着を着ていた。
私も同じような体操着を着ているのに、着こなしに違いを感じるのは何故なのか。
「チ、チズちゃんっ!? あ、あうっ……あうあうっ……」
絶好の告白チャンス!
……と、頭では理解できている。
私はチズちゃんに告白するために百合国から命懸けで帰ってきたのだ。
ここでちゃんと告白しなかったら、なんのために戻ってきたのか分からない。
顔が沸騰しそうになりながらも、どうにか私は口から言葉を紡ぎ出す。
「あのっ……私……チ、チズちゃんのことが――」
好きですっ!!
と言おうとした瞬間である。
チズちゃんの後ろから、おかっぱ頭の女の子が出てきた。
「おっ? 目を覚ましたんじゃのう! よかったよかった!」
ミス少女九龍城にしてチズちゃんの恋人、倉橋椿(くらはし つばき)さんである。
チズちゃんがちらりと椿さんの方を見て、それから嬉しそうにはにかんだ。
当然のように椿さんも微笑み返す。
「あっ……ええと、私のことがどうしたの?」
改めて私の方を見るチズちゃん。
たったそれだけで……本当にたったそれだけで私の心は壊されていた。
「は、ははは……私、その……チズちゃんのこと、マジリスペクトです」
「リスペクト!? そんな大したことしてないけど……」
「いや、本当に……自分の好きなことに一生懸命なところとか、私みたいな迷子を探し出してくれるところとか、ちゃんとメイクとかファッションに気を遣っているところとか、恋人を大切にしているところとか、もう全てをリスペクトしていて――」
私がチズちゃんをほめまくったあと、彼女と椿さんは程なくして帰っていった。
二人は私の無事を喜んでくれて、迷子の理由は追及しなかった。
自室にはいたたまれない空気が広がっている。
二宮さんが唐突に深いため息をついた。
「なぁ~にやってるんスかね、この人は!」
「め、面目ない……」
「椿さんからチズちゃんを寝取るんじゃなかったんスか!」
「二人の幸せそうな顔を見ていたら、覚悟が……覚悟が……」
布団にばったりと仰向けで倒れてしまう私。
あのタイミングで告白するのはどうしてもできなかった。
それは百合国から脱出することよりも、私には難しく感じられたのだ。
「……長谷部さん」
二宮さんが私のすぐ隣に寝そべる。
「まあ、気持ちは分からんでもないスよ。初恋の告白なんて、きっと結婚のプロポーズよりも覚悟がいるはずッスからね。しかも、長谷部さんの場合は略奪愛なんスから、そりゃあ並大抵の覚悟じゃ成し遂げられないス」
「二宮さん……なんかすごい優しいですね……」
「だから言ったじゃないッスか。長谷部さんが迷子になっちゃったことに私も責任を感じているんだって……。これも乗りかかった船ッスから、長谷部さんがちゃんと告白するまで付き合いますッスよ」
二宮さんの言葉が心強くて、目頭が熱くなるのを感じる。
(次こそは……次こそは絶対に告白する! 手伝ってくれる二宮さんのためにも!)
私は今度こそ決意を固める。
二宮さんの作ってくれるお粥を食べたら、告白の手段を早速考えよう。
(おしまい)
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