第45話 グッバイ・ベイビー
それはサメ被害も記憶に新しい嵐の日のことだった。
嵐に見舞われた少女九龍城はそこら中がガタガタしており、天井からは雨漏りがぽたぽたと絶え間なく落ちてきていた。
雨漏りの下に置いたコップやら皿やらが、まるでオルゴールのような繊細な音を立てているが、それも強烈な音にほとんどかき消されている。
私、加納千鶴(かのう ちづる)は自室でパソコンとにらめっこしていた。書きためた少女九龍城の地図をデジタル化しているのである。
このデジタル化の作業を定期的に続けてきた結果、私のプログラミングやグラフィックの技術は自分でもびっくりするほど向上していた。
この前、社長令嬢である住人仲間の西園寺香澄(さいおんじ かすみ)さんから「卒業後はうちに就職しませんか?」と誘われたほどだ。
まあ、卒業後の進路なんて今はまだ分かるわけもなく……。
「のうのう、チズちゃん! わっち、ムラムラしてきたぞ!」
私の背中に恋人の倉橋椿(くらはし つばき)さんがまとわりついてくる。
「嵐の日ってなんか興奮するんじゃよなー! 生存本能が刺激されるっていうか!」
「そんなにテンション上がりまくってるなら、外でTMRごっこでもしてくればいいじゃないですか……」
私は集中をすっかり乱されて、パソコンの画面から顔を上げる。
そのとき、嵐の中を飛んでいる一匹のカラスが目に止まった。
暗雲の立ちこめる嵐の空で、我ながらよく見つけられたものである。
カラスは両脚で白い包みのようなものをつかんでいた。
巣作りのためにビニール袋でも拾ったのかな?
そんなことを考えながらぼーっとしていると、突風に吹かれて飛んできたホーロー看板(オロナミンC)がカラスの脳天に直撃するのが見えた。カラスはなんとか飛び続けようとしていたが、ふらふらになってそのまま窓のすぐ外に墜落した。
「チ、チズちゃん!?」
発情モードだった椿さんも流石に血の気が引いたらしい。
「とりあえず見に行きましょう!」
「そうじゃな!」
カラスとはいえ目の前で生き物に死なれては気が滅入る。
私と椿さんは雨合羽を着て、玄関に回って少女九龍城の外に出た。
目を開けてられないような豪雨の中を電車ごっこのようにして突き進む。
自室の目の前に落ちたカラスは幸いにもすぐ見つけることができた。
カラスは気を失っているのか、目を閉じたままぴくりとも動かない。
傍らにはそのカラスが両脚でつかんでいた白い包みが泥だらけになって落ちていた。
「ビニール袋……じゃないですね。柔らかいタオルケットのような――」
私は気になって思わず白い包みを開いている。
カラスの運んでいた柔らかな布に包まれていたもの。
それはまだ産毛しか生えていないような生まれたての赤ん坊だった。
「はぁい、いい子でちゅね~❤ そのまま、あんよを開いたままにしてね~❤」
住人仲間の虎谷スバル(こたに すばる)さんの甘い声。
彼女は慣れた手つきで赤ちゃんの股にベビーパウダーをはたいている。
あれから、私と椿さんはカラスと赤ちゃんを少女九龍城に連れ帰った。
私たちは気が動転してあたふたしっぱなしだったが、そこで冷静に行動したのがなんと虎谷さんである。彼女は管理人さんに必要な買い物のメモを渡して、それから体の冷えた赤ちゃんをお風呂に連れて行った。
で、赤ちゃんをほどよく暖かい湯で温めてあげて、食堂まで戻ってきて今に至る。
カラスが赤ちゃんを運んできたと聞いて、暇な住人少女たちがわんさかと集まっていた。
私と椿さんもすっかり『その他大勢』の一部である。
「スバル、随分と手慣れてるな……」
頭がずぶ濡れになった管理人さんが大いに感心している。
私たち住人少女一同も虎谷さんの手際にすっかり見入っていた。
「うちには年の離れた弟がいるから、小学生のときによくやってたの」
虎谷さんはやはり慣れた手つきで赤ちゃんにおむつを穿かせる。
途端、赤ちゃんが泣き始めてしまった。
暖かくしておむつも穿かせたのになぜ!?
私が内心ドキドキしていると、住人仲間にして虎谷さんの親友である結城アキラ(ゆうき あきら)さんが哺乳瓶を持ってきた。
「できたよ、虎谷さん! 煮沸消毒と人肌並の温度……だったよね?」
「ありがとう、アキラちゃん。うん、ばっちり!」
虎谷さんが赤ちゃんを抱きかかえて、哺乳瓶で粉ミルクを飲ませ始める。赤ちゃんは哺乳瓶の吸い口をくわえると、ちゅうちゅうと粉ミルクを吸った。
「はぁい、ママのおっぱいでちゅよ~❤ おいちいから、たぁくさん飲みまちょうね~❤」
幼い声で童顔なのに虎谷さんからあふれてくる無限の母性。
これが本物のバブみというやつか!
まあ、それはそれとして……赤ちゃんは実に可愛い。髪の毛も生えそろっていないあたり、本当に生まれたばかりなのだろう。
にぎにぎしている小さな手なんかを見ていると、生命の神秘を感じて涙が出てきてしまう。
「の、のう……チズちゃん」
隣にいる椿さんが袖をくいくいしてくる。
「わっちらも、あとで赤ちゃんプレイを――」
私は有無を言わさず肘鉄を打ち込んだ。
「うぐっ……じょ、冗談じゃって……」
「椿さんも少しは真面目に考えてくださいよ」
今ので涙が完全に引っ込んだ。
「あの赤ちゃん……それからカラスも、本当になんなんでしょうね?」
赤ちゃんを運んでいたカラスの方は、とりあえず濡れた羽を拭いて、ペットに鳥を飼っていたという住人仲間に預けてある。
鳥の体調は流石に判断できないので、折を見て動物病院に連れて行くことになるだろう。
椿さんが真面目な顔をして言った。
「もしかして、わっちらに子供を運んできたコウノトリとか?」
「いや、カラスですよ……」
そんなことを言いながらも、私もその可能性は考えていた。
少女九龍城では何が起こっても不思議ではない。
もしかしたら、少女九龍城の神様みたいなのが空気を読んで使わしたのかも……。
「これは純粋な疑問なんじゃけど、チズちゃんって赤ちゃんほしい?」
「うぇっ!?」
椿さんに思わぬ質問をされて変な声が出てしまった。
「ま、まぁ……ほしくないと言えば嘘になりますけど……」
女の子同士で付き合っているなかで一度も考えなかったわけじゃない。
といっても、結婚して子供が生まれたら……なんて他愛のない妄想レベルである。
妄想レベルの話なのだが、私たちの場合はちょっとシリアスだ。何しろ女の子同士、それも片方は不老不死である。子供を育てるのはなかなかハードルが高い。正直、妄想するだけで諦めていた節がある。
でも、もしかしたら……これは神様が与えてくれたチャンスかもしれない。
「それにしても、どうしたもんかね」
管理人さんが煙草を吸おうとして、直前で気づいて紙箱に引っ込める。
「玄関先に捨てられてたことにして施設に預けるか……まさか、カラスが運んできたなんては言えないしな」
「わ、私たちが育てますっ!」
私と椿さんは住人少女たちの輪から前に出る。
「わっちらが拾ったんじゃ! 最後まで責任を取るぞい!」
私たちの熱の入った眼差しを受けて、管理人さんがふーっとため息をついた。
「赤ちゃんの処遇が決まるまで、だからな?」
「分かりました! やりましたね、椿さん!」
「わっちらの子供じゃ! やっぱりこれは天からの授かり物だったんじゃ!」
手と手を取り合って喜ぶ私たち。
虎谷さんが抱きかかえていた赤ちゃんをそっと差し出す。
私は壊れ物を扱うように優しく赤ちゃんを受け取った。
赤ちゃんがちっちゃな手で私の指を握ってくる。
「はああああ~❤ 可愛いですよ、赤ちゃんが~❤」
「わっちにも! 次はわっちにもだっこさせて!」
「母性があふれ出てきますよぉ! そ、そうだ! 名前を考えましょう!」
「名前かぁ……うーん、それなら――」
私と椿さんがすっかり赤ちゃんの虜になっていると、
「二人に注意しておくことがあるんだけどね」
虎谷さんがいきなりマジな顔をして言った。
「赤ちゃんへの授乳は三時間ごとだからね」
「……はい?」
「哺乳瓶は必ず煮沸消毒してね。水で洗うだけだったり、使い回したりするのは厳禁だよ。粉ミルクはお湯で溶いて、人肌ぐらいになるまで冷ますこと。この赤ちゃんはみたところ生まれてから一ヶ月以内……これから三ヶ月は昼夜を問わずにそれをやってもらうよ」
このようにして、私と椿さんの子育て生活は始まった。
始まってしまったのだった。
×
ここから先の記憶は断片的にしか残っていない。
「赤ちゃんが泣いてますね……今、何時ですか……って夜中の三時じゃないですかぁ!?」
私はベビーベッドに寝かせていた赤ちゃんをだっこする。
赤ちゃんをゆさゆさとなだめながら、足で椿さんの体を突っついた。
「椿さん、起きてください! 赤ちゃんがミルクを欲しがってますよ!」
「ううう……わっち、最近は朝型に戻ったばっかりで……」
のそのそと起き上がる椿さん。
彼女に懐中電灯を持たせて、私たちは深夜の食堂に向かった。
「三時間後との授乳も二人ならいける……と思ったのが浅はかでしたね」
「赤ちゃんの面倒を見ながら深夜にミルク作りとか心折れるわ!」
赤ちゃんを預かってから三日間、私たちはまともに眠れていなかった。
最初のやる気はすでに奪い取られており、今はもう気力だけで動いている。
「こ、こんなに子育てが辛いとは……」
赤ちゃんの泣き声が深夜の少女九龍城にこだまする。
「それじゃあ、学校に行ってきますね……」
私は寝癖を直すこともせず、自室をあとにしようとする。
すると、赤ちゃんをだっこしている椿さんが言ってきた。
「チズちゃんはいいのぅ……学校で寝てるられるから……」
「は?」
カチンときて振り返る。
「前は学校なんてどうでもよかったですけど、今はすごく真面目に通ってるんです。私たちは女の子同士で付き合ってるんですよ? 結婚して家庭に転がり込むなんて選択肢はないんですよ? それなら、なるべくいい成績を取って、なるべくいい就職先を見つけて――」
「あー、わかった! わっちが悪かったから! いってらっしゃい!」
椿さんに背中をぐいぐい押されて、私は自室から押し出された。
はぁ、と深いため息をつく。
何をこんな些細なことで椿さんに当たっちゃってるんだ、私は!
「ただいま戻りました……ううう……ちょっと眠らせてください……」
「チズちゃん、ずるいぞ! 今はわっちが眠る順番じゃろうが!」
「体育で走らされて疲れたんですよ……保健室に行っても寝不足は駄目とか言われるし……」
「チズちゃんが学校に行ってる間、わっちは一人で面倒を見てたんじゃぞ!」
「……分かりましたよ、面倒見ますよ」
おむつを替えるのも大変すぎる。
赤ちゃんのものとはいえ、これは簡単になれるものではない。
「ははは、チズちゃんが赤ちゃんにおしっこかけられておる」
「椿さん、顔が笑ってませんよ」
「なんでーっ! なんで赤ちゃんが泣き止まないんじゃーっ!」
「粉ミルクも飲ませましたし、おむつも替えましたし、汗だって拭きましたよ!」
「泣き止め……泣き止め……泣き止め……」
「念じて泣き止むわけないじゃないですか、ばかーっ!」
「馬鹿とはなんじゃ! 馬鹿って言った方が馬鹿じゃろうがーっ!」
「こ、こ、こ、この遊び人がーっ! 仕送りで生きてるくせにーっ!」
「ナルシスト! 自分が一番可愛いと思ってる残念な女!」
赤ちゃん、お前は何なんだ?
どうして、こうも私たちを苦しめるのだ?
お前は確かに愛らしい。
しかし、その愛で太刀打ちできぬほどの苦しみを同時に与える。
お前がこの世に生まれてきたのは何故だ?
私たちが一体何をしたというのか……。
×
「失格だ、失格」
引き取ってから十日後、私たちは赤ちゃんを没収された。
自分たちの無力さを感じて、私と椿さんは食堂の椅子でうなだれている。
管理人さんは怒っているわけではなく、むしろ哀れみ100%という感じだった。
「赤ちゃんそっちのけで口喧嘩してるやつらに子育ては任せられないな」
「うぐっ……」 「はわっ……」
私と椿さんは自らの犯した愚行を思い返して自己嫌悪に陥った。
どうして、私たちはあんな最低の行いを……。
赤ちゃんはと言えば、今は虎谷さんの胸にだっこされている。
「自分たちで子供を育てようと意気込むのはいいが、周りに助けてもらおうという考えが抜けていたのはよくなかったな」
管理人さんの指摘には返す言葉がない。
私たちはきっと浮かれており、そして頑なになっていたのだろう。
可愛い赤ちゃんを独り占めにしたくて、住人仲間たちを視界の外に追い出していたのだ。
その結果がこれである。
「わっちらは心構えも、知識も、何もかもが足りてなかったな……」
「そうですね……完全な力不足でした」
子供を育てる力もないのに、安易に求めてしまったのが失敗だった。
今となってはその間違いを冷静に受け止められる。
「二人ともそんなに落ち込まないで、ね?」
赤ちゃんをあやしながら励ましてくれる虎谷さん。
『いやはや、助かりました』
突然、男のものとも女のものとも思える不思議な声が聞こえてきた。
私たちの頭上から、赤ちゃんを運んできたあのカラスが舞い降りてくる。
動物病院に運ばれたという話は聞いていたが、それ以降は赤ちゃんの世話に追われて、完全に意識の外に出てしまっていた。
……っていうか、カラスがしゃべってる!?
「怪我が治ったんだね、よかったぁ!」
流石は虎谷さん、全然動じていない。
カラスは両脚であの嵐の日に持っていた白い布をつかんでいた。
『わたくし、死神です。このたびは助けていただきまして、本当にありがとうございます』
「死神ィ!?」
不老不死の椿さんといえども、死神の存在には本気で驚いているらしい。
『そこの赤ん坊を死後の世界へ運ぼうとしたところ、嵐に巻き込まれてしまったのです』
「死後の世界っ!?」
私は虎谷さんに抱かれている赤ちゃんをまじまじと見る。
小さなおててにぷっくりとしたほっぺた……やっぱり可愛いじゃん!
「でも、死後の世界ってことは――」
『その赤ん坊は生後一週間で不運にも亡くなったのです。わたくしの仕事は、この子の魂を天国に届けて、また新しい赤ん坊として転生させることなのです。もしも、この赤ん坊の魂まで死滅してしまったら、二度と転生できないところでした』
カラスが両脚でつかんでいた布が、ふわりと動き出して赤ちゃんをくるむ。くるまれた赤ちゃんは虎谷さんの手を離れて、浮き上がったかと思うとカラスの両脚でつかまれた。
カラスはゆっくりとしか羽ばたいておらず、それなのに赤ちゃんを持ち上げたままホバリングしている様子は、丸っきり重力の存在が欠けていて幻想的である。
『わたくしの傷も完治しました。これから天国に向かおうと思います』
私はカラスの言葉を聞いて、自分が思ったよりも動揺しなかった。
赤ちゃんを私たちの子供として育てたい。その思いは確かにあったけど、私たちは自分の力不足を痛感した。まだそのときではない。むしろ、それを知らせるために赤ちゃんが私たちの元に現れたとすら思える。
「赤ちゃん、今度は家族と一緒に暮らせるといいね」
「わっちらは赤ちゃんのことを絶対に忘れんぞ」
私と椿さんは赤ちゃんとのお別れを済ませる。
カラスの死神はこちらに一礼すると、赤ちゃんを連れて大きく羽ばたいた。
食堂の窓が独りでに開き、カラスの死神と赤ちゃんは外に出て行く。
私たちは窓に駆け寄って、その姿が見えなくなるまで見送った。
空からはらりはらりと一枚の黒い羽根が落ちてくる。
死神の落とし物と言われたら、おどろおどろしい雰囲気に聞こえるかもしれない。
でも、この黒い羽根を出会いの思い出として、私は大切にしまっておこうと思うのだった。
「私、ちょっぴり成長できた気がします」
「奇遇じゃな。わっちもチズちゃんと同じ気持ちじゃよ」
私と椿さんは互いに顔を見合わせる。
ちょっと濡れた頬に窓から吹き込む風が気持ちいい。
(おしまい)
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