第39話 少女九龍城ファフロッキーズ
少女九龍城は冬こそすきま風だらけで暮らしにくいが、夏は日陰の多さと風通しの良さから結構快適だ。
外の世界がかんかん照りの猛暑日でありながら、少女九龍城の中ではクーラーいらずなんてことが多々ある。
そんな快適な環境なのもあって、学校が夏休みに入っても実家に帰らない住人少女もかなり多い。
しかし、物事には例外というものがある。
夏休みも半分ほど過ぎたある日のこと、少女九龍城は年に一度あるかないかの酷暑に見舞われていた。日陰に逃げても地下に逃げても暑い。おんぼろの扇風機とクーラーではもちろん太刀打ちできない。
そうなると住人少女たちは思い思いの涼み方を試し始める。
パンツ一丁で歩き回るのは当たり前で、大浴場の湯船に水を張ってプール代わりにしてみたり、中にはかき氷屋を開いて仲間たちを相手に一稼ぎするものまで現れるのだ。
で、今日は住人少女たちが何で盛り上がっているのかと言えば、氷水でキンキンに冷やしたローションスライダーである。
私、加納千鶴も学校指定のスクール水着を着用して、地上四階から地下一階まで滑り降りる住人少女手作りのローションスライダーを楽しんできたところだ。
最初の一回目こそ、おっかなびっくり挑戦したのだが、途中からは椿さんや虎谷さんと一緒に浮き輪にしがみついてきゃーきゃー騒ぎながら滑っていた。
そして、今は自室に戻る途中である。
「こういう楽しみがあるなら、たまの猛暑も悪くはないのう」
そんなことを言いながら、椿さんは手のひらで顔を扇いでいる。
小学校高学年くらいにしか見えない体つきの彼女は、アニメの中にしか出てこないようなきわどいビキニを身につけて、さっきローションを洗い流したばかりだというのに全身にじっとりと汗をかいている。
恋人である私からしてみると、椿さんの全身からは色気が湯気のように立ち上っているかのごとしだ。
「この調子だと、お風呂に入り直さないと駄目そうですけどね」
「むふふっ……それにしても、全身ローションまみれになっているチズちゃんはエロかったのう! それがスライダーを滑るとき、わっちの体にぎゅっとしがみついてくるものじゃから、人前でにやけ顔を隠すので苦労したぞい!」
「そ、それを言うなら椿さんだって、私に抱きつく振りをして変なところを――」
私たちが食堂前に通りかかったときである。
食堂の厨房から、
「ぎにゃ――――――――っ!!」
管理人さんの尋常ならざる悲鳴が聞こえてきた。
私と椿さんは大慌てで食堂に飛び込む。
厨房の周りには食堂にいた住人少女たちがすでにわんさかと集まっていた。
私たちは人混みをかき分けて、どうにか厨房に顔を出す。
管理人さんはパンツこそ穿いているものの、ほとんど裸エプロンに近い格好で、厨房の床にぐったりとうなだれていた。
「ど、どうしたんですか、管理人さんっ!?」
私が心配して声をかけると、管理人さんはゾンビのようにゆっくりと顔を上げた。
「冷蔵庫が……壊れた……」
「ええーっ!?」
という驚きの声は、私だけではなく居合わせた住人少女たちの口からも聞こえてきた。
「それじゃあ、冷蔵庫の中身は――」
「この調子だと今日中に駄目になるな……新しい冷蔵庫が手に入るまでは、各自でなんとかしてもらうしか……」
住人少女たちの口から「ええーっ!?」と再び驚きの声が上がる。
このようにして、少女九龍城でも珍しい食糧問題が起こったのだった。
×
数日後、少女九龍城の住人少女たちはすっかり疲弊していた。
冷蔵庫が壊れた日こそ、食材が駄目になる前にと大盤振る舞いで料理を作ったが、余った料理を冷蔵しておくことはできず、結局は使い切れなかった食材が大量に廃棄されることになってしまった。
その後の住人少女たちの対応は様々である。
倉庫に眠っている味気ない保存食をいただくもの、コンビニや外食で済ませるもの、飯時になるたびに食材を買ってきて自炊するもの、思い切って実家に帰省するもの。少女九龍城の住人少女は一部の例外を除き、基本的にお金を持っていないので、今回の食糧問題はダイレクトに財布に響くのだった。
少女九龍城に住まう数え切れない少女たちの食材を蓄えられる特別な冷蔵庫……そんな特別な品はそう簡単に手に入らない。
本命の冷蔵庫が手に入るまでの間、ひとまずは住人少女たちが個人的に持っている冷蔵庫を総動員して、なんとか食材の保存&消費のローテーションを組めないかと管理人さんが苦戦しているところだ。
「西園寺さんが会社の伝手を使って探してくれるそうですし、あと一週間……長くても半月くらいで食糧問題は解決しそうですね」
私は座布団にあぐらをかき、うちわでぱたぱたと扇いでいる。
少女九龍城にこもった熱はなかなか収まらず、住人少女たちは砂漠をさまよう放浪の民の如く暑さと戦っていた。私の自室も猛暑からは逃れられず、こうして椿さんと二人でぐったりとしながらだべっているのだった。
「管理人さんの作るカレーが恋しいのう……」
だらしなく前の開いた赤襦袢からは、椿さんの身につけるきわどいビキニが覗いている。
「ですね。外食はお金がかかるし、個々人で自炊するのは効率が悪すぎます」
「あと、ひえひえのビールを気軽に飲めないのが地味に辛い……」
「これを機に禁酒でもすることですね……という話はともかく、そろそろ食糧問題を解決しないとまずいですよ。夏休みだからってお金を使いすぎて生活費が足らなくなったあげく、下着まで売ろうとした子までいるらしいですから」
「それは間違いなく高値で売れるのう」
わっちも試してみようかな、と赤襦袢をめくる椿さん。
私の視線が思わず彼女のスレンダーな肢体に吸い寄せられた。
「他の人に買われるくらいなら私が買います」
「ん? チズちゃん、それって誘ってる? 朝っぱらから誘ってる?」
「さ、誘ってませんよ!」
私はまとわりついてきた椿さんを押し返そうとする。
そのときだった。
窓の外は明らかに晴れているのに、中庭の方から雨音が聞こえてきたのである。
それも台風直撃を思わせるような激しいものだ。
「椿さん、行きましょう!」
「うむ! 緊急事態の予感じゃな!」
私たちは自室を飛び出すと、雨音の聞こえる方角に向かった。
一口に中庭と言っても、少女九龍城には中庭が無数にある。
私たちが雨音を聞きつけて向かったのは、かつて火事騒ぎがあって全焼したあと、新しく芝生の敷かれた場所だ。住人少女たちの間では、ヤバい植物を育てていた証拠を消すために火を放ったのだとか……。
私と椿さんはドアを蹴破る勢いで中庭に躍り出る。
そうして目に飛び込んできたのは、空から大量に降り注ぐ小魚の姿だった。
芝生がいい感じにクッションになったのか、中庭一帯を埋め尽くしている小魚の群れは、今し方釣り上げられたばかりのようにぴちぴちと跳ねている。
周囲に広がる海の匂いは、生臭いどころかむしろ爽やかに感じられた。
「ファフロッキーズ……」
思い当たる超常現象の用語が私の口からこぼれた。
「ふぁふ……ええと、なんじゃそれ?」
「Falls From the Skiesの略称で、空から落ちてきたものという意味です」
「怪雨というやつじゃな。話には聞いたことあるが、実際に目にするのは初めてじゃ」
椿さんが小魚の一匹を摘まみ上げる。
「見紛う事なきマアジじゃな……」
「どこから来たんでしょうね?」
ファフロッキーズの原因としてよく言われているのが海上竜巻である。海の上で起こった竜巻が、海産物を巻き上げたという説だ。
少女九龍城の近くに海はないが、とある中庭の池ではシーラカンスが釣れたことがある。だとすると、これは『海につながっている池』の真上で竜巻が起こって、吹き飛ばされたアジの群れが『芝生の中庭』に落ちてきたと考えれば説明がつく……とか?
そんなことを考えていたら、謎の雨音を聞きつけて、私たち以外の住人少女たちも続々と集まってきた。
その先頭に立っているのは食糧問題に悩まされ続けている管理人さんである。目の下にできているクマが、彼女の苦労具合を如実に表していた。
で、管理人さんがアジの群れを見るなりに叫んだ。
「食料だ――っ!! 確保ぉ――っ!!」
そこからの住人少女たちの結束は、ローションスライダーを組み上げたとき以上だった。
目の色を変えた住人少女たちが、バケツやらクーラーボックスやらを持ってきて、芝生を埋め尽くしているアジの群れを一匹残さずかっさらう。そして、彼女たちは少女九龍城にある無数の流し場に分かれると、すさまじい手際でアジの下ごしらえを始めたのだった。
アルバイトとして働いているものを除き、少女九龍城の食堂は住人少女たちの当番制だ。
食費を払っていないものを除き、少女九龍城で暮らしているものは否応なしに料理を覚える。だから、アジの下ごしらえくらいはお手の物だ。
住人少女たちが生魚特有の匂いを漂わせながら、少女工員よろしく一致団結して作業に励む様子は壮観である。
しばらくすると食欲をそそる匂いも漂ってきた。
小さなアジは唐揚げにして、大きなアジはアジフライ、あるいは保存用として干す。立っているだけで汗だくになるような陽気なのに、わざわざ七輪を持ち出してアジを炙るものまで現れた。
必然、その日の昼食は食堂でアジパーティーになった。
「ぷっはーっ!! ビール、最高じゃ!!」
椿さんが空っぽになったビールジョッキをドンとテーブルに置いた。
アジの調理を終わらせて、私と椿さんも遅めの昼食にありついていた。
「わざわざクーラーボックスを持参してまでビールを買ってくるなんて……」
「新鮮なアジの食べ放題じゃぞ? ビールは絶対に外せんわ!」
椿さんはそう言いながら、自ら調理したアジのなめろうを食べている。
「アジフライにして普通に食べている私が言うのもなんですけど、空から落ちてきた魚をよく生のまま食べようと思いましたね……」
「生きたまま落ちてきたんじゃから、刺身にしたって問題ないじゃろ?」
「しかし、どこからやってきたのかも分からないわけで……」
というか、本当にどういう原理でこんな現象が起こるのだろう?
「一つ仮説がある」
椿さんがピンと人差し指を立てた。
「少女九龍城では場所と時間がねじれることがよくあるじゃろう?」
「ありますね」
のぼったと思ったら下りている階段。月の裏と地上を行き来する扉。100年後の未来と通じている電話。過去や未来に生きている人々との遭遇。海とつながっている池。その手の超常現象には事欠かない。
「少女九龍城とどこかの海がつながった、と考えたらどうじゃ?」
「ああー、なるほど」
地上と月面、現在と過去未来の距離を思えば、海なんて近いものである。
「しかし、よくよく考えると気の抜けない話ですよ。少女九龍城は地球上の……いや、宇宙のあらゆる場所、あらゆる時間とつながっている。それなら、どんなとんでもないものがファフロッキーズとして降ってくるか分かりません」
五匹目のアジフライを食べようとしていた私の箸が止まる。
すると、
「それなら心配ない」
椿さんがビールの泡で白いひげを作りながら言った。
「わっちら、100年後の未来と電話してるじゃろう?」
「ああー、そうでした、そうでした」
「少なくともチズちゃんが生きている間、少女九龍城は平和なままというわけで――」
びちゃん、あるいはズドン。
私たちの会話を断ち切るように聞こえてきたのは、そんな重みのある濡れた音だった。
食堂の天井からぶら下がっている電気の傘がぐらぐらと揺れる。
「建物が崩れた……なんてことではないですよね」
「今度は何が落ちてきたのやら……」
朝っぱらからアジのエンドレス調理、お腹の中はアジフライとアジの唐揚げで満腹、午後になって気温はますます上昇という圧倒的に動きたくない状況ながら、ファフロッキーズの可能性がある以上は見に行かざるを得ない。
お魚くわえた野良猫よろしく、アジを食べながら廊下に出る住人少女たち。
音と揺れの発生地点は、アジの落ちてきた芝生の中庭だった。
「あの音の重量感……なんとも嫌な予感がしますが――」
ドアを押し開けて芝生の中庭に出る。
瞬間、私の口から食べかけのアジフライがぽろりと落ちた。
芝生の中庭に横たわっていた灰色の巨体……それは海に還った巨大なほ乳類だった。
「く、クジラ! クジラですよ、椿さん!」
「パッと見たところ全長三メートル……おそらく子供のクジラじゃろうな」
子供ながらも大きさは侮ることができない。その重量は軽く1トンを超えている。
けれども、落ちたときの衝撃に加えて、人間たちもぐったりする日差しを浴びて、クジラの子供はすっかり弱ってしまっていた。
素人の私から見ても、日没まで保ちそうにない。このまま何もできないと、クジラも可哀想だし、私たちだって後始末に困る。
住人少女たちも異音を聞きつけて駆けつけたが、最初こそびっくりしていたものの、次第にことの深刻さに気づいてどよめき始めた。
「うーむ……裁いて食べるわけにもいかんしのう……」
「椿さん、クジラ食べちゃうんですかっ!? まだ子供ですよ!?」
クジラの子供の目からは大粒の涙のしずくがこぼれている。
こんなつぶらな瞳で見つめられたら助けられずにはいられない!
「い、いや、冗談じゃってば……クジラベーコンは嫌いじゃないけど……」
酒の入った赤ら顔で答える椿さん。
「それよりも、ほら! 逃がしてやる先はあったじゃろう?」
「中庭の池、ですかね……」
海につながっているあの場所なら、クジラを逃がしてやることもできるかもしれない。
できるかもしれないが、そのハードルはあまりにも高い。
相手は子供といえども巨大なクジラなのだ。
担架で担いで運ぶわけにはいかない。西園寺さんあたりを頼って重機を呼んでもらう方法もあるが、この中庭まで来てもらうだけで相当な時間がかかるだろう。
「うっ……考えてたら、頭がくらくらしてきました……」
「お、おい、大丈夫かのう、チズちゃん?」
この炎天下で労働に勤しみ、とどめに腹九分目で突っ走ってきたのである。
頭の一つくらいくらくらするものだろう、とは自分でも思った。
私は受け止めようとしてくれた椿さんと一緒に芝生へ倒れ込む。
アジの群れが降ってきたせいで、足下がぬるぬるになっているのも良くなかった。
否、むしろ良かった!
私と椿さんは抱き合う形で芝生に横たわる。
目と目が合った途端、私たちの声が重なった。
「「ローションスライダー!!」」
私の脳裏に少女九龍城の精密な地図が浮かび上がる。
少女九龍城の中でも『海につながっている池』はかなり低い位置にあるし、そもそも少女九龍城は『のぼっていたはずが下りていた』なんて場所には事欠かない。
その気になれば、スタート地点よりも高い場所に滑り降りることだって可能なのだ。
「みなさん、聞いてください! 私に考えがあります!」
私は集まった仲間たちに大きな声で伝える。
この場にいるみんなならやれる……そういう自信ならいくらでもあった。
×
クジラの子供のその後について語る。
ローションスライダーのときも、空からアジが降ってきたときも同じだったように、少女九龍城の住人少女たちは結束すると途方もない力を発揮する。
クジラの子供を助けるためには池までローションスライダーを敷くしかない……と判明するや否や、彼女らの行動は建築のプロにも増してスピーディーだった。
私は作戦の立案者として現場の指揮に専念したが、最後はクジラの子供に寄り添うような形で、一緒にローションスライダーを滑って池に飛び込んだ。
そのときは椿さんもお供してくれて、二人で弱ったクジラの子供を励ましたのだった。
クジラの子供はしばらく池の水面近くを漂っていたが、月が出る頃には池の奥へと潜って姿を消してしまった。
これで今生の別れか……そう涙ぐむものまでいたが、数日後、クジラの子供は池まで戻ってきた。
それからはちょくちょく池までやってきては、住人少女たちから餌をもらったり、一緒に泳いだりとスキンシップを楽しんでいる。
ちなみに少女九龍城を襲った猛暑はファフロッキーズの騒ぎから数日で収まり、管理人さんの注文した新しい冷蔵庫も一週間で届いた。
その頃になると、私たちはすっかりアジの開きを食べ飽きており、懐かしの日替わりメニューを文字通り泣いて喜んだのだった。
(おしまい)
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