第31話 池のヌシ釣り

「どうして、マグロはシーチキンになってしまうのじゃろう?」


 昼食に出たサラダを見つめながら、住人仲間であり友人である倉橋椿さんが呟いた。


 時刻は午後の二時を過ぎたあたりである。昼食と呼ぶにはいささか遅い時刻だが、管理人さんが昼食の用意に遅れてしまったわけではない。椿さんがつい先ほど、ようやく目を覚まして食堂にやってきたのだ。


「十二時間くらい寝ていたかと思ったら、いきなり何を言い出すんですか?」


 私――加納千鶴は彼女の対面に腰掛けている。

 学生の身分である私にとって、休日というのはとても貴重な自由時間だ。時間は有効に活用しなくてはいけない。


 私には我らが女子寮――通称・少女九龍城の全体地図を作製するというライフワークがある。

 以前までは、まぁ、熱心にやっていることはそれくらいだったけれど、最近は別にまた時間を割きたいことが出来てしまった。


 それはつまり、私の大切な人である椿さんと一緒に時間を過ごすということである。

 ……なんだか恥ずかしいので、直接口に出すことはないけれども。


「わっちはこの事柄に前々から疑問を持っていたのじゃ」


 椿さんがサラダを食べながら、哲学者のように神妙な面持ちで語り出した。


「マグロを加工したものがシーチキンじゃろう? 加工するには手間が掛かる。加熱して、油に浸して、缶詰にすることでようやくシーチキンが出来上がる。だが、マグロとシーチキンのどちらが高級かと言われたら、間違いなくマグロの方じゃ!」

「ふーん」

「シーチキンが保存食であり、そのために加工を必要としていることは分かる。じゃが、加工後の方が安値で、加工前の方が高値というのは矛盾していないじゃろうか! わっちはこの問題に対して『シーチキン問題』と名前を付け、たびたび脳内で熱い議論を――」

「へぇー」


 冷淡な相づちを聞いて、少しは私の心中を察したのだろうか。

 椿さんが恐る恐るといった感じで尋ねてくる。


「……チズちゃん、ちょっと機嫌が悪かったりする?」

「別に悪く何かありませんよ、別に」


 こっちは平日と変わらず午前七時に起きているのだ。午後二時に眠い目をしながら起きてきて、「最近のネトゲは面白いのう!」とか言っている人に何が分かるというのか……いや、何も分かるまいと私は思うのである。


 そうやって、私が脳内で反語法を駆使していると、


「――そこの暇そうな二人!」


 住人仲間の虎谷スバルさんが唐突に食堂へ飛び込んできた。

 彼女は指さして、私たちのことを指名する。

 ちょうどサラダを食べ終えて、椿さんが虎谷さんの方に振り向いた。


「どうしたんじゃ、スバル?」

「ふふふ、大発見」


 虎谷さんはテーブルに向かって、氷上を滑るペンギンのように飛び込んでくる。


「中庭に大きな池があるでしょ?」


 言われて、私は脳内に叩き込んである地図を思い浮かべる。

 少女九龍城には『中庭』と呼ばれている場所だけでも、両手では数え切れないくらいに存在する。

 ただ、その中でも特に大きな池があるのは、大浴場のすぐ近くにある中庭だけだ。池の広さはバスケットコートくらいあったはずである。


「そこで、これっくらい大きな魚の影を見たの。あれは池のヌシだよ、絶対!」


 虎谷さんが両腕を広げて目撃した『何か』のサイズを表現する。

 胸を反らしてまで両腕を広げているので、おそらくは彼女の両腕分よりもはるかに大きいのだろう。

 まず間違いなく二メートルは下らないはずだ。


 私の頭上に疑問符が浮かび上がる。


「でも、あそこの池って鯉とかナマズくらいしかいなかったような?」

「だから、それを確かめるの」


 虎谷さんはそう言って、中腰の姿勢で背中を反らすジェスチャーをした。


「二人とも、私と一緒に池のヌシを釣ろう!」

「よし、乗ったぞ!」


 勢いよく返事したのは椿さんである。

 声に出さなかったものの、私は思わず「えぇええええ……」と口パクしてしまった。


 今日は貴重な休日で、すでに半日が過ぎている。残された時間を私たちは有効に活用するべきだ。まぁ、やりたいことがこれといって決まっておらず、暇をもてあましていたという事実は否定しがたいのだが……。


 私はおずおずと手を挙げる。


「あの……釣りってやったことがないんですけど?」


 すると、椿さんが堂々と胸を張って言った。


「大丈夫! わっちも最後に釣りをしたのは三十年くらい前のことじゃから!」

「さいですか……」


 ×


 大浴場前の十字路を左に曲がると、件の池がある中庭に到着する。


 廊下と中庭の間に壁やらガラス窓やらの仕切りはなく、さながら湖畔に面しているコテージのテラスのようだ。建物を無計画に建設したせいで、池自体はまん丸の形をしているのに、中庭の敷地は大きなL字型である。


 ちょうど日が高く昇ったところなので、少女九龍城の狭い空から太陽光が差し込んでいる。

 足下は背の低い雑草が生えそろい、小さな白い花と、たくさんのクローバーが所々で群生していた。池の縁は砂地になっており、よく目を凝らしてみると、水面に魚の赤ちゃんの姿を見ることが出来る。


 この池が人工物なのか、それとも自然物を建物群が飲み込んでいったのか、正確なところは分かっていない……というよりも、まだ調査していない。

 おそらく、今後の地図作りは地図自体を作るよりも、個々の建物の建設時期や歴史を調べることが多くなるだろう。


「はい、これ!」


 池の縁まで来たところで、虎谷さんが私に釣り竿を一つ手渡した。

 彼女はどういうわけか、リール付きの釣り竿を三つも持ってきたのである。

 椿さんが受け取るなりに、骨董品を鑑定するような目つきで釣り竿を見つめた。


「貸してもらって言うのもアレじゃけど、これはちとボロじゃないかのう?」


 彼女の言ったとおり、確かに釣り竿はかなりボロだった。

 ロッドは傷だらけで、リールにもさびが浮き、グリップのゴムにはヒビが入っている。


 虎谷さんが面目なさそうに目を細める。


「学校の釣り部から、いらなくなったやつをもらって来たんだよー。だから、釣り竿自体はかなりボロなんだけど、釣り糸と仕掛けだけは新しいやつを用意したから」

「まぁ、贅沢は言ってられんわな……」


 戸惑う私をよそに、二人は『仕掛け』とやらを釣り糸に結んでいく。彼女たちの言っている仕掛けとは、つまりは釣り針や浮き、重りといった部品の総称だ。

 椿さんは釣りをするのが三十年ぶりと言っていたけど、部品を取り付ける手つきは小慣れていた。


「ほれ、チズちゃんの分も付けておいたぞ」

「あ、ありがとうございます……」


 椿さんから釣り竿を受け取る。

 それから、虎谷さんが手持ちのカバンから片手で握れるサイズの小瓶を引っ張り出した。


「今回はこれをエサに使います!」


 彼女が取り出したのは、スーパーで買ってきたとおぼしき小エビのパックである。


「んぁ? そんなものを使うのか?」


 そんなことを言いながら、椿さんが地面に転がっている小石を退かしていた。

 小石の下から引っ張り出したのは――


「ミ、ミミズ!?」


 あのウネウネとした謎生物である。

 虎谷さんが目を輝かせた。


「あっ、そっちの方がいいかも!」

「じゃろう? やっぱり釣りは生き餌が一番」


 二人が嬉々としてミミズを釣り針に引っかける。

 マジかー、マジですかー。


 私は大人しく小エビを釣り針に刺した。

 ぽちゃん、と仕掛けを池に投げ込む。


「ほほぉ、チズちゃんはミミズがダメじゃったのか」

「ミミズというか虫全般がダメですね」

「ふーん、意外と可愛らしいところがあるんじゃなあ」

「うっ……」


 私はとっさに顔を背けた。

 変なタイミングで可愛いとか言われても困るんですけど……。

 この程度で内心ちょっと嬉しい自分のチョロさよ。


「にしし、お二人さんは相変わらず仲良しですな」


 目撃しちゃいました、という顔の虎谷さん。

 ふう、と私は軽いため息。


「仲良しというかなんというか」

「夫婦的な?」

「まあ、そんな感じですかね」


 自分で言っておきながら、途端に顔が熱くなってきた。

 夫婦って……この場合、どっちがお嫁さんになるんだろう?


「いやいや、何を考えてるんだ私は!」

「おっ、ヒットしたぞ!」


 椿さんがビリビリ震えている釣り竿のリールを巻いた。

 飛び跳ねるような勢いで、釣った魚が池から引っ張り上げられる。


「むむむ、これは!?」


 椿さんが釣り上げたのは、手のひらに収まるサイズの小アジだった。


「おー、すごーい!」


 虎谷さんは嬉しそうに拍手してるけど、これ明らかに突っ込みどころでしょ!?


「ここ、汽水域でしたっけ?」


 少女九龍城は海から遠いわけでもなく、気軽に海水浴に行ける距離にある。それなら、池で海水魚が釣れることもありえるのだろうか?


「わっちはピンと来たぞ」


 椿さんが釣り上げた小アジをバケツに放り込む。


「池のヌシ……もしかしたら、それはマグロではないかの?」

「マーグーロー!!」


 虎谷さんのテンション、バリ上がり。


「いやいや、んなわけないでしょう」


 常識的に考えて。


「仮にマグロを釣ったとしてどうするんですか?」

「管理人さんはマグロをさばけるらしいぞ」


 電車も修理するし、マグロもさばけるし、管理人さんは万能だなぁ……。それくらい多才じゃないと、少女九龍城の管理人は務まらないのだろう。


「私、応援を呼んでくる!」


 虎谷さんが釣り竿を置いて、中庭から駆け出していった。


 ×


 数十分後、中庭に大量の住人少女が集合していた。

 みんな、マグロに餓え過ぎである。


 自前の釣り竿を持ってくる子もいれば、木の枝で即興の釣り竿を作る子もいるし、中にはゴムボートやら投網まで持ち出してくる子もいる。きみたち、本当に普通の女の子? ……というツッコミは、ここでは全然意味をなさない。


 そういったわけで、ザッと数えて三十人近い住人少女たちが釣りをすることになった。でも、釣れるのはせいぜい小アジくらいで、ヌシの影は一向に見えてこない。


 夕方まで粘ってみた結果、バケツが小アジで一杯になってしまった。


「虎谷さん、さっきから釣れてなくないですか?」

「うーん……」


 虎谷さんは一時間ほど前から地面に座りっぱなしである。


「大物に狙いを絞って、小アジを餌にしてみたんだけど……」

「マグロってアジを食べるんでしたっけ?」

「たぶん、サバとかカツオとか……」


 残念ながら中型の魚は釣れていない。

 サバとかカツオが釣れていたら、それを普通に食べたい。


「む?」


 椿さんが何かに気づいて、虎谷さんの釣り竿を指差した。


「それって釣れてないかの?」

「あっ、本当だ――」


 瞬間。

 釣り竿が鞭のようにしなったかと思うと、反動で虎谷さんの体が跳ねあがった。


「虎谷さん!?」

「スバル!!」


 跳ねあがった虎谷さんの体が、釣り竿ごと池の中に向かって引っ張られる。

 私と椿さんはとにもかくにも虎谷さんの両脚にしがみついた。


「た、た、たーべーらーれーるーっ!?」

「みんな、手を貸してくりゃれっ!!」


 全力で踏ん張っているのに、靴底が砂地をズルズルと滑っている。

 このままだと冗談じゃなく池のヌシに食べられちゃうよ!?


「全員、スバルを救出しろーっ!!」


 管理人さんを皮切りに住人少女たちが集まってくる。

 虎谷さんの両脚を私と椿さんが、私と椿さんの体を他の住人少女たちが……という具合に繋がって踏ん張った。

 さながら大きなカブの絵本である。虎谷さんは体が空中に浮いて、風に煽られている鯉のぼりみたいになっていた。


 住人少女、三十連結。

 ナントカ作戦的な盛り上がり方をしてきた!


「せ、背が伸びるううう……」

「虎谷さん! 釣り竿、放して!」

「ま、まだ頑張るううう……」


 ミシミシ、と釣り竿が嫌な音を立てる。


「スバル、一回限りじゃからな! みんな、タイミングを合わせるぞ!」


 せーのっ!!

 椿さんの掛け声に合わせて、私たちは一気に虎谷さんの体を引っ張った。


 直後、池から水柱が立つ。

 池のヌシの巨体&虎谷さんの体が高らかに宙を舞った。


 虎谷さんは駆けつけていた結城さんが華麗にキャッチする。

 池のヌシは砂地に打ち上げられて、元気にビチビチと巨体をくねらせていた。


「マグロはっ!?」


 虎谷さんがすぐさま池のヌシに駆け寄ってくる。

 あれだけ酷い目に遭ったのに元気だなぁ……。


「スバルよ、残念な話なんじゃけど」


 池のヌシを見下ろしている椿さん。

 彼女の足下で跳ねているのは、生きてる化石と呼ばれる類のものだった。


「こいつ、マグロじゃなくてシーラカンスのようじゃな」


 分厚くてトゲのついた八枚のヒレ、恐竜のような厳つい顔つき。

 資料映像でしか見たことのない生物がそこに存在していた。

 異様な見た目はどことなくエイリアン的なものを彷彿とさせる。


「とりあえず、写真に撮っておくかのう」

「椿さん、スマホなんて持ってたんですか!?」

「先週、新規契約してきた」


 林檎マークのスマホで写真を撮り始める椿さん。

 あなたの収入源、どうなってるんですか……。


「それにしても、こんな学術的に貴重な魚をどうすれば……」


 うーん、と全員で悩む。

 学会で発表でもするの? 歴史的大発見だし?

 私たちがそんなことを考えていたら、


「マグロじゃないならいいや。海に帰してあげよう」


 虎谷さんがあっさりと答えを出してくれた。


 それもそうだ。

 マグロ食べたいなー、としか考えていなかった私たちにシーラカンスは偉大すぎる。


 それに少女九龍城は『ちょっと変わった女の子たち』の間だけで有名なのがいいのだ。生きてる化石の住処として有名になって、部外者が押しかけてくるのは御免である。


 そんなわけで、私たちはシーラカンスを帰してあげることにした。

 二メートル近くの巨体に苦戦すること十数分。

 やっとのことで池に帰してあげると、どこからともなく香ばしい匂いが漂ってきた。


「おーい、小アジの唐揚げができたぞ」


 管理人さんの嬉しそうな声。

 野外用のカセットコンロやら、バーベキューセットやらが、いつの間にか中庭に並べられていた。気分はすっかりバーベキュー大会で、そこかしこから美味しそうな匂いがする。

 気の早いものは酒盛りまで始めていた。


「マグロではないが楽しい夕食になりそうじゃな、スバル」

「エヘヘ、やったね!」


 笑顔でダブルピースの虎谷さん。

 今回の件はこれで決着というところかな。


「小アジの唐揚げなら、やっぱり日本酒かのう……じゅるり」


 椿さんが瞳をキラキラと輝かせている。

 これだから酒飲みというやつは。


「椿さんのことだから、シーラカンスを売ろうとか言い出すかと思いましたよ」

「チズちゃんの中のわっちはどうなっとるんじゃ……」

「ネトゲやってるパソコンとか、さっきのスマホとか、どうやって買ってるんですか?」

「それは、ほら、あれじゃよ、なんというか――いたたっ!」


 私は椿さんのほっぺを軽く抓る。


「誤魔化さないでくださいよ。私たちは、ほら、あれですよ、なんというか……」

「ん?」

「夫婦……みたいなものなんですから」


 まずい、顔が赤くなってる。

 そして椿さんの方はすごくニンマリとしてる。


「ん? んん? よく聞こえなかったのう、もう一度言ってみてくれんか?」

「……椿さんのばか」


 私は小アジの唐揚げ(アツアツ)を食べる。

 あぁ、さっさとお酒の飲める年齢になりたい……。

 そうすれば多少の気恥ずかしさくらい平気になるはずだ。


 ×


 それから何度か釣りをしたけど、中庭の池で釣れたのは鯉やナマズばかりだった。

 あのときだけ遠くの海に繋がっていたのか、あるいは時間を超えて太古の海に繋がっていたのか……それを確かめる術はない。

 たまに中庭を訪れては、池に映る大きな影にちょっとしたロマンを幻視するだけである。



(おしまい)

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