第29話 少女九龍城オブザデッド

 立ちこめる臭気、四方八方から聞こえるうめき声。


 私――加納千鶴は大きなリュックを背負い、少女九龍城の廊下をひたすらに駆けている。


 今日は地図作製をするため、私はかなり奥の方まで遠出していた。

 出先で一泊して作業をしたので、リュックには測量結果のメモやら、測量器具やらがギュウギュウに詰まっている。

 自分が今、絶体絶命のピンチに追い込まれていると分かっているのに、やはりリュックを捨てることが出来なかった。


 先ほど、食堂前の固定電話に連絡してみたところ、どうやら食堂には残された住人たちが集まっているらしい。

 正面玄関だけでなく、使えそうな出入り口は全て封鎖されている。仲間たちは安全を確保するため、食堂前の廊下にバリケードを築いているのだそうだ。


 廊下の先に十字路が現れる。この場所を右折すれば食堂までの近道なのだが……右手の廊下からヒタヒタと足音が聞こえてくる。


 突破を試みるべきか、遠回りしてでも安全なルートを選択するか。

 私が立ち止まって思い悩んでいると……ふと、耳元に生暖かい息が吐きかけられた。


「ひっ――」


 引きつった声が漏れる。

 少女九龍城はやつらに占拠されている。

 やつらのことを私たちは――ゾンビと呼んでいるのであった。


 ×


 始まりは昨日の昼頃である。


 私は地図の作製を行うため、少女九龍城の奥深くを目指して進んでいた。

 我らが女子寮――通称・少女九龍城は巨大な迷宮構造をしている。私はその迷宮構造を測量して、正確な地図を作ることを趣味にしているのだ。自分たちが生活している範囲内はあらかた地図にまとめられたので、ここ最近は地図作製するとなると遠出することが多くなっていた。


 測量器具の詰まったリュックを背負って黙々と歩き続ける。

 和服姿の女性を発見したのは、地図を確認しようと立ち止まったときのことである。


 真っ直ぐ正面――突き当たりにある古びた一室を女性は覗き込んでいた。ツヤのない紫色の着物に、金糸をあしらった黒い帯を合わせている。帽子を深くかぶっているせいでよく見えないが、ずいぶんと派手な化粧をしているようだ。


 彼女も私のことに気づいたようで、振り返るなりにこう言った。


「あぁ、探しましたよ。住人の姿が見えなくて困っていたんです……」


 その時、私は何となくピンと来た。


 少女九龍城には時折、訪問販売の人間がやってくる。彼らは大体が正面玄関で追い返され、食堂やメインストリートに辿り着いたとしても、住人たちに蹴り飛ばされるのがオチだ。

 けれど、時たま『別の入り口』から少女九龍城に入り込んで、迷子になってしまう販売員がいるのである。


 ただ、迷子にしてはずいぶんと態度が落ち着いているように見える。

 ともあれ、厄介ごとになる前に送ってあげた方が良いだろう。


「あの……うちは訪問販売、お断りですよ。成人式の着物も、高級な化粧品も、素晴らしい健康食品も買わないんです。道に迷って困っているなら、出口まで案内しますから」

「いえ、あなたのことを探していたんです」


 私が歩み寄ると、和服姿の女性は不意に不敵な笑みを浮かべた。


「ですから、押し売りはお断りだと――」

「あなたに必要なものを渡しに来たのですがね、加納千鶴さん? あなたには長生きしなければいけない理由があるはずですけども……」


 瞬間、叩かれたように心臓が強く鼓動する。

 和服姿の女性は知っているのだ。


 加納千鶴と倉橋椿はいわゆる恋人同士の関係にある。

 それはもはや周知の事実だけれど、椿さんが不老不死だと知っているのは、私を除けば虎谷スバルさんだけだ。

 私も椿さんも、もちろん虎谷さんだって誰にも話していない。


 じわ、と汗がにじむのを感じる。

 私が動揺を隠せないでいると、和服の女性はまくし立てるように言ってきた。


「愛し合っているならば、相手が不老不死であろうとも関係ない。相手の方だって、自分だけ生きながらえる苦しみを背負う覚悟は出来ている。けれども、誓ったとおりに生きられる確証はどこにありますか? 本当に彼女を幸せに出来ますか?」

「そんな、何を馬鹿な……」


 めまいがして、フラフラとしてしまう。

 私は椿さんと誓い合ったのだ。これから幸せな思い出をいっぱい作る。そして、私がいつか死んでしまったあと、椿さんが寂しくならないようにするのである。

 今だって、私たちは仲良く楽しく生きているはずだ。


 和服の女性が右手を突き出す。彼女は人差し指と中指で、小さな紙包みを挟んでいた。包んである紙は半透明で、中には黒っぽい粒状のものがいくつか入っているようである。


「そんな千鶴さんのために、ちょっとしたお薬を持ってきたのです。本来ならば結構な値段で販売しているものですが、今回は特別に無料で差し上げようと――」

「――あなた、まさか!?」


 販売という単語で思い出す。

 椿さんの過去については虎谷さんが教えてくれた。


 少女九龍城が『九龍館』と呼ばれる娼館だった頃、まだ普通の人間だった椿さんは結核にかかって生死の境をさまよった。

 その時、怪しげな物売りから『人魚の肉』を買って、それを食べた椿さんは不老不死の体になってしまったのだとか。


「……椿さんをあんな体にしただけでは飽きたらず、私まで不老不死にしようという考えですか? どういう経緯で知ったかは分かりませんが、私たちには余計なお世話です」

「誤解されては困ります。あくまで善意で倉橋椿さんに人魚の肉を売ったのですから」


 どうやら、私の推測は間違っていなかったらしい。

 和服姿の女性が『怪しげな物売り』だとしたら、彼女もまた百年近くを生きている人間ということになる。

 自分で推測しておいてアレだが、不老不死の人間が椿さんの他にもいるとは驚きだ。


 彼女はにっこりと微笑んで、私に紙包みを強引に握らせてくる。指先に長い付け爪がしてあって、その先端が手のひらに食い込んで痛んだ。彼女の髪の毛からは、熟れきった果物のように濃密な甘い香りが漂ってくる。


「この薬は人魚の肉と違いますけれど、永遠に生きられるようになる作用があります。これを飲むだけで、あなたは恋人と同じ体になれるのです。老い、寿命、別れの恐怖から解放されます。倉橋椿さんだって、あなたと永遠に暮らせることを喜んでくれるはずですよ……」


 女性を口説き落とすように甘いトーンの声が耳元で囁かれる。

 私は選択を迫られて、微かに膝を震わせていた。


 ×


「――ばっかばかしい!」


 和服姿の女性が帰っていったところで、私はすぐさま怪しい紙包みを投げ捨てた。


 紙包みが開いて、中に入っていた薬の粒が廊下にばらける。

 彼女はこれを不老不死になれる薬のように言っていたが、それだって怪しいものだ……。

 和服姿の女性はおそらくは彼女自身も不老不死――永遠に生きる苦しさを知っておきながら、椿さんに人魚の肉を売りつけたのである。そこには善意の欠片もない。


 あの薬はきっと毒薬か何かなのだろう。私がこの場で死んだりしたら、それこそ椿さんの心が深く傷つく。私だって死んでも死にきれない。


 不意に一匹のネズミが柱の陰から姿を現す。すると、食べ物か何かと勘違いしたのか、廊下に散らばった薬の粒に駆け寄ってきた。前足で器用に薬の粒を掴むと、立派な前歯を使ってカリカリと削り始める。


 もしも、あの薬が本当に不老不死の効果を持っていたら……。


「いやいや、そんなことは絶対にない!」


 私は頭を振って、すぐさまネズミから目をそらす。

 そして、本来の地図作製に戻るべく、再び少女九龍城の奥に向かって歩き出した。


 ×


 で、それから二十四時間が経過した。

 私はことの重大さを知らないまま、少女九龍城の測量を続けていたわけである。


 感染ルートは分かっている。あの薬を食べたネズミが全ての始まりだ。少女九龍城には小動物がたびたび迷い込んでくる。鳩やカラスといった鳥類、野良犬や野良猫、蛇までが侵入してくる。ネズミを捕食した、あるいは噛まれた動物たちがゾンビ化していったのだ。


 私はゾンビ化した動物から逃げまどい、ようやく食堂の近くまで戻ってきていた。

 角を右に曲がれば食堂――だが、右の角からはゾンビの足音が聞こえてくる。どうするべきか立ち止まって考えてしまう。


 背後から襲われたのはその直後だった。


「チズちゃん、いただきまーすっ!」


 床に伏せることによって、ギリギリの所で背後からの攻撃を回避する。


 私を攻撃してきたのは、全身の皮膚が緑色に染まり、真っ赤な瞳をランランと輝かせている虎谷さんだ。

 真っ先に感染した飼い犬・カイに噛まれて、彼女はペット共々ゾンビ化してしまったのであると、食堂に残っている住人たちから聞いた。


 虎谷さんゾンビがケタケタと笑う。


「あはははは! ゾンビって楽しいよーっ! 世界がキラキラして見えるーっ!」


 何が『永遠に生きられるようになる』だっていうのか!

 ゾンビになってるじゃないか! 完全に詐欺だ!

 あの女……本気で私のことを騙そうとしていた。椿さんに続いて私まで騙そうとするなんて、性格が悪いどころの話ではない。


 住人の多くがもうゾンビ化している。このままでは、残された住人たちは脱出できずに全滅だ。解決策は何一つ見つかっていない。せめて、仲間たちが集まっている食堂まで戻らなければいけないというのに……。


「チズちゃんもゾンビになっちゃおうよーっ!」


 飛びかかってくる虎谷さんゾンビ。

 というか、ゾンビなのに活発すぎじゃないですか!?


「――隙有りっ!」


 瞬間、私の前に飛び出してくる影が一つ。

 彼女は木刀を両手で構え、柄の部分で虎谷さんゾンビのみぞおちを打った。


「うぁあ、ゾンビになってもみぞおちはダメ……」


 その場に崩れ落ちて、ぐったりと動かなくなってしまう虎谷さんゾンビ。


「どうにか間に合った……でも、あまり心配させないでよ?」


 ピンチに颯爽と駆けつけてくれたのは、金髪のサムライ少女――キャサリン・クラフトさんである。

 動きやすい胴衣姿で、愛用の木刀を下げている。

 日々欠かさず稽古を付けている彼女は、突然の事態にも臆さず戦えているのだった。


「あ、ありがとうございます……」

「脱出ルートを考え出せるのは千鶴さんだけだもの。ここは私たちに任せて、食堂まで一気に駆け抜けて」

「私たち?」


 すると、食堂への近道である右の曲がり角から、ゆらりと一人の少女ゾンビが倒れ込んできた。

 よくよく見てみると、虎谷さんと仲良しの結城アキラさんのゾンビだ。身長が百七十センチを超えているため、ゾンビとしても迫力がある。


「虎谷さんキングダムを作る野望が……無念――」


 アキラさんゾンビも気を失ってしまう。


 それから、彼女を仕留めた張本人が右の廊下から姿を現す。真冬でもないのに真っ赤なコートを羽織った、アキラさんにも負けないくらいにスラッとした立ち姿の女性である。私は彼女にどこか見覚えがあった。


「――って、殺人鬼の三島悠里さんじゃないですか!?」

「うーん、バイオハザードをリアルでやることになるとは思ってなかったなー。その辺にハーブとか落ちてないのかな?」


 彼女もよほど戦い慣れているのか、この状況に全く動じていないどころか、有名ゲームと現状を重ね合わせて冗談を言っている。


「殺人鬼と共闘するのは不本意だけれど、この非常事態では仕方がない……」


 キャシーさんは三島悠里のことを横目で睨み付けていた。


 それから、少女九龍城の奥から軽快な足音がいくつか、さらにはバサバサと翼を羽ばたかせる音も聞こえてくる。おそらくはゾンビ犬とゾンビカラスだ。ハッキリ言って、人間ゾンビより何倍も厄介な相手である。


「すみません、ここはお願いします!」


 金髪サムライ少女と真っ赤な殺人鬼――不思議なコンビにこの場を任せて、私は食堂に向かって走り出した。

 測量器具の詰まっていたリュックも捨て置く。体が軽くなって、残された少ない体力でも立ち止まらずに走りきることが出来た。


 無人になったメインストリートを通り過ぎて、それからすぐに食堂前の廊下が見えてくる。

 ちょうど、管理人さんが廊下の左右にテーブルや椅子を積み上げている真っ最中だった。バリケードを作っているのだろう。


「……おぉ、チズちゃんか! 入って、入って!」


 私はバリケードの隙間から滑り込み、それから崩れ落ちるように食堂に飛び込んだ。


 食堂に集まれた住人仲間は片手で数えられる程度しか残っていなかった。運良く逃げおおせた住人、そもそも外出中だった住人は少ない。

 どれだけ多くの住人がゾンビ化してしまったのか、ひしひしと思い知らされる。


 唯一の救いは――食堂に椿さんの姿があったことだ。


「チズちゃん、無事じゃったか!」


 椿さんは駆け寄ってくると、私の体をすぐさまギュッと抱きしめてくれた。

 彼女の体は私よりも一回りほど小さいのに、抱きしめられると心の底から安心できる。走り続けで高鳴る鼓動も、波が引いていくように収まっていった。


「私は大丈夫です、椿さん。だけど……」

「――それで、チズちゃん的にはどんなルートが良いと思ってるんだ!?」


 管理人さんが廊下から戻って来るなりに問いかける。


 食堂に至るまでの道のりで、私はもちろん脱出ルートについて考えていた。

 少女九龍城には無数の出入り口がある。窓まで含めたら、もはや出入りし放題と言っていいだろう。だけど、私たちがいる『食堂』に限っては話が別なのだ。


「……食堂は周囲を見通しの良すぎる廊下に囲まれています。ここから逃げるとしたら、最低でも一度はゾンビたちと遭遇する可能性があります」

「ぐぬぬ、何か確実な脱出手段はないのか……キャシーも帰ってくる様子がないし」


 管理人さんが頭を悩ませてうめく。

 直後――ジリリリリン――外の廊下にある固定電話のベルが鳴った。


「はいはい、こんな状況でも電話番は私の仕事ですよっと」


 電話番を任されている小山紗英さんが腰を上げる。

 彼女は駆け足で電話を取りに行き、


「……はい、もしもし。はい――はぁっ!? えぇーっ……まぁ、とりあえず代わりますけど、」


 すぐさま、とまどいの表情で半開きのドアから顔を出して来た。


「あのぉ……チズちゃんにお電話なんですけど、」

「私に? 誰から?」

「倉橋椿だって名乗りやがってるんですが……」


 私は思わず椿さんと顔を見合わせる。

 椿さんは自分自身を指さして「……わっち?」と首をひねっていた。


 ×


 小山さんと入れ替わるようにして、私は食堂前の廊下に恐る恐る顔を出す。


 廊下の左右に展開されたバリケード――それらに侵入を拒まれて、住人ゾンビたちが何人か困った様子で立ち尽くしていた。どうやら、必ずしも虎谷さんみたいに活発なゾンビになれるとは限らないらしい。


 ドアは開けたままで、私は黒電話の受話器を握る。


「……もしもし?」

『おっ、チズちゃんか? わっちじゃ、わっちわっち』


 聞こえてきたのは確かに椿さんらしい声だった。


「わっちわっち詐欺ならお断りなのですが、どちら様でしょうか? こっちは絶体絶命の大ピンチなんです。救援要請の電話を受け取り損ねたりしたらどうするんですか?」

『ゾンビ問題ならば、もうすぐ簡単に解決するから大丈夫じゃ。もうすぐ、そっちのわっちと管理人さんが塩を撒き始める。これが効果抜群でな、毒素が抜けてゾンビから人間に戻れてしまうのじゃ。あのインチキ商人、本当にどうしようもないイタズラをしよる……』

「そんなまさか――」


 開けっ放しのドアをくぐって、管理人さんと椿さんが食堂から飛び出してくる。二人は確かに袋入りの食塩(一キログラム)を抱えていた。


「残された手段はこれしかない! 邪悪なものには塩を撒けって、おばあちゃんが言っていたからな! 椿、どんどん撒きまくれ! 安売りの時に買いすぎたんだ!」

「わっちの塩をくらえーっ! ぱらぱらーっ!」


 威勢良く食塩をばらまく管理人さん&椿さん。


 すると、緑色をしたゾンビ少女たちがあからさまに苦しみ始めた。

 触れた食塩が肌の緑色を吸収して、炭のように黒くなって床にポロポロと落ちていく。肌の色が元に戻った少女たちはすっかり大人しくなって眠り込んでしまった。


 毒気が抜かれたとはこのことじゃな、と椿さん。

 あっけない幕切れに、私はすっかり気が抜けてしまった。


「本当に塩が利くとは思いませんでした……」

『にゃっはっは! 百年後から電話を掛けてるんじゃから間違いない』

「――って、百年後ぉ!?」


 通話相手がさらりと言ってのけた単語に驚愕する。

 つまり私が電話をしているのは、わっちわっち詐欺ではなくて本当の椿さんなのか?


『時折、こっちの時間とそっちの時間が混線するらしい。吹雪のやつは交換機がナントカって言っておったが、詳しいことはわっちにもよく分からん。まぁ、わっちが電話しなくても問題は解決したんだが、ちょっとした気休めにはなったじゃろう?』

「は、はい……確かに安心しました、気が抜けてしまうくらいに」

『そうか、間に合って良かった。チズちゃんの安心した声が聞きたくてのう……』

「私の声なんて、いつだって聞けるじゃ――」


 いや、そうか……。

 百年後の世界に私はいないのだ。


「あの……椿さん。未来の私はあなたのことをちゃんと幸せに出来ましたか?」


 心配なことはたくさんあるけれど、特に心配なのはやはり椿さんのことである。

 彼女のことを幸せにすると私は誓った。その誓いを守れたのか――それが気がかりなのだ。

 椿さんを不幸せなまま、ただ一人、世界の終わりに置き去りにしてしまうような……そんな終わり方だけは絶対に嫌だ。


『それはー、ほら、内緒じゃな』

「まさかの内緒ですか」


 椿さんが照れるようにモニョモニョとし始める。


『チズちゃんを相手に、チズちゃんとののろけ話をしても仕方ないじゃろ?』

「……確かにそうですね」


 彼女の口ぶりからするに、少なくとも不幸せってことはないだろう。それを聞けただけで私は安心だ。これ以上のことを知る必要はない。私が椿さんと何をするのかは、こっちの時間の私たちが決めることなのだ。


『――おっと、そろそろ時間切れのようじゃ。わっちは百年後でも楽しくやっとるから、チズちゃんはそっちのわっちを幸せにしてやってくれ』

「分かりました。そっちの椿さんもお元気で」

『じゃあな、チズちゃん。愛してる』


 そこで電話は途切れた。

 終わってしまえば、まるで夢でも見ていたような心地である。


 こっちの椿さんはといえば、バリケードを乗り越えてきた虎谷さんゾンビに塩を投げつけていた。

 塩が切れてしまうと、食堂にいる子たちがバケツリレーのように新しい塩を渡してくれる。

 攻め込んでくるゾンビたちは元人間、元動物の区別なく、毒素が抜けて元の健康状態に戻っていった。


「んぁっ……私、何してたんだっけ?」


 肌の色が元に戻って、寝ぼけたようなことを言い出した虎谷さん。


 管理人さんが呆れかえり、彼女の髪の毛をくしゃくしゃと引っかき回した。


「ゾンビ軍団の親玉になって、私たちを襲ってたんだよ……まったく」

「なにそれ、楽しそう! もっかい、やる!」


 食堂に攻めてきた第一陣があらかた片づく。

 ゾンビはまだまだ残ってるだろうが、食堂の周辺の安全は確保できた。こちらは味方が増えて、食塩の貯蓄も十分ある。ゾンビが撃退されてしまうのも時間の問題だろう。


 空っぽになった食塩のビニル袋を投げ捨て、椿さんが廊下の壁に寄りかかる。いつも着ている赤襦袢がはだけて、首筋から鎖骨に玉の汗が流れているのが見えた。塩を撒くだけでも、次から次へとゾンビが飛び込んでくるので疲れるのだろう。


「そういえば――チズちゃん、さっきの電話は結局なんだったかの?」

「あれはイタズラ電話でしたよ、イタズラ電話」


 私は椿さんのそばに歩み寄り、おもむろに彼女のことを正面から抱きしめた。

 すると、椿さんの心臓がトクトクと脈打っているのが分かる。鼓動が少しずつ早くなっているのも分かる。これで鼓動が早まるとは、意外に椿さんは恥ずかしがり屋みたいだ……。


「あ、あれ!? チズちゃん、こんなに積極的な子じゃったっけ!?」

「積極的な日もあるんですよ、私にだって」


 不思議がっている彼女を私は離さない。

 十年後だろうと、百年後だろうと、私は彼女のそばから離れない。

 私はゾンビなんかじゃなくて、人間で、それ故に百年後には生きていられないけれど――だからこそ、椿さんの心の中で生きていけるように、彼女と幸せを築きたいと思うのである。


「な、なぁ、チズちゃん? 次のゾンビが来ちゃっとるんだけど……」

「まあまあ、もう少しくらい良いじゃないですか。うーん、抱き心地が良いですねー」


 最後に補足をしておくと、ゾンビ化した住人&動物たちは丸一日かけて全員が元通りになった。

 毒素を吸収して、真っ黒になった食塩を掃除するのが大変だったけれども、バイオハザードが少女九龍城の外に広がることはなかったのである。


 それから、私はまた少しだけ椿さんと親密になった。

 積極的になるのは良いことである。



(おしまい)

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