第27話 鏡の国の私たち
大浴場で体を清めて準備万端。
私――倉橋椿は新しいパジャマを着て、メインストリートに向かう廊下を歩いている。
いつも着慣れている赤襦袢だが、ヨレているので今夜は封印だ。このパジャマは私の親愛なる加納千鶴さん……つまりはチズちゃんがプレゼントしてくれた。
そして、いつもは格好を気にしていない私が、どうして新しいパジャマを着ているのかといったら、それはもちろん恋人の部屋に遊びに行くためである。
私たちは単なる友達同士ではなくて、それこそ本気でお互いのことが好きだ。好きな人と夜に色々するとなれば、いくら適当人間の私でも身なりに気を遣うというものだ。
少女九龍城の住人たち――例えば松沢姉妹と遊んでいた頃は、別に自分の身なりになんて気を遣わなかった。私には長年培った技術があるから、それで相手を満足できるだろうと思っていたのである。
でも、チズちゃんと付き合うようになってからは考え方が変わった。彼女をもっと多角的に楽しませてあげたいと思うのである。
まぁ、結局は服装なんて雰囲気作りの一環で、最後は己の技術が物を言うわけだが……。
「今日はどんな風にしちゃおうかのー」
などと考えているうちに、私はチズちゃんの部屋の前に辿り着いた。
彼女は少女九龍城の地図作製に心血を注いでいる。
測量結果を方眼紙に書き込むというレトロな手段に加えて、最近はパソコンを駆使した地図の3D化まで行っているのだ。
その結果、大量の方眼紙だけでなく精密機器が生活スペースを圧迫して、最初の部屋より二回りほど大きい場所に引っ越したのだった。
で、これが私にとって好都合。
チズちゃんの部屋はメインストリートの外れも外れに存在する。一番近いお隣さんまで、なんと部屋数にして十個は離れているのだ。これだけ離れていたら、多少騒いだところで誰の迷惑にもならない。
あんなことや、こんなことをしても平気なのだ(それでいて、私の部屋よりは全然まだ食堂に近いのである)。
部屋の前に到着して、私は早速ドアを押し開ける。
「チズちゃん、入るぞー」
そして、彼女の部屋で待っていたのは――
「やはり今日の私も似合ってますね、うふふふふ……」
鏡に映った自分と見つめ合って、すっかり悦に入っているチズちゃんの姿だった。
加えて、下着姿でグラビア写真みたいなポーズを決めていた。
ここで補足しておくと、加納千鶴という人間は十年後の自分に恋をしたことがある。それだけでなく、現在の自分自身にも本気でときめいている。つまりは『超弩級のナルシスト』と言えるだろう。
これは二股ではないか、という捉え方もある。リアルの私と、鏡の中にいる自分自身――そのどちらかを選べとチズちゃんに迫ってもいい。だけど、所詮は鏡に映った虚像に過ぎないのだ。リアル人間である私に叶うはずはないのだ。
そのはずだ。
……そのはずなのだ!
「ほほぅ、チズちゃん。わざわざ勝負下着でお待ちかねとは……わっちのことが待ちきれなかったようじゃのう」
「椿さん、見てたんですか!?」
チズちゃんが驚きのあまりにビクッと体を震わせる。
私は彼女のことを捕まえると、おもむろにチズちゃんの肌をなで回した。
「わっちが触らぬうちから、こんなにもう濡れておるではないか。鏡を見ながら何を妄想しておったのじゃ? わっちにはチズちゃんの考えていることがお見通しだからのう! わっちに何をして欲しいのか、その口でハッキリと言ってみるのじゃ! そうしないと、最後までお預けじゃからな!」
「あっ、やだっ、椿さんってば……私、そんなにエッチなことなんて、」
「だったら、どうしてこんなに熱くなっておる? ほら、わっちに聞こえるようにハッキリと説明してみるのじゃ! ほれほれ、そうしないと切ないばかりじゃぞ!」
「わ、わかったから、椿さん! お願いだから、ベッドに――」
×
「――むなしいっ!」
翌朝というか、すでに昼を過ぎた頃。
私はチズちゃんの自室で目を覚ますなりに、強烈な虚無的感情に襲われていた。
あの時、彼女が鏡を見ながら考えていたことは一つしかない。チズちゃんは自分自身に興奮していたのだ。私はそれを分かっていて、あんな風に彼女のことを責め立てた。チズちゃんだってごまかすために、私の言葉責めに合わせてくれたのだろう。
本当は気づいている。
私は鏡の中のチズちゃんに嫉妬しているのだ。
彼女が自分自身に恋する人間であるのは、付き合うようになる前から知っていた。その部分を含めてもなお、私はチズちゃんが好きで好きでたまらなかった。私が不老不死であると分かってもなお、彼女が私のことを好きでいてくれるのと同じことだ。
「鏡の中のチズちゃんに嫉妬したって、何にもならないのにのう……」
私は頭を悩ませて、チズちゃん愛用の枕をぎゅっと抱きしめた。彼女の匂いをいっぱいに吸って、どうにか心を落ち着かせようとしてみるけれど、それでは逆にチズちゃんのことで頭が一杯になるばかりだった。
チズちゃんが鏡なんて見ずに、私のことだけを見てくれたらいいのに……。
いっそのこと、少女九龍城に存在する全ての鏡を隠してしまい、彼女の身だしなみを私がチェックするようにしたらどうだろう?
「無駄じゃろうなー」
私はこの部屋にある大きな鏡に視線をやる。
すると、鏡に映っているチズちゃんの姿が目に入った。
……あれ?
チズちゃんは私よりも早起きをして、とっくに部屋から出て行ったはずなのだけれど。
部屋中をキョロキョロと見回して、鏡に映っているはずのチズちゃんの姿を探す。だけど、この部屋には私以外の人間は存在せず、それ故に鏡には私の姿だけが映るはずなのだった。というか、なんか逆に私の姿が鏡に映っていないぞ!?
よくよく見ると、鏡の中にいるチズちゃんはポニーテールをしていた。いつもは私のプレゼントした青色のリボンで、長い髪をツインテールにしているはずだ。それに加えて、鏡の中のチズちゃんが使っているのは赤色のリボンだった。
そして、唐突に『鏡の中のチズちゃん』が言った。
「あっ、そっちの椿さん、聞こえてますか? 聞こえているなら返事をしてください!」
×
聞き間違いでなければ『鏡の中のチズちゃん』は確かに語りかけてきていた。
鏡には相変わらず、ポニテのチズちゃんだけが映っており、一方で私の姿は映っていない。
吸血鬼は鏡に映らないという逸話を聞いたことがある。だけど、私は単なる不老不死であり、鏡にはしっかりと体が映るはずだ。
動揺した私は震える声で答える。
「き、きこえておるが?」
「あぁ、よかった! 少し困ったことになったので『そっちの椿さん』に助けて欲しいことがあるんです」
髪型とリボンを除けば、姿形から声までまるっきりチズちゃんだ。
我らが女子寮・少女九龍城では不可思議な事件がたびたび起こる。私は今まで、時間停止だとか、タイムスリップだとかを経験してきたけれど、まさか『鏡の世界』に遭遇するとは思っていなかった。今回は流石に度肝を抜かれた。
「……というか、いわゆる『鏡の世界』で合ってるんじゃよな?」
素っ裸だった私はイソイソとパジャマを着込む。
それから、鏡の表面を指先で突っついてみた。
すると、鏡の表面はタライに溜めた水のようにユラユラと揺らぐ。
そのまま通り抜けられそうな感触だった。
ポニテのチズちゃんがニコッとして答える。
「そういう系の認識で合ってると思いますが、今はその辺の細かい定義とかはスルーしておきましょう。それよりも優先する問題があって、実は『こっちの椿さん』がそちらの世界に行ってしまったようなんです」
「マジでか!? 流石はわっち、迷惑なことをするのう……」
私が鏡に映らなかった理由は、つまり『鏡の中の倉橋椿』が鏡から抜け出してしまったからなのだろう。
鏡世界の本分を放棄するとは、一体全体、どんな目的があってのことなのだろうか……まぁ、大体は想像付くけれども。
ポニテのチズちゃんが、鏡の向こうでため息をついた。
「どうやら、椿さんは『そっちの加納千鶴』を探しているようです。私が椿さんにやきもちを焼かせてしまったせいで、その、そちらに迷惑を掛けてしまってすみません。なるべく、鏡で自分のことを見すぎないようにはしているんですが……」
「その辺は本気で頼む。わっちもやきもち焼きまくりじゃから」
鏡の向こうにまで渡って、チズちゃんを襲ってしまいたい気持ち――残念ながら、私自身のことなので非常に理解できてしまう。
パラレルワールドに渡る手段があったら、私だって別世界のチズちゃんにアタックしてしまうだろう。
だが、もちろん『もう一人の私』を野放しには出来ない。
こちらのチズちゃんは、あくまでこちらの存在である。
それを鏡世界の住人の好きにはさせない。相手が私自身であろうとも、そこは絶対に許されないのだ。
「ともかく、こっちに侵入した倉橋椿は捕まえておく。おぬしはそこで待っておれ。わっちだけならともかく、チズちゃんまで同時存在したら住人たちが混乱するじゃろう。わっちの始末はわっちが付ける」
「あ、ありがとうございます、椿さん! 私、椿さんの行動的なところ……大好きです!」
瞳をキラキラさせるポニテのチズちゃん。
鏡の向こうの別人だからって、そんなダイレクトに誉められたら照れてしまうなぁ……。
×
私が最初に向かったのは食堂である。
今は昼を過ぎた辺りなので、結構な人数がいるだろうと期待できる。
駆け足で食堂のドアをくぐると、案の定、そこには二十人近い少女たちが集まっていた。少し遅れて昼食を食べていたり、昼のワイドショーを見ていたり、当番制で食器の片づけをしていたりする。
ただ、ぐるりと見回してみたけれど、そこに『もう一人の私』の姿はなかった。
私がずいぶんと焦っている様子なので、みんなが心配したようにこちらを見る。
すると、住人仲間の虎谷スバルが「どしたの?」と小首をかしげた。
まずは近くにいる彼女から聞き込んでみる。
「なぁ、スバル。ここに『わっち』が来なかったか?」
「ばっかもーん、そいつがルパンだ!」
途端、スバルがだみ声でツッコミを入れてきた。
それが何のネタであるかは理解できるが、今は冗談を言っている場合ではない。
私は彼女の髪に両手を突っ込み、素早く引っかき回してやった。当然、ふわっふわだったスバルの髪が、アフロヘアーの如くモシャモシャになってしまう。彼女の髪はケアを怠ったり、強風に吹かれたりすると爆発してしまうのだ。
「うぁーん、椿さん、ひどい!」
スバルは涙目になって、丸いテーブルにぐったりと突っ伏す。
「今のはネタ振りじゃなかったのじゃ。ネタ振りじゃなかったのじゃよ、スバル……」
住人たちからの反応もない。
やはり『もう一人の私』はチズちゃんを追いかけていったのだろうか?
彼女が休日にすることは決まっている。少女九龍城の地図作製だ。
生活範囲の地図は大体作り終わったので、今では丸一日掛けて、あるいは泊まりがけで出かけることが多い。彼女の行く先を正確に知ることは不可能だ。
念のために確認する。
「えーと、ちなみにチズちゃんの姿を見た人は?」
「チズちゃんなら、さっきまでいたけど?」
答えてくれたのは管理人さんだった。
食器を洗っていた彼女は、わざわざ手を止めて説明してくれる。
「昼飯を食べたあと、夕食用の弁当を持って出て行ったところだ。十五分……いや、二十分くらい前だったかな。荷物を抱えていて、夜の十時には帰ってくる予定だってさ」
「どっちに向かったかは分かるかの?」
「いや、食堂のドアから出て行いって、それっきりだな」
管理人さんがタオルで手を拭き、それから早足で私の元までやってくる。それから、他の人には聞こえないボリュームで耳打ちした。
「……もしかして、お前が前に『家出』した時に関係する話か?」
「いや、そこまでシリアスな話じゃないのは確かじゃ。心配をかけてすまない……」
「それなら良かった。でも、困ったことがあったら相談しろよ?」
ホッと一安心して、管理人さんがキッチンに戻っていく。
その時だった。
食堂のドアが唐突に開いて、真ん前に立っていた私の背中にゴツンとぶつかった。
突っ立っていた私の方が悪いので、ここはそっと道を譲る。
すると、少し開いたドアから見知った顔が覗き見てきた。
「……えーと、来ちゃいました」
それはポニーテールのチズちゃん――すなわち『鏡世界のチズちゃん』だった。
×
食堂にいる住人たちは「なんだ、いるじゃないか」と一同揃って拍子抜けしている。チズちゃんの髪型が変わっていることについても気にしていないようだった。
ポニテのチズちゃんを連れて、私は食堂から廊下に出る。
改めて見てみると、頭のてっぺんからつま先までまるっきりチズちゃんと同じだった。食堂にいた住人たちが、何の違和感も覚えなかったことに納得してしまう。
「おぬし、大人しく待っていると言ったばかりじゃないか」
「手こずっている様子が鏡から見えてしまったので、すみません……」
申し訳なさそうに言っているポニテのチズちゃん。
思い返してみると、食堂にも小さな壁掛けの鏡が確かに一枚あった。あそこから、こちらの世界を観察していたのだろう。
少女九龍城には各個人の持っている鏡以外にも、大小様々な鏡が設置されている。行き来するのには不自由しない。
「ともかく、今は走りましょう。すぐに追いつけるはずです」
手を握られて、私は彼女と一緒に走り出す。
ただ仲良く手を握るだけのことが、なんだか非常にこそばゆい。
「しかし、『もう一人のわっち』は食堂に来ていなかった。おそらく、すでにチズちゃんの行く先を突き止めて、彼女を追いかけているのじゃろう。チズちゃんがどこに向かっているのかは、わっちらには残念ながら突き止められない」
「そこで私の出番というわけです。もう一人の私が考えていることですから、どこに向かっているのか……どこの地図を作ろうとしているのかは大体分かります」
「なるほど、本人じゃものな」
ポニテのチズちゃんに先導されて、私は少女九龍城の廊下を駆けていく。彼女の頭には近辺の地図が叩き込まれているようで、気づきにくい細い通路や、よく観察しても見抜けないような隠し扉を一つも見落とさない。
五階分ほど階段を駆け上がって、私たちは小高い棟の屋上に出る。
「ここから先は滑るので、私にしっかりと掴まっていてください!」
「す、すべる!?」
屋上には滑り台が設置されており、その行く先は地上まで――否、のぞき見たところ地下まで続いているようだった。
ポニテのチズちゃんに掴まって、私は彼女と一緒に滑り台を猛スピードで下りていく。ご丁寧にローラー付きの滑り台だ。
滑り台が地下に突入した途端、気温が下がってブルッと震えてしまう。ポニテのチズちゃんは非常に抱き心地が良くて、暖かいのだけれど、やはりいつものチズちゃんに会いたかった。
彼女に抱きついて、目を見てハッキリと、あなたは私のモノなのだと言ってやりたい。鏡の世界から出てきた、よく似ている別人のモノなんかではないのだ。
滑り台の終着点にやってきて、私たちは勢い余って床につんのめる。凹凸の少ないなめらかな石畳が、ピッタリと頬に張り付いて冷たい。
ただ、ポニテのチズちゃんが下敷きになっているので、体はどこも痛くなかった。
「あいたたた……椿さん、どいてもらえませんか」
「す、すまぬ。なんか、乗り心地も抜群によかったから」
私はいそいそとポニテのチズちゃんから降りる。
途端、寂しい地下道には場違いな言い合いが聞こえてきた。
「――よいではないか、よいではないか! いつもチズちゃんは素っ気なすぎる。もっと欲望に身を任せて、自分を解放するのじゃ! な? わっちとエッチなことがしてきたくなったじゃろう? だから、ほら、このバニーガールのコスチュームを着るのじゃ!」
「――きょ、きょうの椿さん、なんか変ですよ! というか、この尻尾はなんですか!? どこに突っ込む気ですか!? 私は地図を作りに来てるんですから、椿さんとエッチなことはしませんからね! 夜まで待ってくださいよ、夜まで!」
「――そう言っておきながら、いつも深夜まで地図ばっかりじゃ! 日取りを改めて夜這いしてみたら、今度は鏡を見ながら自分の世界に没頭しておるし……わっちは欲求不満だ! だから、その慰めとしてバニーガールになるのじゃ! 尻尾とニンジンを装着するのじゃ!」
「――尻尾だけじゃなくて、ニンジンもですか!?」
私とポニテのチズちゃんが、起きあがって猛ダッシュする。
そして、曲がり角を左折した先に、くんずほぐれつしている『もう一人の私』とチズちゃんの姿を発見した。
まるで、ライオンが草食動物を襲っているかのような光景だ。組み伏せられたチズちゃんは、すでに上着を脱がされている状態である。
私は間髪入れずに『もう一人の私』に飛びかかった。
「わっちのチズちゃんに手を出すな、おりゃーっ!」
相手は自分自身なので、どの辺が弱点であるかは熟知している。
私は『もう一人の自分』を羽交い締めにすると、まずは右のうなじにぺろりと舌を這わせる。
すると、全身から力が抜けてしまうので、組み伏せられていたチズちゃんが簡単に脱出してくれた。
「な、なにものじゃ!? こんなテクを使ってくるのは――」
それから、右脇腹から腰にかけてを指先で撫でる。少しだけ爪を立てるようにするのがコツだ。これをされると全身がくすぐったくなって、いよいよ何も抵抗できなくなるのである。
ここから、さらに敏感なポイントを攻撃する!
流石に『もう一人の私』も、自分が誰に攻撃をされているのか気づいたらしい。彼女はぐったりとして抵抗するのを止める。
「お、おのれ、こっちの世界のわっちか……邪魔をしおって!」
「わっちのチズちゃんに手を出すとは良い度胸だ。このまま、快楽地獄に送ってやろうか?」
「おぬしだって、チズちゃんにバニーガールの格好をさせたいくせに、ぐぬぬ……」
無論、その気持ちを否定することは出来ない。
鏡の世界に行けると先に気づいたのが、もしも彼女ではなく私だったとしたら――組み伏せられている相手は逆転していたことだろう。
そして、危うくバニーガールにされそうだったチズちゃんは……駆けつけた『鏡の国のチズちゃん』と対面していた。
ツインテールとポニーテールの違いだけなので、まるで生き別れになった双子(しかも一卵性)の再会シーンを見ているようだった。
見つめ合う二人のチズちゃん。
私は念のために説明をしておく。
「あー、えーと、その子は鏡の世界から来たチズちゃんでな……聞いてるかの?」
不意に嫌な予感を覚える。
私のチズちゃんを『鏡の国のチズちゃん』に取られたりはしないだろうな。ぶっちゃけ、その可能性が十分にあるから怖い。
まさか、鏡の国から『もう一人のチズちゃん』が出てくるだなんて、そんなことを真面目に考えられる訳がないじゃないか。
組み伏せられている『もう一人の私』がぽつりと呟く。
「これは寝取られフラグでは……」
「い、いやなことを言うではないよ、わっち」
化粧の具合やら、肌のツヤやらを観察しているチズちゃんたち。
だが、彼女たちは唐突にお互いから興味を失ってしまう。
チズちゃんは私の方に、ポニテのチズちゃんは『もう一人の私』の方に歩み寄る。そして、床に倒れ伏している私たちのことを引っ張り起こしてくれたのだった。
私はチズちゃんに問いかける。
「わっちはてっきり、このままチズちゃんを取られてしまうのかと思っておったよ」
「……あぁ、それなんですけど、実際に実物を見てみたら、どこか隙があるというか、」
すると、ポニテのチズちゃんも「うんうん」と頷いた。
「鏡越しで見る姿の方が、どうしてか魅力的なんですよね。記憶の中にあるイメージの方が美しいというか、本物にはとても失礼な話なんですけど……」
二人のチズちゃんが「あはははー」と気まずそうに笑っている。
私と『もう一人の私』も互いに顔を見合わせて、ホッと胸を撫で下ろした。
「どうやら、鏡世界の住人にチズちゃんを取られることはなかったようじゃな……」
「わっち、取り返しの付かない失敗をしたかと思ったよ」
それから、床に散らばってしまった尻尾とニンジンを拾い上げる。
実のところ、これと同じ物を私はチズちゃんに内緒で持っているのだった。
いつか彼女にバニーガールのコスチュームを着て欲しい、このオモチャを使って欲しいと思ってはいたのであるが、今の今まで言い出せずにいたのだ。
一瞬の目配せで、私と『もう一人の私』は意思を疎通させる。
そして、同時にチズちゃんたちの腕をしっかりと掴んだ。
片方は地図作りに出発しようと、片方は鏡の世界に戻ろうとしていた二人が、虚を突かれてビクッと飛び上がる。
「「あのぉ……椿さん、何か?」」
「わっちらが暴走してしまったのは、チズちゃんたちが鏡ばかり見ているからじゃぞ。そのことに関する責任は、もちろん取ってくれるんじゃろうな?」
「四人が揃う機会などそうそうないからのう……せっかくだから、四人でしか出来ないことをしたいところじゃ。今すぐ付き合ってくれるかや、チズちゃんたち?」
現実から目を背けるように、明後日の方を向いているチズちゃんたち。
だが、すぐに観念して「「分かりましたよう……」」とうなだれるのだった。
×
その後の話。
四人で夜通し遊んだあと、鏡世界の住人たちは元の場所に戻っていった。以後、鏡はいつも通りの調子に戻り、あっちとこっちを行き来することは出来なくなってしまった。
ポニテのチズちゃんは原理について知っているような素振りをしていたけれど、結局は細かいことを聞き逃したままである。
こちらのチズちゃんについて言うと、以前よりも鏡と向き合う回数が明らかに減った。実物の自分を生で目撃したことにより、大きな心境の変化があったようである。
十年後の自分についても、過度な憧れを持ってはいないようだし、これは超ナルシスト気質が直っていく良い兆候ではないかと思っている。
ちなみにバニーガールになったチズちゃんは、動画に撮影してバッチリ保存してある。
夜な夜な動画を見返していることは、ちゃんと彼女に内緒にしている。
(おしまい)
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