第21話 永遠の話

 あの手紙は単なる冗談で、そのうちに椿さんは帰ってくるのではないか――そんな都合の良い期待を無視して、彼女はやはり帰ってこなかった。


 椿さんを失ってしまった実感は、日にちを追うごとに大きくなっていった。 死んだプランクトンが海底に降り積むかのように、少しずつ……けれども確実に増えていくのだ。


 椿さんの消息を追うため、彼女の部屋に足を踏み入れたこともある。だけど、そこに彼女を追いかけるための手がかりは残されていなかった。パソコンは処分されていて、日記はおろかメモすらもなかった。


 彼女は私の――加納千鶴の恋心を知った。

 私が未来の自分に恋をしていることに気づいた。

 そうしたことで、椿さんは「許されざる恋を諦められた」と手紙に残していた。彼女には秘密がある。椿さんがすぐさま身を隠したくなるほどの大きな秘密だ。


 結局、私は彼女のことを何も知らなかったのだ。

 椿さんがどこの誰なのか。そもそも、本当に倉橋椿という名前なのかも怪しい。

 あの特徴的なしゃべり方だって、出身地を隠すための演技だったとすら考えられる。何もかもが怪しく見えてくる。


 椿さんがいなくなると、少女九龍城は唐突にがらんとしてしまった。でも、そう感じているのは私だけのようだった。

 いつの間にか住人が増えていたり、いつの間にか引っ越していたり……そういうことは珍しくない。椿さんもそのうちの一人だった、ということだろう。


 あるいは――みんな、元気に振る舞うのが上手なのか。


 たとえば、私以外で椿さんと深く関わっていたのは松沢姉妹だろう。

 椿さんがいなくなった当初は、姉妹そろって大声でわんわんと泣いていた。

 だけど、数日のうちに彼女たちは平生を取り戻していた。

 二人に言わせてみれば、「椿さんはいつかどこかに行っちゃいそうな気がしていた……」なのだそうな。


 私はたぶん、自覚するよりも前から椿さんのことが好きだった。だからこそ、彼女のことがちゃんと見えていなかったのだろう。彼女から発せられる消失の気配を、私だけが感じ取れていなかったのだ。


 椿さんを失ってから、私は地図作りに集中することが出来なくなった。学校の授業も上の空だ。住人仲間と楽しくおしゃべりしても、部屋で一人になった途端、落差でかなり憂鬱になってしまう。


 私は救いを自分自身に求めた。鏡を覗き込んで、前以上に一人きりの遊びにのめり込んだ。

 だけど、それは住人仲間とおしゃべりするのと同じで、わずかな時間のみ楽しくなれるだけだった。

 後には椿さんに対する罪悪感だけが残った。


 ×


 あれから、どれくらいの日数が経過したのか……私はいよいよ昔の自分に戻りつつあった。

 髪型も、服装も、メイクも気にしない。必要な時以外は部屋からでない。毎日心がけていた入浴すらサボるようになった。

 鏡を覗き込んでも、心がときめくことはなくなった。


 そして、ベッドの上で横になって、時間が過ぎるのを待っていたときのことである。

 誰かが部屋のドアをコンコンとノックした。


 私が返事をしないでいると、訪問者の手によってドアはゆっくりと開かれた。

 部屋に入ってきたのは……虎谷さんだった。

 彼女は今の今まで、ノックをしたことなんて一度もない。


「入るよ、チズちゃん?」


 私は寝返りを打って、彼女の方に視線を向ける。


 部屋に足を踏み入れたところで、虎谷さんはじっと立ち止まっていた。いつもは明るい彼女だけれど、私のひどい有様を見てか、怯えているとすら取れる表情をしている。胸には分厚い本を抱えていた。


「椿さんについての話なの……」


 途端、私は自分でもビックリするくらいの早さで起きあがった。

 虎谷さんは足の踏み場を探しつつ、私のすぐ隣に腰を下ろす。


「すごく不思議な話で、信じられないかもしれないけど……それでもいい?」

「信じるよ、虎谷さんの言うことなら」


 枕を抱きかかえたまま、必死になって彼女に迫る私。

 小さく頷いてから、虎谷さんは話し始める。


「私のおばあちゃんが、さらにおばあちゃんから聞いた話なんだけど……少女九龍城があった場所は、戦争で燃えちゃうまで歓楽街の一角だったんだって。九龍館って呼ばれている怪しいお店で、おばあちゃんのおばあちゃん――虎谷美空さんは住み込みで働いてた」

「少女九龍城はずっと前から女子寮だったわけじゃないんだね。初めて聞いたよ」

「それで、その時の九龍館に一人の少女娼婦がいたんだって。いつも赤色の襦袢を着ていて、すき焼きとビールが大好きで、煙草を吸うのも好きで、昔の遊女みたいに自分を『わっち』って呼んでたらしいの」

「それって――」


 虎谷さんのおばあちゃんの……さらにまたおばあちゃん。

 きっと、虎谷美空さんは明治か大正あたりの人だろう。

 百年以上も前の話になる。

 そんな昔の話だというのに、つい最近まで一緒にいた人のことを語っているような……。


「仲良しだったから、虎谷美空さんはその人の名前をちゃんと覚えてた。名前は倉橋椿さん。お母さんに頼んで、家からアルバムを送ってもらったんだけど、」


 彼女はそう言って、胸に抱えていた分厚い本を膝の上で開いた。


 そこに収められていたのは、かすれて見えにくくなった白黒写真だった。洋館のホールで撮影されたものであるらしい。

 年端のいかない少女から、淫らな格好をした娼婦、腰に刀を下げている女性、ドレスで着飾った貴婦人まで……様々な女性が写されている。

 その中には虎谷さんにそっくりなメイドさんの姿もあった。


 そして、写真の中心にいるのは――紛れもなく椿さんだった。

 全くの別人であるようには……否、彼女の血縁であるとすらも思えなかった。

 間違いなく椿さん本人だ。私には分かる。私は椿さんの内面を見ることが出来ていなかった。だけど、彼女の姿だけは間違えるつもりはない。


 だけど、どうして百年以上も前の写真に椿さんが……。


「虎谷美空さんの話によると、椿さんは結核にかかって生死の境をさまよったんだって」


 虎谷さんは話を続ける。


「それで、もう駄目だ――ってときになって、怪しげな物売りが椿さんのところに来た。そして、椿さんに人魚の肉を売りつけたの。人魚の肉を食べれば不老不死になれる。誰も信じてなかったけれど、椿さんだけはそれを信じた。そして、」


 彼女は不老不死になった。

 だから、時を越えて少女九龍城に現れる。

 椿さんからの手紙もあったように、知り合いがいなくなった頃、寂しさに耐えられなくなって戻ってくるのだ。

 彼女はそれを繰り返してきた。

 そして、きっと誰とも本当に分かり合うことはなかったのだろう。


「椿さんは元気になったんだけど、それから五年もしないうちに九龍館からいなくなっちゃったんだって。歳を取らなくて、成長もしなかったから、お客さんから気味悪がられるようになったみたい。まだ、二十歳にもなってなかった」


 虎谷さんがアルバムを閉じる。


 椿さんは不老不死になって、その代わりに……ほんの数年しか人前に姿を出せなくなった。

 彼女の時間だけが止まっている。少女たちは大人になる。でも、椿さんは永遠に少女のままなのだ。誰も彼女と歩みを共にすることは出来ない。


 それが彼女の秘密……。

 私は抱えている枕に膝を埋める。

 慰めてくれるように、虎谷さんが私の背中を優しく撫でた。


 ×


 不老不死の身を呪って、椿さんは姿を消した。

 私は優柔不断だったせいで、彼女を止めることが出来なかった。


 虎谷さんから話を聞いた夜、私は宛てもなく少女九龍城を彷徨っていた。


 この少女九龍城と呼ばれている女子寮には、風変わりな少女たちが集まってくる。

 そして、なぜだか説明の付かない不思議な現象が多発する。

 道に迷ったり、幽霊を怖がったりすることはあるけれど、いつも決まって最後は喜劇になる。


 でも、私と椿さんの関係が喜劇で終われるような気はしない。

 虎谷さんから大切なことを教えてもらったけれど、それでも何も変わらなかった。いや、すでに終わってしまったことなのだから、そもそも変わりようがないのだ。


 少女九龍城を彷徨っていたのは、何か新しい別のことが始まらないかと、心のどこかで期待していたからだと思う。

 今の私に出来ることは、ただひたすらに気を紛らわすことだけだ。

 椿さんのことを一瞬でも思い出さないようにするしかない……。


「あれ? ここは――」


 さまよい歩くうちに、なにやら見覚えのある場所に辿り着いた。

 そこはガラス張りの中庭だった。

 四方を大きなガラスに囲われていて、内部は吹き抜けになっている。天井もガラス張りになっていて、そこから青白い月明かりが真っ直ぐに差し込んでいた。中央の花壇に咲いているスミレの花が、雫をまとってキラキラと輝いている。


 中庭に足を踏み入れて、私は吹き抜けから空を見上げる。

 ちょうど、ガラス張りの天井に綺麗な満月が映っていた。

 月面で遊んでいるウサギの姿が見えそうなほどだった。

 そして、私が満月に見取れていると――


「チズちゃんでしょ?」


 不意に背後から声を掛けられた。

 振り返った先にいたのは、中庭の角に佇んでいる黒髪の女性だった。

 この人、どこかで見たことがあるような……。


「――わ、わ、わ、わたしだっ!? この人、未来の私だっ!」

「こんばんは、チズちゃん。十年後から来ちゃった」


 黒髪の女性……つまりは未来の私がニッコリと微笑む。

 再会するのはいつ以来だろう。彼女と出会ったせいで私は道を踏み外し、少女九龍城の踏破に挑戦することになったのだ。私が抱えている問題のありとあらゆる元凶である。

 未来の私が、私の顔を覗き込んでくる。


「私のことを全ての元凶とか思ってるでしょう?」

「うっ……」


 さすがは未来の私自身である。今の私が考えていることはお見通しであるらしい。

 後ずさりする私を追いつめるように、未来の私がジリジリと接近してきた。薄手のワンピースが月の光を受けて、すぐ下にある肌の色が透けて見える。遠目で見ると清楚なのに、近くで見ると抜群にやらしかった。


「……元気ないみたいだし、とりあえずベッドインする? いくらでも好きにして良いよ」

「しませんよ!」


 未来の自分に対して敬語になる。


 というか、未来の私は一体全体どうなっているんだ。

 痴女なのか?

 十年の間に何が起こってしまったのだ。


 未来の私が不満そうに口をすぼめる。


「はぁ……私がこうなったのは誰の責任だと思ってるわけ? あなたが椿さんにさっさと告白しないから、私はナルシストの一人遊びマイスターになってしまったのよ。それだけでは飽きたらず、椿さんにちょっとでも似ている子を見つけたら、あの手この手を使ってベッドに誘い込んだ。おかげで、私は椿さん以上のプレイガールとして、少女九龍城だけでなく――外の世界でも要注意人物扱いになっちゃったのよね」

「どうして、一人遊びだけで我慢できなかったんですか……」

「結局、いろんな子に手を出して会社をクビになり、私はこうして少女九龍城に戻ってきたというわけよ。もちろん、少女九龍城の住人である少女たちを味見するためにね。あはは、我ながら救いようがない」


 そんな未来を聞かされた私の方は、もはや一切の希望が持てない状態である。というか、途中から椿さんに似ているかどうか関係なくなってるし……。


「で、ここからが真面目な話なんだけど、」


 未来の私が急に声を真面目にする。


「久しぶりに戻ってきた少女九龍城で、椿さんと少しだけ話すことが出来たの」

「本当ですか!?」


 残された手紙には、いつかは少女九龍城に戻ってくると書かれていた。十年も経過すれば、かつての住人たちは総入れ替えになる。でも、未来の私と再会するだなんて、椿さんは少し戻ってくるのが早すぎたようだ。


 目を伏せて、未来の自分が語る。


「でも、椿さんの姿を見ることは出来なかった。私が戻ってきたことを知って、すぐに姿を隠してしまったの。大人になった私を見てしまったことが、とてもショックだったみたい。そして、ドアを一枚挟んで、私たちは短い言葉を交わした」

「……椿さんはどんなことを?」

「わっちの認識が甘かった。チズちゃんが少女九龍城に戻ってくることは分かっていたはず。そもそも、少女九龍城にこだわっているのが間違いだった。わっちはもう二度と、ここには戻ってこない――椿さんはそう言ったの」


 未来の私は悔しそうに拳を強く握った。


「でも、椿さんは最後に一つだけ答えてくれたの。十年間、椿さんがどこに身を隠していたのか……。答えはとてもシンプル。彼女は『世界の果て』で眠っていたんだって」

「世界の果て……」


 私はその場所を知っている。

 コールタールのように真っ黒で、何の音も聞こえなくて、生き物の気配だって感じられない場所だった。

 人間が長居できる環境であるとはとても思えない。

 椿さんはそんなところに十年間もいたのだ。


 ……いや、今も彼女はそこにいる。


 未来の私が、私の両肩に手を置いた。


「椿さんを迎えに行って、チズちゃん」

「で、でも……私が椿さんのところに行っても、椿さんはきっと苦しむだけだし、」


 十年後に再会を果たしても、結局は離ればなれになったのが答えだ。今、彼女を迎えに行ったところで、お互いの恋心にとどめを刺してしまう結果になるだろう。それならば、まだ、椿さんに少女九龍城という帰れる場所を残しておいた方がいい。


 私たちは結ばれないのが正解なのだ。

 それが幸せの形なのだ。


「……それでいいの?」


 問いかけられて、私は思わず視線を逸らす。

 これは椿さんが望んだことだ。

 心の傷を最小限に抑えられたことを、幸せだと考えるべきなのだ。

 彼女がそう考えるのなら、私は椿さんの願うとおりにするだけだ。


「それが最善なんです。こうして別れてしまう方が、ズレていく時間を見せつけられるよりもマシです。お互いに傷つかずに済みます……」

「椿さんと一緒にいたいと思わないの? それだけじゃなくて、抱きついたり、キスしたり……本当はしたいんじゃないの?」

「わ、わたしは平気です。未来の自分に恋をして、鏡を覗き込みながら一人遊びするような人間ですから。私は一人で生きていけますから」

「――それは違う」


 未来の自分はハッキリと言い切った。

 彼女の目が私の瞳を覗き込む。


「一人で生きていけないことは、私自身が一番分かってる。十年経った今でも、私は椿さんのことばかりを考えてる。あなたは私のようになってはいけない。だから、迎えに行くの。今すぐに! 何も考えずに! 永遠の命から椿さんを取り戻すの!」


 椿さんを取り戻す。

 彼女は牢屋に入れられた囚人のようなものだ。

 永遠の命に縛られて、本当の幸せから遠ざけられている。

 椿さんはいつも幸せに向かって手を伸ばす。彼女の声に応えてくれた人が、きっと過去には存在したことだろう。

 でも、椿さんを永遠から取り戻すことは出来なかった。鉄格子に阻まれて、何も求め合わないことが最善だと諦めた。


 今の私も同じだ。

 だけど、心の奥では……たとえ鉄格子を挟んだとしても、彼女と手を繋いでいたい。

 いつかは離ればなれになってしまうけれど、私の心臓が動いている間くらいは、彼女の手をずっと握りしめていたいのだ。


 私はワガママで薄情な人間なのかもしれない。

 椿さんが傷つくと分かっていながら、彼女を求めずにはいられない。

 ならば、せめて彼女を傷つけまいと思っていた。

 でも、その決心も簡単に揺らいでいる。


 そして、私はもう一人の自分に向けて言い放った。


「椿さんを傷つけることになったら、あなたのせいですよ……未来の私」

「そう、私のせいだよ。私のせいにしていいから、椿さんを絶対に見つけてあげて」


 いってらっしゃい、と未来の自分が小さく手を振る。

 力強く背中を後押しされて、私は椿さんと会うために走り出した。


 ×


 日付が変わろうかという時刻だったにもかかわらず、管理人さんは細かい事情も聞かずにメトロ九龍を動かしてくれた。未来の自分が教えてくれたとおりに、行き先は『世界の果て』駅である。


「今日は酒を入れてなくて良かったよ。飲酒運転になっちゃうからね」


 口数少ない私のことを気に掛けてか、管理人さんが軽い冗談で雰囲気を和ませてくれる。

 窓の外では、駅がまた一つ後方に流れていった。


「……どんな理由かは知らないけれど、あんな寂しい場所に好きで隠れてるとは思えない。きっと、椿はチズちゃんが来るのを待ってるよ」


 管理人さんの言葉が胸にしみる。

 私は上手に返事をすることが出来なくて、小さな子供のように首を縦に振んだ。


 メトロ九龍が減速して、いよいよ『世界の果て』のホームに滑り込む。始発駅を出発してから、ほんの数分しか経っていないように感じられた。本当はその何倍も時間が経過しているはずだ。


 懐中電灯を手にとって、私は開かれた扉からメトロ九龍の外に踏み出す。

 途端、自分の足が闇に紛れて見えなくなった。


 車両から降り立つと、闇の濃さがさらに増す。

 懐中電灯で照らされているところ以外は、全てが真っ黒に塗りつぶされてしまっていた。

 自分の体すら見ることが出来ない。手のひらをどれだけ近づけてみても、そこに自分の体があるのか分からなかった。


 管理人さんが何か言葉を発している。車両から二、三メートルくらいしか離れていないにもかかわらず、彼女の声を聞き取ることが出来なかった。


 私は足下を照らしながら歩き出す。

 俯いているせいでひどく歩きにくい。地面が固いのか、柔らかいのかもよく分からない。

 足音が響かず、全くの無音だ。そのせいなのか、耳鳴りがひどい。

 水の中を歩いているかのように、ジリジリと体力を奪われていく。


 声を張り上げる。


「椿さん! いるんでしょう、椿さん!」


 すると、自分の声がとても小さく聞こえた。

 歩きながら、私は何度も呼びかける。


「迎えに来たよ、椿さん! 返事して! 私、椿さんに会いたい!」


 徐々に駆け足になる。

 自分の足下を照らしている場合ではなかった。体が闇に溶けてしまいそうで恐ろしいけれど、それでも懐中電灯は椿さんを探すために使いたい。真っ暗闇の中を駆け回りながら、ひたすらに椿さんの姿を探し続ける。


 一瞬、ライトが赤色の何かを捉える。

 転びそうになりながら、私は身を翻して赤色の何かに迫った。


 そこにいたのは、灰色の地面に横たわっている椿さんの姿だった。いつもの赤襦袢を身にまとっているおかげで分かりやすかった。どうやら眠っているらしく、胸がゆっくりとしたリズムで上下している。


 顔をライトで照らしたとき、彼女の頬に涙の流れた跡を見つけた。

 こんなに暗くて、自分の体すら見ることが出来なくて、無音で、声すら響かない場所で、椿さんは一人きりで眠り続けているのだ。


 私はたまらなくなって、椿さんの体をそっと抱き起こす。それから、闇に遮られないような大声で呼びかけた。


「椿さん、起きて!」


 体を揺すると、椿さんがゆっくりとまぶたを開ける。

 目が合った途端、彼女は驚きのあまりに体をビクンと震わせた。

 それから、這いずるように私の手から逃げようとする。

 彼女を手放してしまわないように、私は風邪を引いたときのお返しとばかりに、椿さんの体にしがみついた。


「チ、チズちゃん……どうして、こんなところに?」

「椿さんを迎えに来たんです。椿さんに言いたいこともたくさんありますから」


 懐中電灯では私たち二人を完全に照らすことが出来なくて、必然的に鼻と鼻がくっつきそうなくらいに顔を近づけなければいけなかった。お互いの吐息が頬にぶつかって、なんだかくすぐったい。


「私、椿さんのことが好きなんです」


 突然の告白に面食らって、椿さんが明後日の方向に視線を逸らす。


「い、い、いきなり、何を言って……」

「好きで好きでたまらなくなって、虎谷さんや管理人さんにも励まされて、自分に嘘をつくことも出来なくて、私はここまで来たんです。私は椿さんが好きなんです。それとも、未来の自分に恋をするような女の子は……ダメですか?」

「だ、だ、だめなんてことはない! なにしろ、わっち、自分と寝たことが――」


 もごもご、と言葉を濁す椿さん。


「と、とにかく、その、わっちの好きなチズちゃんが、わっちのことを好きでいてくれるのは嬉しい。本当に、心の底から。でも、わっちはチズちゃんと一緒にはいられない。一緒にいたら、チズちゃんを苦しめることになるし、その……わっちも苦しい」

「それは、椿さんが不老不死の体だからですか?」


 なぜそれを……と、椿さんが目を丸くする。


「虎谷さんから話を聞きました」

「スバルじゃない方の虎谷さんか……。孫の孫まで、そんな話を伝えなくてもいいのに」

「でも……そのおかげで、椿さんの苦しみを少しは知ることが出来ました」


 私は年老いて死んでいく。

 その一方、彼女はいつまでも子供のまま生き続ける。

 椿さんは嘆くように訴える。


「それだったら、わっちがどうして少女九龍城から離れたか……チズちゃんを諦めたのか分かるはず。わっちはチズちゃんと一緒にはいられない。そのうち、ただの友人として顔を合わせることすら難しくなるじゃろう……。でも、それよりも、なによりも、わっちはこの世界に一人だけ残されることが怖い!」


 ただ一人だけ残されるのなら、最初から一人である方がいい。

 だから、彼女はこの場所にたった一人で眠りに来た。


「でも、私は椿さんを一人にさせない」


 気持ちを込めて、私は彼女の体を強く抱き寄せる。


「私はいつか死んでしまう。でも、椿さんの思い出の中で生き続ける。私の体は消えてしまうけど、心はずっと椿さんと一緒にいます。椿さんが忘れずにいてくれたら、きっと私だって永遠でいられる」


 椿さんがハッとしたように口を開いた。

 それから、彼女は目をつぶって深く考え込む。


「……もちろん、わっちだって大切な人のことを忘れたわけじゃない。全ての人が、わっちの思い出の中で生き続けている。嬉しかったことも、悲しかったことも……だけど、それでも、寂しくてたまらなくなる」

「だったら――」


 私は椿さんと額を合わせた。


「どうか、私に時間をください。私が死んでしまったあとも、それから何百年、何千年の時間が経ったとしても、椿さんがずっと笑顔で暮らせるような思い出を作りたい。だから、これからの時間……私と一緒にいてください」


 椿さんが目を細める。必死に涙をこらえているようだった。泣き腫らした目元が赤くなっていた。

 いつの間にか、彼女の手が私の服を握りしめている。その力はとても弱々しくて、百年以上も生きているとは思えなくて、椿さんは私にとって一人の普通の女の子だった。


「……約束してくれるかの?」


 顔を赤らめて、椿さんが私に問いかける。


「わっちのそばを離れないで欲しい」

「もちろんです、椿さん」

「ときには喧嘩をしたり、今日のように逃げ出してしまうことがあるかもしれぬ……」

「その時はちゃんと追いかけます」


 彼女の目を真っ直ぐに見て答える。

 椿さんの瞳に映っている私も、彼女と一緒で頬が真っ赤になっていた。

 体をモジモジとさせて、椿さんがお願いをする。


「あとは、その……数え切れないくらいに、たくさんの思い出を作って欲しい」

「今からでも!」


 私は椿さんの体を抱きしめると、少女そのものである彼女の唇に優しく口づけをした。

 真っ暗で何も見えなくて、音すらも聞こえにくい世界の果てでも、椿さんの体温だけはハッキリと伝わってくるのだった。


 ×


 完全にスイッチの入ってしまった私たちが、そのあと、何をしちゃったのかについては語ることが出来ない。

 ただ、大いに待たせてしまった管理人さんには、二人そろって平謝りするしかなかった。

 メトロ九龍に揺られて、私と椿さんはいつもの少女九龍城に戻った。


 翌朝になって……椿さんが戻ってきてくれたことを、住人仲間たちはとても喜んでくれた。

 彼女の帰還を祝うパーティが開かれて、大勢の住人たちが一堂に集まった。虎谷さんの持ち込んだゲームをしたり、キッチンを使って料理大会が行われたり、パーティの後はみんなでお風呂に入った。


 結局、大騒ぎが解放されたのは、さらにまた日付を越えた夜中のことである。椿さんが枕を持参して、地図が散乱する私の部屋へ泊まりに来てくれた。


 私はベッドの上を大急ぎで片づけて、どうにか枕を二つ並べられるようにした。

 とはいえ、すぐに眠れるような気分ではない。

 私と椿さんは肩をくっつけて、ベッドの上で体育座りをしていた。

 もちろん、昨日の夜のことを思い出していたのだ。今になって恥ずかしくなってきて、この後どうしよう……という気持ちだった。


 そんなとき、椿さんが私に言った。


「チズちゃん……あのリボンを付けてくれるかの?」

「そう言ってくれるのを待ってました」


 私は机の引き出しから、大事に仕舞っておいた青色のリボンを取り出す。そして、いよいよ腰の辺りまで伸びた髪の毛を、椿さんがくれたリボンで左右にくくった。髪の毛を持ち上げたことで、耳の辺りからうなじにかけて軽くなる。


「似合ってますか、椿さん?」


 振り返る。

 すると、椿さんの目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていた。


 あまりに唐突だったので、思わず私はベッドの上で取り乱しそうになる。

 私としても、彼女の許可を取ってからリボンを付けようと考えていて、それはそれで心に響く思い出になる気がしていたのだけれど――それにしても、椿さんの反応には驚かされた。


「え、ちょっと、椿さん、どうしたんですか!?」

「わっちはすごく幸せじゃ……生きてて良かった!」

「まさかの嬉し泣きだなんて、椿さんは大げさなんですから。それに幸せになるのが早すぎです。私たちはこれから、数え切れないくらいに思い出を作るんですよ?」


 よしよし、と椿さんの頭を撫でる。

 こんな風にして、幸せな思い出をたくさん作れたらいいなと、私は改めて思うのだった。



(おしまい)

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