第5話 秘湯を探せ
湯船に体を沈めると、腰から背中にかけてビリビリとした。大浴場のお湯はやたらと温度が不安定で、熱いときと温いときの差が激しい。管理人さんやメカに強い少女が、何度もボイラー室を点検しているのだけど、なかなか環境は改善されない。
とはいえ、足を広げてお風呂に入れるというのは、女子寮で暮らす人間として実に贅沢なことだろう。以前は週一程度でしか、お風呂に入っていなかった私であるが――ここ最近、毎日欠かさず入浴するようになって、その価値に初めて気づいた。
大浴場は立派な銭湯、あるいは旅館の大浴場サイズを思い浮かべてもらうとピッタリだ。露天風呂だとか、ジャグジーだとか、サウナだとか、そういう気の利いたものはない。でも、何人の少女が住んでいるか分からない少女九龍城で、順番待ちをせずにお風呂に入れるのはありがたい話だ。
今日は時間が遅いため、私以外には虎谷さんが一緒に入っているだけだ。
広々とした大浴場で、元気に泳ぎ回っている虎谷さんを眺める。
すると、脱衣所に続く引き戸をガラリと開けて、住人仲間である倉橋椿さんが大浴場に入ってきた。いつもは赤襦袢をズリズリと引きずって、けだるそうにバージニア・スリムを吸っている子である。
赤襦袢を脱いでしまった彼女は、頭の中のイメージよりも二回りほど小さい。私よりも背が低くて、おそらく虎谷さんと同じくらいだろう。虎谷さんがリカちゃん人形なら、椿さんは日本人形と言ったところか(比較できているか怪しいが)。
椿さんはお湯で体を流してから、湯船に肩までゆっくりと浸かった。
「……おや、チズちゃんがお風呂とは珍しいの?」
こちらに気づいたようで、彼女がチラリと流し目をする。
その流し目がやたらと艶めかしくて、私――加納千鶴はとっさに両腕で体を隠した。
椿さんが四つんばいになって近づいてくる。
「ここ最近、チズちゃんは妙に色気づいておる。性的な意味でいきなり可愛くなった。どれどれ、わっちに体の成長具合を確かめさせてごらん」
逃げ回る私。
背後から飛びつくと、椿さんは私の胸元に手を回してきた。
あ、やだ、そんな敏感なところ――
「ほれほれ、どうじゃ? いきなり可愛くなるお主がいけないのじゃ。大丈夫、開発するのはへそから上だけにしてやるからの。ほら、だらしない顔をしおって。洗い場の鏡に、お主のやらしい顔が映っておるぞ。よだれが止まらぬか? どうなんじゃ? このまま、私の可愛い愛玩人形になってしまわぬか?」
「や、やめてくださひ。私には心に決めた人が……」
「――あっ! くすぐりっこ? 私も混ぜて!」
あぁ、あともうちょっと。
というところで、虎谷さんが私と椿さんの間にダイブしてきた。
椿さんは虎谷さんに標的を変えて、彼女の体をコチョコチョとくすぐり始めた。
「あははははっ! くしゅぐったい! くしゅぐったいれす!」
「ほれほれ、くすぐり返してこないと一方的で面白くないぞ。うりうり!」
「にゃはは!」
私は脱力しきって、水面を死体のようにぷかぷかと漂う。
そうしていたら、大浴場の隅っこ――タイルの一枚に文字が刻まれているのが目に入った。
浴槽から上がって、私は謎のタイルを確認しに行く。
見てみると、三十年ほど前の日付と『贈呈・西園寺グループ』という文字がタイルには刻まれていた。
おそらく、住人仲間である西園寺香澄さんの関係者が、この大浴場を少女九龍城に作ってくれたのだろう。もしかしたら、彼女の母親やら叔母やらも少女九龍城の住人だったのかもしれない……。
ただ、どういったわけか、西園寺さん自身は大浴場を使いたがらない。もっぱら、住人の自室が密集する廊下――いわゆるメインストリートにある個室シャワーを利用している。裸を見られるのが恥ずかしいタイプなのだろうか?
そんな疑問はさておき、私はついつい地図を思い浮かべてしまう。ここ最近、私はオシャレや美容に目覚めたのだが、それ以前からの地図製作も絶賛継続中なのである。
シャワー室、小浴場、大浴場、管理人さんの部屋にあるお風呂――それらとボイラー室の位置関係が云々……。
私がしゃがみ込んで考えていると、背後から熱いお湯をぶっかけられた。
「風邪を引くぞ?」
「そうですね」
椿さんに連れられて浴槽に戻る。
すっかりやられてしまったようで、虎谷さんが水面をぷかぷかと漂っていた。
くすぐりっこには飽きてしまったのか、
「知っておるかの?」
椿さんが不意に話を切り出した。
「この少女九龍城には幻の秘湯があったそうじゃ」
「幻の秘湯?」
聞いたことのない話に驚いて、私はオウム返しのように言葉を繰り返す。
「色は無色透明。桃のように甘い香りが漂い、浸かるものを体の芯から癒してくれるそうな。飲んでも体に良いらしく、体内にたまった老廃物を浄化してくれるそうじゃ。甘い香りに反して、味は酸味が利いているらしい。炭酸泉じゃろうか?」
女子寮の中に幻の秘湯……。
とはいえ、この少女九龍城ではあり得ない話ではない。
どれだけの少女が住んでいるのか、どれだけの部屋数があるのか、地上何階で地下何階なのか……それを管理人ですら把握していない。知らず知らずのうちに増設、リフォームが行われていて、いつの間にか部屋の構造が変わっている。
それに加えて、少女九龍城では当然のように超常現象が起こる。つい先日も、太平洋戦争中に拷問された女スパイの幽霊が、ボイラー室の辺りで目撃されたばかりだ。私自身だって、かなり理不尽な現象と遭遇したことがある。
そんな少女九龍城ならば、どこかで温泉が湧いていても不思議ではないだろう。
椿さんが言った。
「で、幻の秘湯に至る道順をわっちは知っておる」
「本当ですか?」
少女九龍城の地図を作るものとして、綺麗になることに興味がある一人の少女として、是非とも幻の秘湯を見つけておきたいところだ。
「ふむ。図書館に引きこもっている子がいるじゃろ? 秘湯を見つけた人間の手記が残っていてな、あいつに見せてもらったのだ。わっちが手記を借りてくるから、おぬし、秘湯を探してはみないか?」
「ぜひ、お願いします!」
幻の秘湯――それを見つけられたら、地図を作り始めてから初めての快挙だろう。私の今までの努力も報われるというものだ。
すると、復活した虎谷さんが大きく右手を挙げた。
「はいはいはーい! 私も探したい!」
「ふむ。ならば、三人で行こうではないか。チズちゃんも、それでいいかの?」
私は大きく頷く。
「もちろんです。みんなで幻の秘湯を見つけましょう」
今まで、地図作りは個人作業でしかなかった。けれども、ついに少女九龍城の仲間たちと協力するときがやってきたのだ。そういった意味でも、私は今回の秘湯探しが楽しみになってきたのだった。
×
翌日、私たちは準備を整えてメインストリートに集まった。
今回の秘湯探しでは、今まで作成した地図の外を歩かなくてはいけない。それに加えて、椿さんが借りてきた手記を読んだ限りだと、どれくらいの距離を歩くのか想像が付かないのだ。少女九龍城の複雑怪奇な構造、そして広さから考えると、場合によっては何日もさまよい歩くことになるだろう。
というわけで、数日分の食料と寝袋をリュックに詰め込んだ次第である。水は道中で補給できる可能性が高いけれど、念には念を入れてミネラルウォーターを購入しておいた。頭痛、腹痛、生理痛に至るまで、薬の類も取りそろえてある。
「お菓子、いっぱい持ってきた!」
ピースサインをする虎谷さん。
これからハイキングに行くような格好だが、とりあえずは動きやすい服装をしている。
その一方、
「……なんじゃ? わっちの格好がおかしいか?」
椿さんは赤紫色のジャージを着ていた。
動きやすい服装なので、その点については全く問題はない。問題はないのだ。
「いや、なんというか、椿さんは赤襦袢をズリズリ引きずっているイメージが強かったので。他の服も持っていたんですね、驚きました」
「そりゃあ、四六時中、あの格好のわけがないじゃろう。赤襦袢を着ていたら、コンビニに行くときに白い目で見られるからの」
当然のように言ってのける椿さん。
私は色々と言いたいことがあったのだが、もごもごとして飲み込んだ。
感心したように虎谷さんが言う。
「へぇー、椿さんもコンビニに行くんだ。というか、ものを食べるんだ。血とか吸ってるんだと思ってた」
「わっちは吸血鬼か」
椿さんはリュックサックを下ろして、中からカロリーメイトやウィダーインゼリーを引っ張り出した。他にもソイジョイだのなんだのと、軽くて高カロリーな非常食がたくさん買い込んであるようである。
「わっちは食費を納めていないからの。こうして、自分で食事を用意する必要があるのじゃ。むしろ、少女九龍城に住んでいる少女たちの中では、トップクラスにコンビニを利用している人間じゃろう。煙草だって買わなくちゃならぬ」
意外である。
とはいえ、真面目に学校に通っている私や虎谷さんと違って、椿さんは夜に起きて朝に寝るタイプの人だ。生活サイクルが全くの逆であるため、私たちの知らないところで彼女は活発に活動しているのだろう。
「確認も済んだことであるし、さっさと秘湯探しに向かおうではないか」
「……それもそうですね」
椿さんのジャージ姿に驚いている場合ではない。
気を取り直して、私たちは秘湯探しに出発する。
虎谷さんが景気づけに、
「えいえいおーっ!」
ぴょんぴょん飛び跳ねながら号令をあげた。
×
私たちの秘湯探索は長く険しいものになった。
まず、一日目にして私たちの覚悟が足りなかったことを知らされた。秘湯に至った先達の手記に『自室前の通りを北に出て、しばらく直進……突き当たりを右に曲がる』とあるのだが、いくら歩いても突き当たらないのである。
その日のキャンプは、道中で偶然見つけた和室になった。畳はささくれ立っていたが、ほこりを払えば快適に眠ることが出来た。今後、板張りの床や石畳の上で眠る可能性を考えれば、柔らかい畳の上に寝袋を敷けるのはありがたいことだろう。
二日目になると、私たちは食料の分配を行うことにした。全員の食料を均等に割り振って、一日のうちにどれだけ食べるかを決めておくのだ。見直しを行ったことで、どうにか節約していけば、一週間くらいなら食料は保つことが判明した。
三日目を過ぎた辺りから、お風呂に入りたくて仕方がなくなった。生きている水道を見つけたら、濡らしたタオルで体をゴシゴシと拭く。けれど、服が着た切り雀状態なので、あまりサッパリとした気分にならない。
また、私たちはとてつもなく無口になった。最初の頃はドアや階段が見つかるたびに、どんな部屋なのか確認したり、どこに繋がっているのかを予測したりしていた。けれど、それも時間が経過するごとに面倒になった。言葉を発する体力がもったいない。
アクシデントが起こったのは四日目である。
食料は残り半分。もはや、今まで通ってきた道を戻るしかない……そう決断して、みんなで引き返そうとしたときのことである。ついさっき、通ったはずの廊下がいつの間にか消滅していたのだ。
消滅していたというか、継ぎ目のない壁になっていた。
少女九龍城お得意の超常現象である。私たちは半狂乱になって、壁に跳び蹴りを入れたり、サバイバルナイフを突き立てたりした。挙げ句の果てには火を付けようとまでした。ギリギリのところで踏みとどまり、私たちは前進するしかないことを悟った。
五日目になると幻覚や幻聴が起こり始めた。虎谷さんが「管理人さんの声がする……」と言い出して、明後日の方向に歩き出してしまうのだ。椿さんは煙草を吸い尽くしてしまい、イライラが募っているのか、夜になるとしきりに私の体を求めてきた。苛立つとムラムラしてくるだなんて、どれだけ厄介な人格なんだろう。
六日目の記憶は曖昧だ。椿さんの誘いを断固拒否したことくらいしか覚えていない。
七日目に食料がなくなって、水を補給できる場所も見あたらなくなった。足下は冷たい石畳で、朝晩を問わず夜中のように真っ暗である。唯一の心の支えは、先人の手記通りに進めていることだろう。ゴールには確実に近づいているのだ。
そして……八日目。
私たちはついに最後の扉に辿り着いた。
この扉を開け放てば、その先には幻の秘湯が待っている。湿気を肌で感じた。かすかにお湯の匂いが漂ってきた。私たちは目的を果たしたのだと知って、お互いの肩を抱き合って大声で泣いた。
「わっち、頑張った! たぶん、生まれてきてから一番頑張った!」
「チズちゃん、私もう、温泉に入ってもいいんだよね? ゆっくり温泉に入ってもいいんだよね?」
「ええ、そうです。ここが私たちのゴールです。今までの疲れを癒しましょう。きっと、幻の秘湯が喉の渇きも、空腹も、幻覚も、全て治してくれるはずです……」
私は力一杯に扉を押し開ける。
長きにわたって封じられていたのだろう……扉はギシギシと音を立てて、私たちのことを拒もうとする。だが、最後の力を振り絞ったことで、隙間にたまったホコリを落としながら、扉は少しずつ動き出した。
そうして、私たちの目に飛び込んできたのは――
「……五〇〇グラムも増えてやがる」
大浴場の脱衣所にて、渋い顔で体重を測定している管理人さんの姿だった。
私たちの存在に気づいて、彼女がこちらに振り返る。
「お前ら……そんなところから出てきて、どうしたの?」
答えを返すことが出来ずに、私たちはその場で一斉に気を失った。
×
私たちが立ち上がれるようになったのは、大浴場にたどり着いてから三日後のことである。胃の働きが弱っていたせいで、最初はおかゆしか食べられなかった。けれど、あれほど美味しいおかゆは後にも先にも今回限りだろう。
ベッドで横になって、私は何度も先人の手記を読み返した。けれど、手記に書かれていたチェックポイントは全て通過している。最後の扉に関していえば、手記にはイラストまで載っているのだ。扉はイラストと一致していた。
にもかかわらず、扉の先にあったのは大浴場の脱衣所だった。
扉は脱衣所の姿見に偽装してあった。よくよく確認してみると、壁にはクッキリと継ぎ目が浮かび上がっていた。けれども、その上に大きな姿見が取り付けられていて、継ぎ目が見えなくなっていたのである。
私、椿さん、虎谷さんの三人は、反省会もかねて大浴場に集まった。
先日のショックから未だに立ち直れず、私たちは半ば放心状態である。
「ここが幻の秘湯なのかなぁ……」
両手でお湯をすくって、虎谷さんがぼんやりとした声で呟く。
「……そんなわけないじゃろ」
椿さんがしらけた感じに答えた。
「いい匂いがするわけでも、飲んで健康になるわけもない……単なる水道水じゃ。ある種の変態にはご褒美かもしれぬが……」
「だよねー。なんか、徒労って感じだったよー」
幻の秘湯なんてものは最初から存在しなかったのだろうか。
先人の残した手記はデタラメだったのだろうか。
私たちがぐったりしていると、脱衣所に通じている引き戸を開けて、住人仲間――西園寺澄香さんが入ってきた。いつもはシャワーで済ましている彼女が、こうして大浴場を利用することはかなり珍しいことである。
「あれ、シャワーじゃないんですか?」
私が問いかけると、彼女はその場で小さく頷いた。
「実のところ、修理中でして」
「修理中なんですか、シャワー室が」
「えぇ、修理中のなんです、シャワー室が」
すると、虎谷さんが挙手をして質問する。
「ねぇねぇ、西園寺さん。ここって幻の秘湯だったりしないの?」
大浴場は西園寺グループが三十年ほど前に造ったものであるらしい。
だいぶ昔の話ではあるが、彼女が何か知っている可能性はある。
西園寺さんはゆったりとした動作で、湯船におへその辺りまで体を沈めた。
「実のところ、この大浴場は私の叔母が造らせたものでして……」
「ふむふむ」
「造られた当時は叔母専用のものだったそうです。ですが、叔母が少女九龍城から卒業する際に、住人たちが使えるように改装したのだとか」
ということは、姿見に隠された通路――あれが本来の出入り口だったのかもしれない。
「金持ちの考えることはスケールが大きいのう。わっち、感心」
口が半開きになっている椿さん。
西園寺さんは解説を続ける。
「今も変わらず美しいのですが、当時の叔母は絶世の美少女として知られていたようです。食べ物にも気を遣っていて、たとえ香水を付けなくても、果物のように甘くさわやかな匂いが体からしたそうな……」
「それじゃあ、つまり――」
嫌な予感がしてきた。
私が想像したとおりのことを西園寺さんは言い放つ。
「叔母を崇敬する少女たちが、彼女の入った湯船の残り湯を飲んでいたそうです。冗談の好きな方ですから、叔母が私をからかっただけかもしれませんけどね」
西園寺さんはそう言ったが、残念ながらバッチリと手記が残っている。
甘い匂いのするお湯で、ちょっとした酸味があり、飲むと健康にも良いらしい。その気のある人なら、飲むだけでテンションMAX間違いないだろう。病は気からと言うとおり、軽い鬱程度ならば簡単に吹き飛ばすに違いない。
この大浴場こそ――かつて幻の秘湯と呼ばれた場所だったのだ。
私は湯船に目を落とす。
誰のものとも分からない髪の毛が、水面にぷかぷかと浮いていた。
椿さんがツンツンと私の肩をつつく。
「……今からでも売れないかのう、このお湯?」
「売れませんよ!」
(おしまい)
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