第30話 聞きたくて聞きたくなかった声
部屋を出たアナスタージアは、ほっと肩の力を抜いた。
あのシヴァンの男は油断がならなくて、多くの廷臣たちを前にする時よりも緊張してしまう。彼は技術者をこちらへ寄越すと約束したが、それが本当に守られるのかは疑問だと思うのだ。
しかし、今は鋳造に向けての準備を進めるほかないだろう、とアナスタージアは思う。前もって打ち合わせしていたことでは無いが、子細を話せば皆納得してくれるはずだ。
草原に捨て置かれたエルシオンの大砲は、既に砦近くのウォール村に運び込まれているという。一旦引いた敵側も後日、回収に戻ったようだが、一歩先んじて我が方が手に入れることに成功していたのだ。
技術者を引き入れリンザールの職人にも仕組みを理解させた後に、小型のものへ鋳造し直せば良い。あの大きさのままでは野戦には向かないのだから。
もしもエルシオンの王都まで侵攻を進められたなら、あの重砲は城攻めに重宝するだろうが、移動は困難なのだから。
今日新たに手にいれた情報によると、幸いな事にエルシオンの王都では大貴族同士のいざこざが起きているというし、時間に焦ることなく大砲を生産できるだろう。
旧聖堂の裏口近くまで来たとき、ふとアナスタージアは耳に手をやった。バートにもらった瑠璃のイヤリングを弄るのが、いつの間にか癖になっていた。
しかし、指に触れるはずの石がどこにも無かった。
ドキリと心臓が鳴った。足元に視線を落とし、きょろきょろと周囲を見るが見当たらない。
――いやだ、どうしよう。どこで落としてしまったのかしら。
大切なイヤリングだというのに、失いでもしたらバートに会わせる顔がない。
おろおろと何度も後ろを振り返るアナスタージアに、マルセルが不審げに問いかけてきた。
「どうなさいました」
「ああ、どうしましょう、私のイヤリングが……先程の部屋に落としてきてしまったのでしょうか……」
「あれは露店で買ったものなのでしょう。もっと良い品をお持ちなのですから、いいではありませんか。さあもう帰りませんと」
マルセルはなんだそんな事かと、取り合おうとしなかった。
彼にとっては、あの収穫祭の日アナスタージアを死ぬ思いで探し回った忌まわしい思い出の品であるので、むしろ自分の視界から消えることを歓迎しているようだった。
「いいえ! ダメです。あれは大切なものなのです」
つい先ほどまでは、一国背負う者として堂々たる態度を示していたアナスタージアだったが、今は宝物を失くして情けなく眉を歪めている。駄々をこねる子どもの様でもある。
その落差と潤んだ瞳に、マルセルはドキリとして言葉を失ってしまうのだが、大きく息を吐き出すと静かに諫めるのだった。
「……初めてお一人で買い物をした記念の品、広い世界に足を踏み出した証、そう仰ってましたが、今は国の大事に人目を憚っての行動中なのです。どうぞ、馬車にお乗りください」
「いいえ、イヤリングを見つけてからでなければ、私は帰りません!」
「アナスタージア様。我がままを仰らないでください。今頃司教は他の客人と会っているのですから、そんな中に入っていけるわけがありません」
彼の言う事は分かるのだが、アナスタージアは諦めがつかなかった。
「お願い。せめてあの部屋の前まででいいから、探しにいかせて」
アナスタージアは小首をかしげて懇願するのだった。
バートがくれたイヤリング。彼と自分を繋ぐものは僅かしかないのに、その一つを失ってしまうなんてとんでも無い事だった。胸がつぶれてしまいそうになる。
すると眉をしかめていたマルセルが、少し表情を緩ませた。仕方ないなというように、大きなため息をついていた。
「…………わかりました。私が探してきますので、アナスタージア様は先に馬車に……」
「私も行きます!」
「ああ、アナスタージア様……」
言った時にはもうアナスタージアは走り出していた。
呆れたように首を振るマルセルだったが、足早に旧聖堂内に戻っていく彼女を連れ戻すよりも、さっさと探した方が早いかとまたため息をつくのだった。
アナスタージアは足元に視線を配らせながら、先ほど会談した部屋の前まで戻っていた。そして扉のすぐ近くに、鮮やかな青の輝きを見つけた。
――あった! 良かった……
ほっと唇を綻ばせる。しゃがんでイヤリングに手を伸ばした。
その時、部屋の中からぶつぶつと男の声が聞こえてきた。
「…………」
「…………」
「……三番目のお方様と小耳に挟んだのですが……」
「黙れ! 小賢しく嗅ぎまわる真似はするな!」
ビクリと身体をすくめた。
バクバクと心臓が鳴り始めていた。だが、大声そのものに驚いたのではなかった。
――今の声は……
瑠璃を握り締め、まさかと小さく首を振る。そんなはずがないと思うのに、今の怒鳴り声には聞き覚えがあるように思えるのだ。
もう一人は間違いなくベイツだ。ついさっきまで話していたのだ、聞き違いはない。司教の客だと言っていたのに、どうしてまだベイツが中にいるのだろう。
いや、それよりもとアナスタージアは、暴れまわる胸を押さえた。
――ああ、この声は……
一番最後に聞いた彼の声は、甘くとろけるような囁きだったけれど、スリの少年を捕えた時の怒声は、今のように鋭かった。
――他人のそら似よ……
彼がここにいるはずはないのだから、シヴァンに用があるはずないのだからと、そう思うのにどうしても声の主はバートのように思えてしまう。
背筋が震えてしまった。
――いいえ、何もシヴァンは武器だけを扱っているわけではないわ。むしろ武器商人は裏の顔。きっと、ただの買い物よ。西方の珍しい品や美術品を求めているのよ。それだけよ。
アナスタージアは振るえる胸に、グッとイヤリングを押し付けた。
もしもこの中にバートがいるのなら、自分がここにいることを知られるわけにはいかない。早く帰らなければと立ち上がった。
一体彼の用件は何なのかと気になるし、彼を一目見たいとそんな思いもチラと湧いたが、リンザールの王女としてここに訪れているのに、会えるはずもない。
ベイツの声がまた聞こえてきた。
「嗅ぎまわるなんて滅相もない……奥方様のご懐妊をお祝い申し上げたかっただけで……」
――…………え………?
ベイツは何を言ったのかと、アナスタージアは呆然と立ち尽くしてしまった。
一体彼らは何の話をしているのか、まるで分からなかった。
「貴様からの祝いなど要らぬ。この件にこれ以上関わるな!」
ぐらりと眩暈がした。やはりバートの声だ。
よろけかかったところで、マルセルに肩を支えられた。
「大丈夫ですか? あ、イヤリングは見つかったのですね、ようございました。さあ、まいりましょう」
少し後ろにいたマルセルには、中の会話は聞こえなかったようだ。小さな声で囁き、アナスタージアをエスコートして歩き出した。
しかし、アナスタージアの足はもつれてしまう。頭の中が真っ白で、目の前がぐるぐると回って、まともに歩けずにいた。
マルセルは不審に顔を歪めて、倒れそうになる彼女を抱きかかえた。
「どうなさったのです。お顔色が悪い」
「…………なんでもないわ。立ちくらみしてしまっただけ……」
「疲れが出たのでしょうか……。更にお加減が悪くなるようでしたら、このマルセルにすぐに仰って下さい。この身は貴女様の為にあるのですから」
心配げに語りかけてくる忠臣に、アナスタージアは形ばかりの笑みを見せる。
「ありがとう。大丈夫よ」
しかしその胸の中は、まるで吹き荒れる嵐のように乱れていた。
バートに妻がいるというのか。妊娠した妻がいるというのか。
三番目のお方というのは、妻が三人いるということなのだろうか。
第一、なぜシヴァンと会っているのか。一体どういうことなのか。
まるで悪夢のような話だ。
――いいえ! あれはバートではないわ。そうよ、バートであるはずがないのよ。だって、彼がここに来るはずがないもの! 彼は私に求婚してくれたわ。このルビーのネックレスとともに愛を誓ってくれたのよ……。バートのはずがないわ……
両手で顔を覆うアナスタージアは、もう一人で立っていられなかった。足の力が抜けて、身体が傾いでいった。
驚いたマルセルは、お許し下さいと前置きをして、彼女を横抱きにすると急いで馬車へと向うのだった。
旧聖堂の裏手に、ひっそりと隠れるように止まっていた馬車の中ではヨアンナが主たちを待っていた。
そこへ、ぐったりとしたアナスタージアを抱いたマルセルが駆けるようにして戻ってくると、ヨアンナをはじめハリーたち警備の者も一様に驚きの視線を向けた。
「一体どうなされたのです! アナスタージア様!」
「急にお加減が悪くなってしまわれたのだ。急いで帰るぞ!」
「はい」
ハリーが慌てて御者台に登った。もう一人の護衛も即座に馬に跨る。
マルセルは固い表情のまま、真っ青になっているアナスタージアを馬車に乗せた。なるべく横になれるようにと、自分のマントを丸めてクッションの代りにし、主をいたわし気に見つめるのだった。
ヨアンナも馬車に乗り込み、しきりにアナスタージアに気を確かにと呼びかけていた。
「ごめんなさい……マルセル、ヨアンナ……」
「お気になさいますな。疲れが出たのでしょう。急ぎリンザールに戻り、セーゲルの町で休みましょう」
王都までの長時間を馬車で揺られるのは辛かろうと、マルセルはエレバスにほど近い町に寄ることを提案した。そして、自分の馬のもとに行くために、急いで馬車を降りようとする。
だが、彼の袖を引っ張ってアナスタージアが引き留めた。それはとても弱々しい力だったが、マルセルに逆らう術は無かった
「どうなさいました……」
「マルセル……。今、司教の所に来ている方が誰なのか、秘密裏に調べて……」
マルセルの顔にさっと緊張が走った。
「それは、我らのことを司教が漏らしているということでしょうか」
「いえ……そうではないのです。でも、もしものことを思って……」
じっとアナスタージアを見つめ、それからマルセルはしっかりと頷いた。
「…………分かりました。ご命令とあらば、今すぐにでも! ハリー、ヨハン! アナスタージア様をセーゲルへお連れしろ。ヨアンナ頼んだぞ」
「はい」
馬車が走り出した。
一人残るマルセルを、アナスタージアは窓から見つめる。思わず調べてくれと頼んでしまったが、もしもあの部屋にいたのが本当にバートであったら、どうすればいいのか全く分からない。
この後ヨアンナに手紙を届けてもらうつもりにしていたが、彼に手紙を渡してよいのかどうかも分からなくなってしまった。
気づかわし気に見つめてくるヨアンナに、アナスタージアはそっと囁いた。
「今日のお遣いは、もういいわ……」
「……はい。アナスタージア様は、早くセーゲルでお休みなられた方が良いですから。でも本当によろしいのですか? 私でしたら、後から追いかけるのは平気ですからお気遣いは無用なのですよ」
「いいえ、今日はもういいの……」
頬を涙がこぼれていった。
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