第29話 蛇は嗤う

 夕刻、ヨアンナが持ち帰った手紙を、アナスタージアは目を潤ませて受け取った。大切に胸に抱きかかえたのち、そっと口づけを落とす。

 そしてアナスタージアは逸る胸を抑えつつ、封を切り長い手紙を読みふけるのだった。


 手紙を託した時のヨアンナは、このやり取りは止めにした方がよいのではありませんかと言っていたのだが、今は疲れた顔をしながらも次は三日後に届けますねと言ってくれた。

 本当はすぐにでも返事を書いて、明日届けて欲しいと思っていたのだが、さすがにそうはいかない。手紙を届けるのは、どんなに急いでもまる一日かけての仕事なのだ。そう頻繁に出かけてはいられない。

 三日後に再びエレバスのスペンサー司教のもとへゆくことが決まったところなのだから、その時手紙をマダムに託すのが合理的というものでもあるし。

 ヨアンナがエレバスに忍んでゆくのも、度重なれば関所の者に怪しまれるかもしれない。商人の娘を演じてはいるが、バレはしないかと彼女も緊張を強いられているのだ。

 アナスタージアは、ヨアンナに心からの感謝を伝えた。


「あなたのおかげよ、ヨアンナ。こうしてバートと繋がっていられるなんて、本当に夢のよう。ありがとう」


 いいえと頭を振りながら、ヨアンナは紅茶を淹れてくれた。そして、手紙にはなんと書かれているのですかと問うてきた。

 アナスタージアはウフフを笑って頬を染める。


「色んなことよ。子どもの頃の話や、今日はこんなことをしたとか。…………それから過日の戦の折には、あの轟音がエレバスにまで届いていたそうよ。でも、エレバスにも彼にも被害は無かったし、何も心配しなくていいって。反対に私の身を案じてくれて……。それから、年が明けたら私の父に挨拶したいと……でも、これは断らなくてはいけないわね」


 アナスタージアは、はあとため息をついた。

 ヨアンナが差し出したティーカップが、カタカタと音を立てた。取り落としそうになったのを、懸命にこらえたようだ。ヨアンナの眉が吊り上がっている。


「もちろんですわ! 一体誰に挨拶するというのでしょう」

「父は亡くなってしまったのですものね」

「ああアナスタージア様、そういうことではありません」

「分かってるわ」


 アナスタージアは、くすりと笑った。

 ヨアンナの言いたいことはちゃんと理解している。身分を偽っている上に、リンザールの王女としては、家族に会わせるという約束などできはしない。

 でも、もしも新年までにエルシオンとの闘いに決着がついたなら、その時はきっと、とアナスタージアは瑠璃のイヤリングにそっと触れた。

 バートと出会った日の、大切な思い出のイヤリングだ。

 マダム・ステイシーの宿で求婚された時のルビーのネックレスももちろん宝物であるのだが、やはり赤は敵国を連想させるので王宮で身に付けるのは憚られた。だから普段はこの瑠璃のイヤリング、そしてお揃いの瑠璃のネックレスを身に付けている。

 特別な日にだけ、ルビーを身に付けるのだった。

 大砲の轟音が空を震わせた日にも、絶対に負けるわけにはいかないのだと、ルビーに誓って戦に赴いた。

 そして今日から三日後、エレバスを訪問をする時にも、身に付けてゆくことになるだろう。砦を落とされ苦汁を飲んだ戦いから、再度起死回生の一手を打つために、今度はアナスタージア自らシヴァンとの交渉の席に着くことになったのだ。


――バート。もうすぐよ。きっともうすぐ終わるから……私を待っていてね。


 イヤリングを包むように手を当てて、アナスタージアは祈るのだった。







 静かな旧聖堂の一室。

 濃紺のベールで顔を隠したアナスタージアは、マルセル・リヒター、ハリー、ヨアンナその他警備の者たちと共に、エレバスにやって来た。そして今、スペンサー司教の前にいる。

 ベールと同じ濃紺のマントを脱ぐと、鮮やかな瑠璃のドレスが現れた。戦姫を名乗った時のドレスだった。アナスタージアにとっては戦に挑む、甲冑のごときものである。ベールの下で揺れるのは瑠璃のイヤリングで、胸元を飾るのは大粒のルビーのネックレスだった。白い肌に赤と青が美しく映えていた。

 威風堂々と胸を張り、アナスタージアは司教らの前に立った。決して女だからと見くびられてはならなかった。幼王の代りに、リンザールを背負う者なのだからという自負が、アナスタージアを支えていた。


 なんとお美しい姫君かとこびへつらう司教に、アナスタージアはニコリともしない。出された茶にも手を付けず、沈黙のまま背筋を伸ばしていた。

 この会談でリンザールの主たる発言者はマルセルである。シヴァンのベイツには更なる銃を用意するように申し付け、スペンサー司教からはエルシオン軍の動きを聞き出すのだ。

 アナスタージアは、要所要所にて短い言葉を与えるだけだ。ベラベラとしゃべる必要はない。リンザールの高貴なる戦姫として、その場の空気を支配するのだ。決して軽んじるなと。

 そこに座っているだけで、凛とした侵しがたい存在感をアナスタージアは放っていた。


 スペンサーは畏れ入り、前回マルセルと相対した時よりも更に低姿勢を見せていた。だがもう一人の男、シヴァンのベイツは卑屈な態度になるわけでもなく、居丈高になるわけでもなく、ごく自然体でアナスタージアの前で座っていた。その目は一見穏やかに見えるのだが、真っ直ぐに見つめてくる視線に温かさは微塵もなくて、アナスタージアは油断ならないものを感じていた。


 スペンサーは前回の約束通り、エルシオンの情報を語り出した。少々饒舌に、エルシオン軍の本隊は王都に戻り編成の立て直しをしていることを語った。国境に近いバチス城には通常の国境警備軍が駐屯しているようで、前回のような大群が即座に襲ってくることはあるまいと。

 また、エルシオンの王都では大物貴族同士が反目し始めたらしい。詳しいことは分からぬが、なんでも後宮での人事が事の発端になっているという話だった。

 この貴族らの対立は、今後軍を動かす上で足並みが乱れることになるでしょう、とスペンサーはニヤリと笑った。

 マルセルは好都合だと深く頷き、そして大砲の話へと移った。だが、こちらはあまり良い話は聞けなかった。


「どうしても時間がかかるというのか」

「はい」


 マルセルの問いに、ベイツは静かに応える。

 次を最後にするならば、西方の大戦を制し、また砦の一日合戦をおいて脅威を振りまいた大砲が、必要不可欠なのだ。どれだけ多くの大砲を手にできるかで、勝敗が決するとさえいえるだろう。更にいうなら、機動性の優れた大砲でなければならない。だが、かなりの時間がかかると言われてしまったのだ。


 先日の合戦以来、西方からの交易ルートはエルシオンで止められていた。小賢しくも、リンザールへの武器をはじめとする荷の運び込みをエルシオンが阻んでいるのだ。

 となると、エルシオンを大きく迂回しなければならない。通常のキャラバン隊も現在は迂回ルートでリンザールに向かっており、今までの二倍近い日数がかかっているのだ。重量のある大砲の移動に時間がかかるのも道理ではある。

 しかし、ここでアナスタージアが軽く頭を振った。

 ベイツはルートの険しさや荷の重さばかりを強調し、まるで大砲を納めることを渋っているように思えてならなかったのだ。西方の大国にあるという大砲は、既にエルシオンに売りさばく算段を付けているのではないだろうかと。


「では、人を運べば良いのではなくて?」


 アナスタージアは、じっとベイツを見据えた。エルシオンには首を縦に振り、リンザールには横に振るなど、許せはしない。そして、必ず大砲は手に入れなければならないのだ。

 しかし、数少ない貴重な武器をエルシオンと争奪することにこだわる必要も、迂回ルートにこだわる必要もないのだ。

 あなたなら分かるでしょうと、シヴァンの商人を見つめるのだった。

 スペンサーは何を言っているのかと大きく首を傾げ、マルセルもチラと主を振り返った。が、すぐにアナスタージアの考えを察したようで小さく頷くのだった。

 ベイツが笑った。ヘビが嗤ったようだった。


「さすがは戦姫であられる」

「……どういう事ですかな?」


 訊ねたのはスペンサーだった。


「大砲を作れる技術者を連れてきて、リンザールで鋳造すればよい。そうお考えになられたのですよ」

「おお、なるほど」


 司教は感嘆の声を上げた。彼には全く考えが及ばなかったらしい。

 この発案は多くの労力を必要とするだろうし、費用も莫大な額になるだろう。民にまた重い負担を強いるかもしれない。

 しかしそれを押してでも手に入れなければならないのだ。エルシオンはきっとどんな手を使っても、大砲を手中に収めることだろうから。

 ベイツは目を細めて、唇を三日月型に吊り上げる。


「実は、私もご提案申し上げようと思っていたところなのです。ですが、技術者は某国の宝でもあるますゆえ、引っ張ってこれるかどうか……。この交渉にも少々お時間を頂きたく。ですが、大砲を運ぶよりも数段手軽でありますし、エルシオンの検閲で止められることも無いでしょうから、一番利口な方法でありましょう」

「初めから利口な話がしたかったわ」

「申し訳ありませんでした」


 ベイツは深く頭を下げた。しかし再び上げた面には笑みが張り付いている。


「なるべく急いで手配いたしますので、何とぞご容赦を。そして、エルシオンには人材を決して奪われないようにいたしますこと、お誓いいたします」


 両手を胸の前で合わせて、ベイツはまた頭を下げる。

 苦々しい顔をしていたマルセルが、小さくふんと鼻で笑った。


「奪われないようにするのは人材だけ、ということか」

「リヒター中将様、我々は商人でございます。客にはできるだけ平等でありたいのです。しかし、これでもリンザール王国に対しては、エルシオンよりも格段の便宜を図っているのです」

「便宜、な……」


 うさん臭そうに、マルセルはベイツを横目で睨んでいた。

 蛇のように笑う男は、その視線を全く気に留めることなく、アナスタージアを見つめた。


「ですから、一つ申し上げてもよろしいでしょうか」

「なんだ」

「王女陛下の胸元を飾るルビーのネックレス……。よくお似合いです。しかし身に付けるのはお止めになった方がよろしいのではないでしょうか。まるでエルシオンに首を捧げたよう……」


 一瞬、アナスタージアの方がピクリと震え、マルセルがダンと脚を踏み鳴らして立ち上がった。その目はぎらついている。

 ベイツは、司教も自分もこんなにもリンザールに肩入れしてやっているのに、その王女が無邪気に敵国の色を身にまとうのかと嘲笑しているのだ。


「貴様! 愚弄するのか!」

 

 すでに腰の剣に手をかけていた。

 しかし、抜刀を止めたのはアナスタージアだった。


「放っておきなさい、マルセル」

「しかし……」


 納得できないとマルセルは、ベイツをギリギリと睨む。

 丁度その時、コンコンとノックの音が響いた。扉の向こうから、下男が次の客の来訪を告げた。

 マルセルの激高に硬直していたスペンサーは、下男の声にあからさまにホッとしていたが、いやいやと首を振り早すぎるぞとこぼすのだった。下男には、なるべくゆっくりと案内するようにと命じていた。

 そして、揉み手しながらアナスタージアたちに告げるのだった。


「申し訳ございません。少々早めに次の客が到着してしまったようでございます。みな様方のお姿を見られるわけにはまいりませんから、大変失礼とは存じますがお部屋をご移動頂けますでしょうか。続きはあちらで」


 そういって、ノックされたのとは別の扉を指した。

 マルセルはチッと舌打ちする。


「我らが来る時くらい、他の客を受け付けぬようにできぬのか! 一体どこの誰だ」

「誠に申し訳ありません。私の個人的な客でして、熱心な信者でもあり断りがたく……しかし有象無象の小者でございますので、ご心配なく」


 スペンサーは、ささこちらへと扉を開く。別の下男が案内いたしますと頭を下げていた。

 アナスタージアはマルセルに目配せし、帰りましょうと囁いた。もう話すことはないだろう。


「もうよい。辞すことにしよう。ベイツ! 生意気な口を叩いた分、きっちり仕事してもらうぞ」

「心してお勤めさせて頂きます」


 そうしてアナスタージアたちは、急いで部屋を出たのだった。

 客が誰であろうとも、自分たちがここを訪れていることを知られることだけは避けなければなかった。







 リンザールの一行が退出し扉が閉められた後、スペンサーは呆れかえった声でベイツに問いかけていた。


「なぜ、あんなことを言ったのだ。ルビーであろうと、ただのネックレスだ。煽るようなことを言わずとも」

「いえ、煽るつもりはなかったのですが……つい」


 ベイツはあごをつまんで考え込む。

 宝飾品はベイツが扱う分野ではないが、あのネックレスには見覚えがあるのだ。あれは仲間がエルシオン一の宝石商に卸した品のはずだ。これほどの大きさの深紅のルビーは珍しく、高く売れると話していたのを覚えている。

 どこをどう巡って、リンザールの王女のもとにたどり着いたのだろうか、とベイツは会談の途中からずっと考えていたのだ。

 

――もしかするとエルシオンも間者を放っているのか……。だとすると、思いのほかリンザールの懐深くに食らいついているのかもしれんなあ。まあ、見物するとしよう。一応忠告は与えてやったのだしな。


 ニタリと、唇だけの笑みを浮かべるベイツだった。


「司教こそ、随分と酷い言い逃れだったではないですか。有象無象の小者だなんて」


 今度はクスクスと声を上げて笑った。

 言われた客人がもしも耳にしていたなら、司教の首は胴から離れていただろうなと笑うのだった。

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