第26話 吉報

 ガシャンと甲高い音を立てて、陶器のカップが床に砕け散った。

 エルシオンの王宮、バルトロメオの執務室に侍女の細い悲鳴が上がる。彼女が差しだしたカップを、王の腕が薙ぎ払ったためだ。

 慌ててダリオは、バルトロメオと侍女の間に割って入る。


「へ、陛下、お鎮まりを……」

「俺は酒をもてと言った!」


 とりなしを王の怒声が一蹴する。

 ダリオは急いで侍女を外にやり、懸命に王を宥めるのだった。


「飲み過ぎでございますゆえ、私が湯をもつようにと命じたのです。どうぞ気を鎮めて下さいますよう」

「黙れ! 酔えるものか!」


 バルトロメオは吐き捨てるように言ってから、深く椅子に沈み込んだ。

 軽い昼餐でワインを一本開けはしたが、それは珍しいことでもなく、全く酔いなど回らなかった。忌々しい胸やけは、酒のせいではないのだ。


 負けるはずなどなかった。

 リンザールの王太子を降した戦いの時に、敵部隊を瓦解寸前まで追い込んでいた。だから今回も彼らの戦力は想定範囲内だった。いくら士気を高めようと、彼らにはもう大部隊を率いることはできないのだ。

 そこへ大砲を投入した。負けるはずがなかったのだ。

 予定通り砦を破壊し敵兵も多く討ち取った。リンザールの戦線を後退させることに成功した。次は砦の後方にある村を落とし、そこ拠点としてリンザールの王都を目指せばいい。予定通りだ。


 だが、本当にこれは勝ちなのか。

 敵に数倍する数の兵団であったのに、あの大量の銃の前に多くの勇敢な兵が倒されてしまった。大砲も放棄せざる得なかった。

 これで、勝ちだと言えるのか。

 夕闇の中に見た細い女の姿を思い出し、グッと顔を歪める。


――おのれ……何が戦姫だ! 汚らわしい魔女め!


 ギリギリと奥歯を噛みしめるのだった。

 王宮に戻ってから、戦の後の事務処理もまた激務で、三日がかりでようやく終えたのだが、バルトロメオの苛立ちは増すばかりだった。

 酒を煽らずにはいられなかったのだが、側近にこうも窘められては抑えるしかあるまい。臣下の不安や不信を招く訳にはいかないのだから。

 しばし気まずい沈黙の後、バルトロメオは馬の用意を命じた。気分転換が必要だと思った。


「ダリオ、供をしろ。遠乗りにゆく」

「はい……」


 準備の為にダリオが退出しようとしたとき、侍従長がやって来た。彼は少々言いにくそうに、王妃の来訪を告げた。

 一瞬、バルトロメオは己の耳を疑った。ダリオに視線を飛ばせば、彼もいぶかし気に眉を顰めている。

 王妃シルヴァーナが、自ら後宮を出て王を訪ねてくることなど、これまで終ぞなかったことである。しかも何の先ぶれもなく。一体何が起きたというのかと、大いに驚いていた。


「……ダリオ、王妃は何にしに来たのだ? 聞いていたのか?」


 バルトロメオは、不審の塊のような声で尋ねる。己の妻の事を臣下に尋ねるのもおかしな話であるのだが。

 虚を突かれたダリオは、あたふたと答える。


「い、いいえ、何も」

「一体何だというのだ」


 思い切り首を振るダリオを睨みながら、弟も知らされていない王妃の用件は何だろうかと、バルトロメオは懸命に考えるのだった。

 後宮は全て彼女に任せてある。彼は一切口を挟むことはない。だからそれ以外の用事があるという事なのだろう。


――まさか、今度の戦のことではあるまい……戦に口出しするような人では無かったはずだ。一体、俺に何の用があるというんだ。


 シルヴァーナの名を聞いた途端、緊張する自分が嫌になる。普通の夫婦なら妻が訪ねてきたくらいで、ここまで焦ったりはしないだろう。決して憎み合っている訳ではないのだが、自分たちの関係の歪さは、もうどうにもならない所まできているのだなと苦笑した。

 そそくさと退出しようとするダリオを、思わず引き留めていた。


 程なくして、王妃シルヴァーナが入室してきた。

 輝くような淡い色の金髪にブルーの瞳、冷たい空気を纏うような凛とした美貌の王妃に、ついゴクリと唾を飲む。

 彼女の冴え凍る美しさに目を奪われない者はいない。バルトロメオにしても、久々に見た王妃の美しさにやはり見惚れてしまっていた。ただ、アンナを見つめる時のような、胸の高鳴りや情動は全く沸かず、まるで芸術作品に感動するのに似た感覚だった。


「陛下。お忙しい所を誠に申し訳ございません」


 優雅にお辞儀をする王妃に、うむと少々頼りなげな声で応じたところで、彼女の後ろにもう一人女が立っているのに気付いた。

 王妃に促され、その女が出てきた。

 第三妃ルイーザだった。彼女も美しい女性ではあるのだが、シルヴァーナの横にたつと可哀想な程に霞んでしまっている。

 ルイーザは実家の後ろ盾が弱いことや、三妃という立場のせいか、いつも控えめで大人しい性格の妃だった。

 そして緊張しているのか、心なしか顔色が悪かった。


「今日は、こちらのルイーザ様の事で参りましたの。陛下、座らせて頂いてもよろしいかしら」

「……あ、ああ」


 三妃の登場に、バルトロメオは更に困惑していた。なぜ二人が一緒にやってくるのか、その意味が全く分からないのだ。

 妃たちの仲が悪いという話は聞いたことがない。だが反対に、仲が良いという話も聞いたことはない。

 三妃は周囲の者に教えられた通り、素直に王妃を敬っていたことは、バルトロメオも知っていた。だが格別の親交など無かったはずだ。

 バルトロメオは、ルイーザの顔色の悪さが気になってしまう。三人の妃の中では、彼女に通うことが多かったから、王妃はまさかその苦言を呈しに来たのではあるまいなと、眉を顰めるのだった。


――今まで何も言わなかったくせに……。この期に及んで、平等に、などと言われても無理だぞ。それに、俺はもうアンナしか考えられない……

 

 ムッとしながら、二人の妃を見つめた。

 王妃はバルトロメオの視線は意に介さず、ルイーザを気遣うように先に座らせ、それから彼女の隣に身を寄せるようにして座った。そして労わるようにそっと背をさすってやるのだった。すると、ルイーザは微笑みを浮かべて王妃に頷き、安堵の息を吐いた。

 驚きだった。何か通じあっているような二人の女の様子が、増々不可解だった。

 背中に冷たい滴を落とされたようで、気味が悪い。


 側に控えているダリオも居心地悪げに、わざとらしくコホンコホンと咳をして、部屋を出るタイミングを計っているようだったが、バルトロメオは再び行くなと目で威嚇する。

 王妃シルヴァーナが、ゆっくりと顔を上げた。


「陛下。本日は大事なお話がございます」


 バルトロメオの心臓がギクリと鳴る。

 シルヴァーナの、まるで教師が劣等生を教え諭すような口調が苦手だった。間違った答えは許しませんよといった、無言の笑みも苦手だった。彼女は越えられない壁のようで、高みから見下ろされ見透かされているようで不快でならないのだ。

 出会った頃から、彼女は婚約者というよりも家庭教師だった。もっとも当時まだ子どもだったバルトロメオに対して、九つも年上のシルヴァーナが恋人のような振る舞いなどできるはずもなかったのだろう。始めからすれ違っていたのだ。

 今日は何のお小言を喰らうのかと、バルトロメオはため息をついた。

 シルヴァーナが、扇を小さくパチンと鳴らした。


「おめでとうございます。ルイーザ様がご懐妊あそばされました」

「…………な……に?」


 思いがけない言葉に、バルトロメオは声を失ってしまった。





 ルイーザが懐妊に気付いたのは、夏の終わり頃だったと言う。始め、暑気あたりの体調不良かと臥せっていたのだが、月のものが途絶えていることに気付いたのだそうだ。

 それは、砦をリンザールに奪還されて、バルトロメオがむしゃくしゃとしていた頃だ。シヴァンとの繋がりを作ろうと画策したり、次の戦の準備にと、王宮とバチス城を行き来していた時期でもある。

 バルトロメオが後宮に立ち寄ることはなく、ルイーザは忙しく動き回る彼に、なかなか懐妊を告げることが出来なかったらしい。

 また、体調が酷く悪く、子が流れてしまうのではないかと心配し、落ち着くまでは報せぬ方が良いと考えたようだ。遠慮がちな三妃らしいと言えなくもない。

 そして体調が安定してきたので、この程シルヴァーナにある相談をしたのだそうだ。子が無事に生まれたら、王妃の子として育てては貰えないかと。


 ルイーザの実家は、シルヴァーナの実家であるベルニーニ家に次ぐ名家だったが、数年前の戦いで当主が戦死してから、その権勢は大きく傾いていた。

 後ろ盾の弱い三妃よりも、王妃の子として育てられるならば、その方が子の為になるのではないかと考えたというのだ。


 バルトロメオは、呆然と二人の妃を眺めた。よくよくルイーザを見てみれば、腹の膨らみはまだ目立たないものの通常よりもゆったりとしたドレスを着ていたし、顔色の悪さはつわりのせいらしい。

 ことのあらましをシルヴァーナが語ってくれた訳だが、胸にもやもやとしたものが湧いていた。もっと早くに知らせてくれても良かったのにと思う。自分の知らないところで、女二人で何やら企んでいたのが、少々気にくわなかった。

 確かに、夏以降バルトロメオはかなりピリピリとしていたから、言いだしづらいものはあっただろうが、吉報なのだから遠慮することはなかったのだ。


――そうさ、悪い話ではないのだから……


 そう思って、ふと、自分が全く喜んでいないことに気付いてしまった。バルトロメオにとって初めての子になるというのに、懐妊と聞いて最初に思い浮かんだのは、アンナに何と伝えればいいのだろうか、いや伝えられる訳がない、どうすればいいのかということだった。


 今まで誰一人懐妊することが無かったから、これからもそうなのだと勝手に思い込んでいた。子を成すのは王の責務だが、己の努力不足を棚に上げて、出来ぬものは出来ぬのだから仕方なかろうと開き直っていたのだ。

 それがアンナと出会ってからは、ごく自然に自分の子を産むのは彼女だと思っていた。アンナを愛し慈しみ大切にし、いつか子どもをもうけたいと。

 それなのにルイーザが懐妊してしまった。まるで、アンナを裏切ってしまったような気分だった。といっても、懐妊はアンナと出会う前のことではあるのだが。

 無言のまま、しかめ面をしていると、シルヴァーナが小さくため息をついた。


「お言葉をかけては下さらないのかしら。ルイーザ様は陛下のお子を身籠っておられるのですよ」

「……うむ。よくやった。身体をいとうように」

「まあ……」


 まるで駄目ねというように、再びシルヴァーナにため息をつかれ、バルトロメオはすっと目を逸らすのだった。


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