第18話 マダム・ステイシーの宿で1

 バートにエスコートされて、アナスタージアは辻馬車を降りた。

 彼が見つけたという、マダム・ステイシーの宿の前だった。

 郊外に広がる葡萄畑の近く、長閑で静かな場所だった。もう少し行けば、旧聖堂があるらしい。バートはチップを渡して、御者に待っているように指示していた。

 馬車の中で、帽子や頭に巻いていたスカーフや手袋は取り去り、少し身軽な姿になっていた。走った後であったし、秋とはいえ全身を包まれていたので、熱が籠っていた。外した瞬間、アナスタージアはほっと息を吐いたものだ。

 バートもマントや手袋を脱ぎ、ふうと手で顔を扇ぎながら笑っていた。


 アナスタージアはバートに導かれながら、バラのアーチが縁取る小さな門をくぐった。続く石畳のアプローチは、ゆるやかな曲線を描いていて、進んでゆくと角度を変える庭の景色を楽しむことができる。

 バートが言った通り、花の咲く美しい庭だった。


「素敵だわ……」

「こじんまりとしているが、手入れが行き届いている」

「そうね、花がみんな嬉しそうに笑ってるみたい。とても綺麗……」


 アナスタージアも、すべての花の名は知らなかった。緑の中に鮮やかなケイトウが目を引き、秋バラがひっそりと咲いている。野に咲くような小花が風に揺れ、桜草の仲間だろうか小さな蕾をいっぱいにつけ、咲き時を今か今かと待っている。

 春の様に咲き乱れてはいないが、上品な美しさがあると思う。人によっては秋の庭は寂しいと言うかもしれないが、この落ち着いた美しさは春にはない良さであるし、これを美しいというバートは、自分と同じ感性を持っているのだと嬉しく思うのだった。


「面白いこと言うんだな。そうか、花が笑うか……」


 バートは少し驚いたような顔で笑っていた。

 あっと口を押えて、アナスタージアは俯く。花を擬人化するなんて、子どものようなことを言ってしまったと、恥ずかしくなるのだった。


「この庭は笑顔でいっぱいというわけだ」


 ゆっくりと歩きながら、バートが顔を覗き込んできた。

 すぐ近くから見つめられると、治まりかけていた胸の鼓動がまた早くなってしまう。


「俺には、どんな花より君の笑顔が一番美しく見えるがな」

「あ……」


 少し緊張しているから、馬車の中でもあまり喋れなかった。あんなに会いたい会いたいとそればかり思っていたのに、こうして実際に二人きりになると、何を話せばよいのか分からないし、こんなことを言われると恥ずかしくてならないのだった。

 バートはどうして、臆面もなくさらりと言えてしまのか不思議だった。エレバスの気風なのだろうか。リンザールの寡黙な男とは大違いだと思う。

 もっとも、アナスタージアは男性と付き合ったことなど無いから、恋人たちがどんな会話をするものなのか知るはずもないのだが。

 アナスタージアはドキドキと鳴る胸をきゅっと押さえて、目を伏せるばかりだった。





「ようこうそいらっしゃいました」


 物腰の柔らかい、白髪の老婦人が出迎えてくれた。高齢に見えるのに、背はしゃんと伸びて、活舌もしっかりしていた。彼女がこの宿の女主人、マダム・ステイシーであるらしい。


「まあ、まるで物語の中の王子様とお姫様のよう。婚礼のパーティーを抜け出していらしたのかしら」


 老婦人はころころと笑いながら、こちらへと案内してくれる。

 婚礼という言葉に、アナスタージアはピクンと肩を震わせてしまった。今二人が着ているお揃いの白と金の衣装は、確かに婚礼のようだと彼女自身も思ったことだったから。頬が熱くなってしまう。


 通された二階の部屋からも庭が良く見えた。他に客はいないらしく、建物の中はとても静かだった。

 老夫人は二人を微笑まし気に見つめ、どうぞごゆっくりと言い残して去っていった。

 既にセットされていたテーブルにつくと、バートはにっこりと笑う。少し硬い笑みに見えるのは、彼も緊張しているからなのだろうか。


「ワインと肴だけ用意するように言っておいた。食事もと思ったが、あまり長い時間友人に身代わりをさせるのも不安だからね」

「十分だわ」


 とても食事など喉を通りそうにない。バートと共いられるなら、何だってよかった。それに自分の為に、彼がこんなに気遣ってくれたということが、何よりうれしかった。


「もう誰も入ってこない。だから俺の給仕で我慢してくれるね?」


 笑いながらバートはワインのボトルに手を伸ばした。

 我慢もなにも、彼のすることに文句をつける気なんてあるはずもない。アナスタージアはクスリと笑う。そしてうっとりと彼を見つめた。

 コルクがきゅっきゅと音を立てて引き抜かれ、中身がグラスに注がれてゆく。ふわりと香気が立った。

 アナスタージアは、ちらりちらりとこちらを見るバートの熱っぽい瞳と、ワインの芳りだけで酔ってしまいそうだった。

 グラスに唇を当てほんの少し口に含むと、仄かな花のような芳りが鼻腔をくすぐる。酸味や渋みが穏やかで、まろやかな味わいだった。

 渋みの強いのは苦手な彼女だったから、とても美味しいわ、と一口二口と飲み進めてゆくのだった。ほわんと身体が熱くなってくる。


 バートが二杯目もあっという間に飲み干し、胸の内ポケットから白いハンカチに包まれたものを取り出した時には、アナスタージアは心地良くふわふわとした気分になっていた。目がとろりとしてしまう。

 バートは立ち上がり、アナスタージアのすぐ横までくると、跪くように座った。そして、白い包みを捧げ持って微笑んでくる。


「アンナ、君にプレゼントだ。開けてごらん」


 布を指先でつまんで、そっと開くと、真っ赤なルビーが輝いていた。

 大ぶりの深紅のルビーをあしらったネックレス。大貴族が身に付けるような豪奢なものでは無かったが、その宝石だけでとても価値のあるものだと、アナスタージアは驚いていた。


「まあ……」

「付けてあげよう。二度目だから、少しは上手に付けられるだろう」

「バ、バート……これは、とても高価なものなのではないの? いけないわ、私のために、こんな……」

「君だからこそだ。気に入らないか?」

「そんなことないわ、とても素敵よ。でも……大丈夫なの?」


 アナスタージアにはっきりとした値段は分からないが、経験から高価な品だということは分かるのだ。とても国境警備兵の収入で買えるようなものではない気がする。まさか、無茶な借金などしてないだろうかと心配になるのだ。


「ハッハッハ。金の事を心配してくれてるのか? 気にしないでくれ、金には困ってないって言っただろう? 瑠璃も似合うが、ルビーもきっと似合うと思う」


 バートは笑い飛ばし、そしてネックレスを両手で持ちあげた。

 出会った時と同じように、首の後ろに彼の腕が回されると、ゾクリと震えた。抱きしめられているわけでもないのに、身動きができなくて、捕らえられてしまったようで。首筋に触れるバートの指が熱くて、見つめてくる瞳が怖い程真剣で。

 アナスタージアは息が止まるのではないかと思った。

 ネックレスをつけ終えたバートは、満足そうに頷き、アナスタージアの手を取った。


「収穫祭にまつわる言い伝えを知っているだろう? アンナ、俺の妻になってくれ。君だけを愛すと、神に誓う……」


 バートの唇が甲に触れた。柔らかく熱い唇だった。

 瞬間、音が消えた。アナスタージアの耳には、バートの声だけが天啓のように響いていて、目の前にチカチカと光が散ったような気がした。呼吸も瞬きも忘れていた。

 そして不意に腕を引っ張られ、椅子から立たされると、彼の腕の中に抱きしめられていた。


「……あ」

「はい、しか言うんじゃない……」


 バートの腕の力は苦しい程だった。彼の掠れた声に耳元で囁かれると、アナスタージアの胸はジンジンと疼いて、たまらなくなるのだった。気が付くと、彼女もバートの背に腕を回し、しっかりと抱きしめ返していた。

 身体の芯からジリジリと焼かれてゆくような陶酔。拒絶は許さないという、支配的な命令をされたというのに、心は震えている。彼の思いの強さを見せつけられたようで、喜びさえ感じているのだ。


――ああ、バート……好き。


 強引に唇を吸われた。こねるように夢中で唇を合わせる口づけは、荒々しく情熱的で、アナスタージアを全て征服しようとするかのようだった。


「アンナ……すまない」


 熱い息を吐くバートに抱き上げられていた。そして、そのまま続き部屋に連れて行かれるのだった。

 くらくらと目が回り、何がどうなっているの分からない。なぜバートは謝るのだろうと、ぼんやりとしていると、ふわりと柔らかい布の上に降ろされた。そこはベッドの上であるらしかった。


――バート!?


 頭の中で何かが弾けたような気がした。ぼわんぼわんと耳鳴りがするなかで、彼の「妻になってくれ」という言葉が繰り返されている。身体が強張って身動き一つできなかった。


「すまない」


 バートはまた謝り、アナスタージアに覆いかぶさって髪を撫で、そしてまた口づけるのだ。


「愛している」


 アナスタージアの目眩が止まらない。激しい鼓動が止まらない。喉がカラカラに乾いて、声も出せずにいる。

 これから一体、どうなってしまうだろう。

 いや、何が起きているかはもう分かっている。バートが何を求めているのかも。ただ、自分はどうすればいいのかが分からない。

 しかし悩む間もなく、彼の手がアナスタージアの身体をなぞり始めた。背にまわされた手が、ボタンを外してゆくのだ。


「ああ!」


 ビクンと、思い切り身体が飛び跳ねてしまった。手を突っ張り、バートの胸を強く押し戻していた。羞恥で全身が熱くてならなかった。

 こんなことなるとは、想像していなかったのだ。あまりにも不用意だった自分を悔いていた。

 彼に求められることに嫌悪はない。でも、どう応えるべきか、の正解がまるで分らないのだ。

 彼の気持ちに応えていいのだろうか。流されてしまっていいのだろうか。リンザールの王女だというのに。自分の身は、自分一人のものではないというのに。


 戦が間近に迫っていると分かっていて、恋に溺れてしまうことを、罪深く思う。そして、王女である自分が、エレバスの国境警備兵であるバートの妻になるなど、不可能だと、絶望してしまう。

 胸は熱くときめいていたが、アナスタージアの眉は酷く歪み、涙が溢れ出てしまった。


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