第19話 マダム・ステイシーの宿で2

 妻になってくれと口にして、そっと彼女の手に唇を落とした時には、バルトロメオはもう己を抑えていられなくなった。

 強引にアンナを抱き寄せ、貪るように口づけし、抱き上げたかと思うと隣室を目指していた。

 すまない、と思わず呟いていた。

 前触れもなくこんなことをすれば、彼女が驚き傷つくのではないかと怖かった。不埒な男だと軽蔑されるのではないかと怖かった。しかし、止まることもできない。腕の中の彼女が愛おしくて、求める気持ちを抑えるのは不可能だった。

 彼女をベッドに横たえて、覆いかぶさり夢中で口づけを降らせてしまう。


 こんなに性急に彼女を求めるつもりは無かったのだ。

 もちろん、そういった場面を想像しなかったと言えば嘘になるし、あわよくばという下心もあった。しかし、初めから画策していた訳ではなかったし、あくまでも今日の目的は求婚だった。

 収穫際の言い伝えに則って期間中に求婚し、戦が終わったら必ず迎えに来るから、待っていて欲しいと伝えたかったのだ。幸せにしたい、二人で幸せになりたい、この思いは本物なのだと。そして多くを語り合って、アンナのことをもっと知りたかった。

 それから、離れている間も二人の心が繋がっていられるように、自分はネックレスを贈り、代わりにアンナが身につけているものを何か一つ貰おうと、そう思っていた。


 だか、戦が始まれば会えなくなる、次はいつ会えるかも分からない、そう思うと胸が締め付けられて堪らなかった。

 自分が負けるとは思わない。しかしリンザールの王女を小娘などと侮れないと知った今、楽観はできないし、長期戦も視野に入れなくてはならないだろう。

 それなのに、数時間後にはエレバスを発たなければならないことが、苦しくてならないのだ。

 会えない間、誰かに奪われないように、言葉で約束するだけでなく、アンナに自分を刻みつけておきたかった。

 なんて身勝手な独占欲かと、己に呆れながらも、バルトロメオは熱くはち切れそうな欲望が命じるままに、口づけ抱きしめて彼女の身体に手を這わせてゆくのだった。


 どんと胸を叩かれた。

 アンナは、思い切り腕を突っ張って押しのけようとしている。離してくれというように、いやいやと首を振って。

 その頬には涙が流れていて、日の光にキラリと光ってバルトロメオの胸を突き刺した。


「ア、アンナ……」


 涙を流し不安げに眉を歪める彼女に、じっと見つめられて、バルトロメオはギリギリと歯噛みする。

 深窓の令嬢にいきなりこんな振る舞いをすれば、拒絶されるのは当然だと思うのに、反面なぜ受け入れないのだと怒りも沸いた。今まで、王たる彼を拒む者などいなかった故の傲慢さだろう。

 そして彼女の怯える表情にチクチクと胸を痛ませながらも、劣情が更に高まってしまう。


「……泣くんじゃない」


 瞳を揺らすアンナに、また口づける。どうか拒まないでくれと願いながら。

 微かな花の香りはワインのものなのか、彼女からわきたつものなのか。柔らかくしっとりとした甘美な唇に、バルトロメオは酔いしれる。

 どうしてこんなにも彼女を求めてしまうのか、バルトロメオ自身にもよく分からなかった。アンナの美しさ故だろうか。凛とした表情のせいだろうか。半面、世間知らずで無防備で庇護欲を誘うからだろうか。

 いや、きっとそれだけではない。理屈では到底説明しきれないのだ。アンナという存在が、自分を惹きけて止まないのだ。裂かれた半身を、取り戻したいと願うように、彼女を欲していた。自分たちは、元は一つだったのだと。

 愛し愛しと口づけを繰り返し、「バート」と囁くアンナの甘い息も飲みこんだ。


「愛している。お前だけだ。贈り物も、二人きりの逢引も、初めてだ……求婚も。出会ってから二度目で、バカげていると思うか? でも、お前も俺についてきた。俺とならどこまでも行く、そう言っただろう。だから……愛していると言え……」


 指で彼女の涙を拭きとり、台詞だけは命令形で情けなく懇願する。口づけながら、再びアンナの身体に手を這わせ、衣装を剥いでいった。

 もう彼女は抵抗していなかった。だが、愛の言葉はおろか、何も言ってはくれない。ただ身体を震わせている。

 好意を抱いてくれていると思ったのは、自分の独りよがりな思い過ごしだったのだろうかと、胸を軋ませながら彼女の服を奪っていった。

 薄絹の下着だけになったアンナを抱きしめ、あらわになった首筋に唇を押しあて、夢中で彼女の身体の線を確かめるように指でなぞってゆく。


 しかし、彼女がどんな表情をしているのか、確かめることはできなかった。抵抗を止めたのは、受け入れる気になったからなのか、逃げられないと諦めただけなのか、バルトロメオには分からないのだ。

 もしも、まだ涙を流しているのを見てしまったら、自分は一人きりでこの部屋を出て行かなければならなくなるだろう。

 だから彼女の瞳から目を逸らしたまま、急いで自分の服も脱ぎ捨てた。自分たちは想い合っているのだと、己に何度も言い聞かせていた。

 アンナの最後の薄絹を取り去り、柔らかな膨らみを優しく撫で、震える先端をそっと口に含む。


「ああぁ!」


 アンナの身体がビクリと飛び跳ねる。そして、両手で顔を隠した下から嗚咽が聞こえてきた。小刻みに頭を振っている。

 バルトロメオの胸に、どす黒い絶望がにじり寄ってきた。

 見まい見まいとしていたが、手の隙間からこぼれた雫を目にしていしまい、思い切り唇を噛んでいた。

 アンナの手首を掴み、ぐいと左右に押し開いた。そして真上から、じっと見下ろした。赤らんだ頬はやはり濡れ、目も真っ赤だ。


「……俺が嫌か。俺に抱かれるのが、そんなに嫌か」


 自分でもゾッとするくらい低い声だった。怖がらせてはいけないと思うのに、顔も険しく歪んでしまう。

 女心など分からないが、好きな男に触れられて泣きはしまいと思う。惨めさに、身体が捩れてしまいそうだ。


「…………バ、バート?」

「今からお前を抱く。俺のものにする。受け入れろ……」

――さあ、俺を引っ叩け! そうしたら、すぐに出て行ってやるから!


 もう、やけっぱちだった。

 アンナを欲しくてたまらなかったが、今ここで無理やり奪っても憎まれるだけだろう。この欲望を抑えるのも地獄だが、抱いても地獄しか待っていない。

 それなのに、アンナはおずおずと手を差し出してきて、バルトロメオの頬を指でそっと撫でるのだ。


「……どうして、そんな顔をするの? お願い、怒らないで……」


 引っ叩くどころか、アンナは捨て猫のような情けなく不安げな顔で、縋るように訊ねてくるのだ。大きな瞳に、またじんわりと涙を貯めながら、唇を震わせて。

 まるでアンナの方が、バルトロメオに拒絶されてショックを受けている、そんな表情なのだ。

 どうしてそんな顔でそんなことを言うのか、こっちが訊きたいくらいだと、バルトロメオは困惑してしまう。


「怒ってはいない……ただ、お前に泣かれると俺は……」

「驚いてしまって……怖くて……あ、あなたが嫌なわけじゃないの……でもどうしたらいいか分からないのよ。軽々しく身を任せていいのか……。ああ、バート、怖い顔しないで……私を嫌いにならないで!」


 アンナがしがみついてきた。細い肩が震えていた。

 睨んだつもりは全く無かったが、表情が固かったのだろうかと、おろおろとバルトロメオは彼女の髪を撫でた。

 言いたいことは、何となく分る気がした。アンナも自分と同じように、相手の顔色を窺って臆病になっているのだと。相手を想う故に、嫌われはしまいかとそればかり気にしているのだと。

 目が熱くなってきてしまう。


「嫌いになんかなるもんか……こんな愛らしいお前を」


 アンナの涙や拒絶は、迷いや不安のせいだったのだ。男をまだ知らぬであろう彼女であれば、戸惑ったり恐れたりするのは無理もないことだったのだ。

 自分への嫌悪では無かった、そのことにほっと安堵していた。

 胸に頬を摺り寄せてくる彼女が、可愛くてたまらなかった。


「バート、バート……愛してる……」

「ああ、アンナ!」


 聞きたくてやっと与えられた言葉が、バルトロメオの耳を焼き貫いて脳を蕩けさせる。全身が燃えるようだった。ああ、と吐息する熱で、彼女まで焼いてしまいそうだと思った。

 欲しかったものは、アンナと、愛の言葉。その二つをしっかりと抱きしめる。

 滑らかな肌に唇を這わせ、曲線をなぞった。彼女にも喜びを与えようと懸命だった。夢中で愛撫し口づけ身を繋げ、バルトロメオは持てるだけの情熱の全てをアンナに注ぎ込むのだった。

 アンナの途切れがちになる高い声が、更に気持ちを昂らせて愛しさがこみあげて来る。何度昇りつめても果てがない程に。真に愛する女と抱き合うことが、こんなにも素晴らしい喜悦をもたらすのだと、この日初めて知った。

 旧聖堂の鐘の音が風に乗って運ばれてくるまで、バルトロメオは時間を忘れて抱き合っていた。

 



 アンナ・マリー。待っていてくれるね? 戦が終われば、必ず迎えに行くよ。そうしたら、結婚しよう。きっと幸せにする。幸せになれる……

 愛してる、俺のアンナ……







 突然のバートの熱烈な求めに、アナスタージアは困惑してイヤイヤと頭を振ってしまったが、その途端に彼が顔色を変えたのを見ると、恐ろしさに胸が縮み上がってしまった。今、彼を受け入れなければ、見限られてしまうのだろうかと不安に襲われたのだ。

 バートに抱きしめられると胸がきゅんと鳴って、口づけされると全身が蕩けてしまう。だから、彼を嫌だなんて思ってはいないのだ。愛していると、お前だけだと、そう言われて得も言われぬ喜びを感じているのだ。何より彼は求婚してくれたのだ。

 ただ、何の心の準備もできていなくて、彼の腕の中で自分がどうなってしまうのかが分からなくて、怖くなってしまったのだ。


 この祭りが終われば、祖国に帰らなくてはならない。戦に備えなければならない。エルシオンが大砲を手に入れたと、マルセルに聞かされた。とんでもないことだと思う。策を練らなければ、リンザールは滅ぼされてしまうだろう。

 それなのにアナスタージアを悩ませるのは、恋のこと。彼に身を委ねるか否かとことなのだ。彼に失望されたくない、嫌われたくないと、思わず懇願してしまった。

 王女という立場を忘れて、浅ましくもただの女に成り下がって、彼に縋ってしまった。恋しくて恋しくて、涙が止まらない。


 そして、表情を和らげ熱っぽい瞳をするバートを見て、気づいてしまった。

 一目見た時から、こうなることは決まっていたのだと。

 どこでどんな風に出会っても、きっと彼に恋したことだろう。全てを投げうっても、この恋だけは手放せない。どんな犠牲を払おうとも、彼と共にある未来を求めずにはいられないのだから。

 優しく髪を撫でられ、嫌いになるはずがないと低くささやく声に抱きしめられて、目の眩むような幸せを感じる。

 アナスタージアは彼の胸に顔をうずめて、愛していると囁いた。


 もう、後戻りはできない。

 きっと皆は、バカな女だと言うだろう。でも、構いはしない。アナスタージアは微笑みを浮かべて、バートを受け入れるのだった。

 彼の指や唇に、今まで知らなかった喜びを教えられる。恥ずかしさに身悶えながらも、彼が与える痛みも快感も全て愛おしく思った。

 激しい律動に身を任せながら、彼の額の傷を見つめて思う。その傷は自分がつけたようなものだと。


――あなたを死なせはしないわ。二度と傷さえ作らせない……。決して戦にエレバスを巻き込まないと誓うわ。あなたを守るの……。私は戦姫、エルシオンをきっと倒してみせる。戦を終わらせる。そうすれば、私の役目も終わるでしょう……全部捨ててもいいの。だから、それまで待っていて……


 切なさに涙がこぼれた。

 しばしの別れを耐えれば、きっと幸せになれると信じたい。

 バートの肌の熱さに狂いそうだった。声を上げてしがみつき、この男の為なら何だってしようと、心に誓った。


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