第四章 仮面の祭り

第15話 国境警備兵バート

 アナスタージアはスカートを大きく摘まみ上げて、衣擦れの音がしないように気を付けながら、ヨアンナの後をそっとつけていった。

 先程まで、二人でお茶を楽しんでいたのだが、ホテルの支配人がやってきてヨアンナを呼び出したのだ。その支配人の小声の中に、アナスタージアが待ちかねていた、バートという名が聞こえた。

 その途端、ドキリと心臓が鳴り息が止まりそうになったが、ヨアンナがチラとふり返った時には、何も聞こえていないふりをして、バラの花びらを一枚ティーカップに浮かべてみたりなんてしていた。


 そして、ヨアンナが少し用事を済ませて参りますなどと言って、バートの来訪を告げもせずに部屋を出て行ったものだから、アナスタージアはムッとして後をつけていったのだった。

 扉の陰から顔を出せば、幸いにも警備のハリーは廊下の見回り中で、こちらに背を向けていた。その隙に、アナスタージアは急いで部屋を飛び出し、階段へと向かう角を曲がったのだった。


 一階に降り、そっと大きな彫像の陰からロビーを覗くと、支配人とヨアンナ、そして赤い髪の背の高い男が見えた。

 バートだ。

 アナスタージアの身体がカッと熱くなる。

 先日はくたびれた軍服だったが、今日の彼はピシッと皺の伸びた真新しいものを身に付けている。髪もきちんと整えられていて、男らしさが上がって見えた。


――ああ、バート! ちゃんと会いにきてくれたのね……良かった。


 アナスタージアの胸は、もう苦しい程に脈打っている。なぜだか懐かしいような気分になって、胸がいっぱいだった。

 昨夜、彼の夢を見たのだ。一昨日、二人で話した公園を一緒に歩く夢だった。でも楽しい夢ではなかったのだ。バートは仕事で遠い所に行かなくてはならないのだ言う。そして、またいつか会えるといいねと言い残して、去って行ってしまうのだ。

 アナスタージアは涙をこぼして目覚めた。イヤイヤと頭を振り、早く自分を迎えに来てちょうだいと祈ったのだった。

 そして、バートは本当に迎えに来てくれた。一緒に仮装行列を見ようという約束を守るために。


 彼らは何やらしゃべっているようだが、よく聞き取れなかった。バートの声が聞きたくて、じっとしていられない。壁際の植物の陰に隠れながら、アナスタージアはそっと近づいていくのだった。

 深々と礼をして支配人が姿を消すと、バートは胸ポケットから何かを取り出して、ムムと唇をきつく結んでいるヨアンナに見せた。


「バート・クレイトンです。始めまして。いや、一昨日にも会いましたね? アンナ・マリー嬢をこちらにお送りした時、迎えに出ていらっしゃったのは貴女でしょう?」

「ええ、私です。あの時はお嬢様をお送り頂いて、有り難うございました」


 ヨアンナは礼を言って軽く頭を下げているのだが、その声も表情も思い切り警戒を含んでいた。身分証と思しきものを、厳しい目つきで何度も見返して、それからバートに返していた。

 アナスタージアからは、横顔しか見えないのだが、お願いだからバートにそんな無礼な態度をしないでくれと、ヤキモキしながら見つめていた。


「ああ、やっぱり」

「……で、何か御用でしょうか。国境警備のお役目を果たされている兵士の皆様方には、いつもお守り頂いて感謝致しておりますが、このように訊ねてこられるような関りは無いように思うのですが」


 エレバス貴族に仕える侍女という役回りを見事に演じるヨアンナ。役者の才能があったなんて知らなかったわ、とアナスタージアはくすりと笑った。

 しかし、あまりにもつっけんどんな対応なので、思わず嗚呼とため息も出てしまうのだった。機嫌を損ねて、バートが帰ってしまったらどうしてくれるのか。

 しかし、彼はにっこり笑っていた。入口近くのカウンターに置いてあった大きな花束を抱えると、恭しくヨアンナに差し出した。

 真っ赤な大輪のバラの花束だった。


「まるではちみつのような髪色ですね。遠目より、こうして間近で見る方がやはり美しい。これを、どうぞ貴女のお部屋に飾って下さい。出会いの記念に」


 まあと、驚きにヨアンナが口を押える。

 彼はキザな笑みを浮かべて彼女を見つめているのだ。


――どうして?! バート、どうしてヨアンナなの……


 アナスタージアも、思わず声を出しそうになった。私に会いにきてくれたのではないのかと、キュッと胸が縮んだ。まさかの心変わりなのだろうか。

 指先から体温が逃げてゆく。身体が鉛の様に重くなってゆく。唇が震えて、目が潤んで、バートの姿がぼやけていった。

 あんまりだと思った。夢よりも酷い話だと。


 バートは、さあと少々強引に花束を持たせ、さらにポケットから砂糖菓子の入った瓶を取り出すのだった。そしてヨアンナの手を取り、握らせた。


「ティータイムのお供にどうぞ。なかなか美味しい菓子らしいです」

「……な、なぜ、私に?」

「ほら『まずは母から』などと言うでしょう? 露骨すぎましたか?」


 バートはニコニコと笑っている。揉み手でもしそうだ。

 一瞬頬を染めてしまったヨアンナだったが、なんだそういうことかとため息をつくのだった。


「……お嬢様に会いたいということですか」


 アナスタージアは、ポカンと口を開けていた。どういうことかと数舜考え、そしてバートの真意を理解した。

 彼は『娘と付き合いたければ、まずその母に気に入られろ』を実行したらしい。ヨアンナは母ではないが、一番身近にいる侍女だ。彼女に気にいられれば、アナスタージアと会いやすくなる、そういう事だったのだと。

 ほんの少しの間だったけど、バートを疑い絶望してしまった自分が恥ずかしくなって、頬を赤くして俯いてしまうアナスタージアだった。

 眉間に皺を寄せてヨアンナがつぶやくと、すっとバートの顔がキリリと引き締まり、口調も変わった。


「そうだ、会せてくれ。俺は真剣だ。貴女は、アンナ・マリー付きの侍女なのだろう? ぜひ、取り持って欲しい。俺は遊びでこんなことは言わない。いずれ正式にお父上にも挨拶しようと思っている。それに実は、今日は仮装行列を共に見ようと約束をしていたのだ。どうか会せてもらえないか?」

「道案内をしただけなのでしょう。なぜ……」

「道案内しただけで、運命を感じる恋もあるということだ。アンナに会せてくれ」

「そんな……」


 口を押えたヨアンナの眉が大きく歪んでいた。困り切っているのが、傍目にも分かる。マルセルとヨアンナは、彼がスパイでわざと近づいてきた可能性があると考えていたが、まさか突然求愛してくるとは思っていなかったのだ。

 いや、この求愛にしても計算づくでないとは言い切れない、とヨアンナの頭の中では色々と考えが巡っていることだろう。どう対処すればよいかと。

 どうみてもアナスタージアが望む「さあ、どうぞお二人でお出かけくださいませ」といった言葉が出て来るような表情ではなかった。会せるわけにはいかないと、立ちふさがることだろう。


 アナスタージアは、一歩踏み出した。

 もしもここにマルセルがいたなら、絶対出かけることは不可能だったはずだ。行くなら、彼がいない今のうちなのだ。

 バートと一緒にいたいという思いは、もう抑えられなかった。

 コツコツとわざと足音をたて、アナスタージアは彼らに近づいていった。

 ヨアンナはあっと声を上げて振り返り、バートは満面の笑みを浮かべ両手を広げて叫んだ。


「ああ、アンナ! 会いたかった。出てきてくれてうれしいよ」

「バート。私も会いたかったわ……」


 足早に駆け寄ると、バートも歩み寄ってきて、アナスタージアを抱きしめるのだった。始めは肩に手を置かれただけでも、震えあがってしまったアナスタージアだったが、今は大胆にも自分から彼の背に腕を回していた。それ程、会いたくてたまらなかったのだ。ずっと彼の事ばかり考えていたのだから。

 昨日一日会わなかっただけなのに、まるで何十年ぶりかの再会の様に思える。


「え? え? ど、どうことなのです……」


 訳が分からないと動揺するヨアンナだった。バートが一人で勝手に懸想していると思っていたようだが、そうではないと知りオロオロと二人を見つめていた。


「ねえ、ジョアン・・・・。今からお祭りに行ってもよいでしょう。最終日なのよ。メインの仮装行列を見る為に来たのよ。バートがいれば、もう道に迷ったりしないわ。夕刻にはちゃんと帰るし。だから行ってもいいでしょう?」

「な、何を仰るのです。いけませんわ! ご、護衛もいないのに!」

マーカス・・・・の手を煩わせることはないわ、だってバートがいるのよ」

「そう、護衛なら俺に任せて欲しい」


 ニコリとして、アナスタージアとバートは頷きあった。

 とんでもないと、ヨアンナは口をパクパクさせている。そしてブルンブルンと頭を振るのだった。


「そ、その方がどのようなお方か分からないのに、お二人で行かせるわけには参りません!」

「そんな、不審者呼ばわりしないでくれよ。自己紹介はしただろう? バート・クレイトン、国境警備兵で田舎貴族の息子だよ。まあ貴族とはいっても本当に田舎者だから、このお嬢様とは不釣り合いだと思われるかもしれないが、しかし金には不自由していない」

「お金目当てで近づいたのでは無いと言いたいのですか。しかし、非常識です。先日たまたま道案内しただけなのに、お嬢様に祭りに付き合えだなんて!」

「ふむ、この警戒の仕方は、やはり中流以上のお家柄のようだな」


 バートが探るような目で見ると、ヨアンナはウッと息を飲んだ。アナスタージアもどうしようと目を泳がせてしまう。


「だ、旦那様には内緒の旅行なのです……ですから、決してお嬢様に何かあってはならないです。ですから、どうぞお帰りください!」


 ヨアンナは目を瞑って叫んだ。

 アナスタージアに無礼であると承知でも、反対しなければならなかった。言葉通り、王女の身に何かあってはいけないのだ。


「では貴女も一緒にくればよいでしょう? そう、あちらにいらっしゃる方も」


 こともなげにバートが言った。そんなに心配ならついてくればいいと。

 バートが視線で示した先には、ロビーの騒がしさに何事だとやって来たマルセルの部下のハリーだった。マルセルがいない間の警護役だ。

 ヨアンナはその彼をふり返り、キッと睨んだ。なぜ王女を部屋から出したと。

 その視線に怯みつつもハリーがやってくると、ヨアンナは増々ギリギリと睨み付けるのだった。


「いい考えだわ。みんなで祭りを楽しみましょうよ、ね?」


 アナスタージアは、バートと二人きりでないことを少し残念に思ったが、ここで彼を追い返されてしまうよりは断然いいと思う。

 ヨアンナを説得しようと、彼女の手を取り、ね、ね、と懇願するのだった。


「だって、皆で見に行く予定だったじゃない。バートも一緒でいいでしょう? マーカス・・・・なら、きっと後で合流できるわ。伝言を残しておけばいいのよ」


 アナスタージアはうっとりと微笑んだ。

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