第10話 勝利の為に
夜の名残はまだ色濃く残っていたが、東の空はゆっくりと白み始めていた。この時間に起きているのは、警備の者か
――今頃、アンナもまだ夢の中だろう。それとも同じように、眠れぬ夜を過ごしただろうか。
祭りの最終日にまた会う約束をし、別れた直後からそれを待ち遠しく思った。会いたくてたまらない。まるで子ども頃の様に心が浮き立って、眠れなかったのだ。
アンナとの出会いは、ささくれていたバルトロメオの心に潤いを与え、更に未来への高揚感を高めていた。
このバチス城は、リンザールに砦を奪還された時の屈辱を、いや応なしに思い出させるのだが、彼女の事を思えば自然と唇が緩み、この先の戦にかける意気込みを強くさせるのだった。
リンザールを落とし平定することは、先祖から受け継いだ宿願だ。王になる前から、自分の代で成し遂げるのだと決意していたし、今は更にその思いを強くしていた。
宿願を叶えた後、絶対に手に入れたいものができたのだから。
――アンナ・マリー。お前を妻に迎えたい……
昨日、出会ったばかりの彼女に、随分と入れあげてしまったものだと、つい苦笑してしまうが、バルトロメオにとっては初めて心から欲しいと願った女だった。
妻なら後宮に何人もいる。しかし愛した女はいないのだ。
政略で結び付けられた美姫たちは、一時の慰めにはなっても、心を満たしてはくれない。強いて言えば、王太子の頃から添っている王妃だけは、信頼に足る存在であったが、決して愛は無かった。
バルトロメオが初めて自ら望んだ女がアンナだった。
彼女が貴族の娘であろうとなかろうと、エルシオン王である自分が望めば、手に入れることは今すぐでも可能だろう。昨日の様子からすれば、彼女も拒むことは無いと思われる。
しかし、戦を目前にして婚礼などと浮かれている場合ではないし、臣下への示しも付かない。だから一日も早く勝利した後に、身分を明かし彼女を迎えに行こうと思うのだ。
――随分と気の早いことを考えるものだ。
くすりと笑いベッドから立ち上がる。ガウンを羽織り、足早に部屋を後にした。
「も、申し訳ございません!」
目覚めた瞬間、ダリオ・ベルニーニはベッドから飛び降り、目の前に立っているバルトロメオに平伏した。深酒をした訳でも無いのに寝過ごし、主君に起こされるという大失態を犯してしまったと、顔を青ざめさせていた。
「いきなり何を謝っているんだ?」
「ね、寝過ごすなどと、ご無礼を致しましたこと、心より猛省し……」
「いや、まだ夜明け前だ」
「え……?」
ニヤニヤと笑っている王を、ダリオは跪いたまま呆然と見つめた後、やっと部屋の中が薄暗いことに気づいた。
まさか敵襲かと、サッと窓辺に寄って外を伺った。が、敵の影はおろか味方の姿もない。城内はしんと静まり返っている。
一体なぜ、自分の寝室に王たるバルトロメオがいるのか、まったく訳が分からなかった。寝起きの動揺が治まらぬまま訊ねる。
「……陛下? 何事でございますか?」
「お前に使いを頼もうと思いたってな。すぐに発てるか?」
「はい、ご命令とあらば。で、どのようなご用向きでしょうか」
早朝からの命令に、大事を感じて顔を引き締めるダリオだったが、王の方は先ほどからずっと頬を緩めたままであることに、内心首をひねった。
「至急王都に戻って、女が喜びそうな装飾品を一つ見繕って来て欲しい。王宮に出入りしている馴染みの宝石商がいるはずだから、その者から買えばいいだろう」
「……は? 女が喜ぶ、宝飾品、ですか……」
「そうだ。ネックレスにしよう」
笑いながら言う王を、ダリオはまた呆然と見つめ、そしてため息をついた。
「もしや、昨夜仰っていた、素晴らしい出会いとやらの相手に贈るおつもりですか……」
「はっはっはっ」
ダリオの身体からドッと力が抜けた。
何のことは無い、王の用事とは女がらみだったのだ。戦の行方が決まるかもしれない会談を前に、どんな密命が下るのかと緊張したのも束の間、ダリオはついイラッと眉を歪ませてしまう。
「本日は、スペンサー司教とお会いになるご予定です。私も同行致すことになっておりますので、王都へ戻っている暇はございません!」
「お前がいなくても、会談には何の支障もない」
「…………警護が必要です」
「エレバスは戦場ではないし、俺は自分の身は自分で守れる」
「私は必要ないと仰るのですか!」
「違う、お前には良いネックレスを選んで来るという、誠に重大かつ至急の大役を任せたいだけだ」
半ばふざける様な口調のバルトロメオに、思わずダリオは小さく舌打ちした。
王とは幼馴染でもあり友人でもあり、一の側近であると周囲もお互いも認め合う仲で、遠慮なく諫言することもしばしばだったが、これでも不敬な言動だけは極力抑える努力をしている。しかし、今回の王の行動はあまりに身勝手過ぎて、ダリオの忍耐は擦り切れてしまったようだ。
「バルトロメオ様! いい加減にしてください! 昨日の一人歩きといい、大事な会談を前にして何を考えてらっしゃるのですか! 今は、女の事は忘れて下さい!」
「そう怒るなよ。どうやら俺は、女ゆえに張り切ることができる性質なのだと、たった今気が付いたのだ。呆けてなどいないぞ。闘志が前より沸き上がっているくらいだ。会談も戦略も手を抜いたりはしない。だからお前は、俺をもっと燃え立たせる為に、エルシオンの勝利の為に、行って来い」
胸を張って、バルトロメオは屁理屈を言い放った。そして頬を引きつらせるダリオに、笑みを浮かべながら注文を付ける。
宝石は自国の旗の色をイメージさせる、真っ赤なルビーを指定した。金に糸目はつけないが、見るからに値が張ると分かる豪華すぎるものは避け、エレバスの中流貴族が持っていても不自然でないものが好ましく、その上で、上品かつシンプルな意匠の一点もののネックレスを、明日の朝までに用意せよと、命じるのだった。
女の機嫌取りなどしている場合ではない、とダリオは再度諫言するのだが、バルトロメオは聞く耳を持たなかった。
「今すぐ発てば、お前ならギリギリ往復できるだろう」
「色々と無茶を仰る……」
呆れ返るダリオだったが、一旦言い出したことを引っ込めるバルトロメオではないことは重々承知していたので、ムッと口を歪めながらも従うしかなかった。
「……私に任せておいて、後で品物に文句をつけるのは無しにしてくださいよ」
「大丈夫だ。お前は誰よりも俺を理解しているし、頼れる男だからな」
「おだててもダメです。……それにしても、シルヴァーナ様がお知りになられたら、さぞ嘆かれることでしょうに」
「……お前が黙っていれば済む話だし、嘆きなぞしないさ」
シルヴァーナの名前が出た途端、バルトロメオは不快を露わにした。折角の華やいだ気分をぶち壊しにされたと、心の中で毒づいていた。
「シルヴァーナは、王冠と結婚したのだ。あの人が自分でそう言った」
「単なる比喩です。陛下をお支えする心構えとして、そう仰っただけです」
「確かにそうなんだろう。後宮の事はあの人に任せておけば間違いはないと、信頼している。しかし、シルヴァーナが男としての俺に興味を持っていないことも確かだ」
「戦の折には、必ずご無事を祈っておられます」
「それはそうだろう。俺が死んだら、王妃の座を失うからな」
「…………」
ダリオは黙りこんでしまう。
王と王妃の仲は冷え切っているのだ。ダリオがいくら取りなしても、こぼれた水が元には戻らないように、二人の間にできた溝が埋まることは無かった。返ってバルトロメオの強情を煽るばかりだった。
しかしそれでも、ダリオは諦めきれない。シルヴァーナが、王に顧みられない憐れな王妃と、人々に囁かれるのが我慢ならないのだ。
シルヴァーナはベルニーニ侯爵家の出身で、ダリオの実の姉なのだから。
「とにかく、今すぐ行け。明日の朝までに戻るんだ」
「……御意」
王は不機嫌な顔で命令し、足早に部屋を出て行った。
姉のライバルがまた増えるのかとダリオは呟き、いいやと頭を振った。増えるのではない、今初めてできたのだと思い直したのだ。
第二妃も第三妃もライバルになりようがない。彼女らもまた、王の寵愛を得てはいないのだ。
傍から見れば、美女ばかり選り取り見取りの後宮だが、バルトロメオが望んだものではないことは、ダリオも分かっていた。
バルトロメオは、妻たちに辛く当たる訳では無い。彼女たちの立場を尊重して、王妃には王妃に相応しい遇し方をしているし、二妃三妃に対しても同じだ。ただ、とにかく事務的、義務的で心が伴っていないのだ。
それは特に王妃シルヴァーナとの間で顕著だった。夫婦となって十三年も経つというのに、バルトロメオにとって彼女は、エルシオンの王妃として尊重する存在ではあっても、己の妻であるという感覚が無いように見える。
バルトロメオ十三歳、シルヴァーナ二十二歳の時の政略結婚。二人の歳の差と、当時の夫の幼さ、妻のプライドの高さの為に、心が触れ合えないまますれ違いを繰り返し、結果愛情を抱く余地を失くしてしまったのだ。
今ではすっかり夜離れして、何年も経っている。二妃や三妃のもとには通っても、バルトロメオはもう王妃と床を共にすることはなかった。
故に口さがない者たちは、陰で憐れな王妃と噂するのだ。
ダリオはやるせなくため息をつきつつ、出立の準備をした。
王が急ぎで宝飾品を求めたのは、ただ贈り物をしたいだけではなく、この収穫祭の間に求婚するつもりなのだと察していた。彼は本気なのだと。
初めてバルトロメオの心を動かす女が現れてしまったのだ。その女が後宮に入りでもしたら、王妃である姉は増々揶揄の対象になるだろう。姉の為に何もできないばかりか、苦境に追いやる片棒を今担ごうとしていると思うと、気が沈んでならなかった。
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