第3章 錯綜

第9話 バルトロメオの収穫祭

 収穫祭は神の恵みに感謝する特別な祭りだ。

 リンザール、エルシオンを含む一帯の国々が信仰する主神の生誕地、この聖地で行われるということも重要な点で、この祭りの前後では戦が起きたことはない。

 だから、エレバスの国境警備隊もこの間は任を緩めることができた。すなわち、警備兵たちはいつもより多く休みを取ることができ、任務が明けるとそのまま祭りに繰り出せるのだ。

 バルトロメオがエレバスの兵士に扮して町を歩いていたのも、その事情を知っていたからだ。自分が普通の市民の服装をしても、回りから浮いて見えることも承知していて、軍服の方が自然に町に溶け込めると考えたのだ。


 彼は二ヶ月前の戦い以降、腹に石を飲み込んだようで気分が晴れず、その苛立ちをなんとか発散させようと、エレバスに忍んできたのだった。

 このところ女との関係ももたず、戦にばかり専念してきた。勝てば女など比でもない愉悦や高揚感を得るが、負ければ一気にフラストレーションが高まり鬱屈とする。一つ息抜きに、面倒なことは何も考えずに、女を買って遊ぶつもりだった。

 側近のダリオは、後宮に戻ればいくらでも美姫が揃っているのにと、眉をしかめたが、バルトロメオはふんと鼻で嗤ってその提案を蹴った。


――俺は操り人形に興味はない。


 ダリオについて来るなと厳命して、彼は一人エレバス教皇領に向かったのだった。

 町は陽気に湧いていた。今のエルシオン王国の雰囲気、いや自分の回りの陰気な空気感とは全く違うことに、バルトロメオは苦笑する。

 廷臣や麾下の武官を萎縮させ、陰鬱にさせているのは、自分が不機嫌をばら撒いているからだという自覚はあったのだ。


 祭りの喧騒の中を彼は歩いてゆく。女はいくらでもいた。放っておいても向こうから意味ありげな視線を投げかけてくる。見た目も悪くなく、一夜の遊びには充分な相手はいくらでもいそうだった。

 しかし、自分を見つめる誰にも彼は笑みを見せなかった。もっといい女をと望んだ訳でもなく、純朴な町娘を手玉に取るのをためらった訳でもなかった。ただ、気乗りしなくなっていたのだ。

 町を散策し、楽しげな人々を眺めているうちに、バルトロメオの苛立ちは和らいでいた。何の事はない、と思う。ただ外の空気を吸いさえすれば、気持ちとはこんなに変わるものなのだと、彼はまた苦笑した。女遊びは止めだ。


 その時、目の前を一人の娘が通りすぎた。ハッと目が釘付けになる。

 黒髪を肩の上で切り揃えた、清楚で凛とした娘。つぶらな黒い瞳は漆黒のダイヤかと思った。娘が自分に気付くことなく去ってゆくと、彼はふらふらとその後ろ姿を追って歩き出していた。




 どのタイミングで声を掛けようか、とバルトロメオは思案しながら娘を観察していた。彼女は余程町の様子が珍しいのか、キョロキョロと周囲を見渡しながら歩いている。

 彼女の生成りのワンピースはシンプルなものだったが、生地も仕立ても一級品であろう。恐らくエレバスの貴族の令嬢なのだろうと、バルトロメオは思った。

 辺りをいくら注意して見ても、供らしき者は見当たらない。世間知らずのご令嬢の、ちょっとした冒険といったところかと、くすりと笑う。

 それなら、自分が護衛を努めるとしよう、と後をつけていくのだった。

 彼女を見てニタニタ笑っている若者グループに、鋭い視線を送って威嚇したり、声を掛けようと近づく男の腕をねじ上げたりしながら、付かず離れずの距離を保っていた。


 娘が露店の主人に声かけられアクセサリーを眺め始めた時、ここで声を掛けようと決め、そして実行した。彼女が手にしたイヤリングをつまみ上げたのだ。自分が買って、その場でプレゼントしようと考えたのだ。

 しかし、彼女の唖然とする顔がとても愛らしくて、その顔をもう少し見ていたくて、つい意地悪な事を言ってしまった。


「返して下さい」

「返す? ……君はまだ金を払っていなかった。従ってこれは、金を払った俺のものだ。返せと言われる筋合いはないと思うが?」


 ムッとして背を向けて歩き出す娘の後を、くすくす笑いながら追ってゆく。

 彼女が自分に見とれたことにも気づいていた。


――初心な娘だ。これならすぐに落とせる……


 女の引っ掛けるのは止めにしようという考えは、いとも簡単に覆されていた。

 細い路地ではスリの少年から、彼女を助けてやった。泥棒の腕もさることながら、すられたことにも全く気付かず、ただただ驚いている彼女を、もう放っておくことなんてできなかった。

 これをきっかけに会話を繋いでいく。バルトロメオの胸は躍っていた。

 気取って、イヤリングを付けやった。振り払われるのを予想していたのに、彼女はされるがままだ。頬をバラ色に染め、時折、自分の言葉に反応してキッと睨みつけてくるが、それが返って煽情的でさえあった。

 初対面の男にそんな顔を見せては、相手を調子づかせて危険な目に合うぞ……と、他人ごとのように思いながら、バルトロメオはネックレスを取り出す。

 そして、彼女の首に手を回す。喉がゴクリと鳴った。


「……名前を、知りたい。君を見つけてから、ずっと見ていた」


 自分でも驚く程掠れた声だった。口の中がカラカラに乾いていたことに、たった今気がついた。


「ア、アンナ・マリーよ」

――ああ、こんなに簡単に名前を教えちゃダメだろう。


 自分で聞いておきながら呆れる。この娘は本当に世間知らずなのだと改めて思った。庇護欲も湧いてくる。


「俺は……バートだ」


 しかし、彼もまたすぐに名乗っていた。偽造の身分証も用意していたというのに、エレバス風の愛称に言い換えただけで名乗ってしまっていた。

 さすがに身分を明かすことはできなかったが、彼女にはできるだけ嘘をつきたくないと思っていた。

 彼女の両肩に手を置き、ゆっくりと顔を近づける。


「キスするぞ。嫌なら俺を殴れ」


 言ってしまってから、バルトロメオは動揺する。いきなり何を言ってるんだと、内心自分を罵る。冗談だよと笑って今すぐ誤魔化すんだ、そう思うのに、潤んだ瞳で彼女に見つめられると、身体が勝手に動いてしまっていた。

 そっと唇を重ねる。

 なんという柔らかさか。

 なんという薫りか。

 思わず抱きしめた肩は、想像以上にか細くて、少しでも乱暴に扱ったら彼女は壊れてしまうのではないかと思った。そして、体の芯に熱い火が灯るのを感じた。

 たっぷりと口づけし、それからうっとりと顔を離す。

 しかし、彼女の頬に涙を見つけると、甘い酔いに浸っていたバルトロメオの胸がギュッと縮んだ。一瞬で地獄に落とされたような気がした。


「泣く程……嫌だったのか……」


 突然口づけしてしまったことを、猛烈に後悔した。

 彼女も受けれているように感じたし、無理やりではないつもりだったが、自分のような大柄な男に迫られては、恐ろしくて拒んだり逃げたりできるものではないのだと、今更のように気が付いてしまったのだ。キリキリと胸が痛んでいた。

 ぼんやりとしていたアンナは、ハッと我に返ったようで、ふるふると頭を振った。


「いえ……その、あの……このような事、初めてだったものですから……嫌では……ないです」


 彼女は俯いて涙をぬぐい、震える指で唇をなぞった。耳まで真っ赤になっていた。そしてちらりと、バルトロメオを見上げる。

 心臓が、バクンと一際大きく鳴った。


――ああ、完全に落ちたな……


 彼女が、ではない。バルトロメオ自身がという意味だ。

 籠絡されたのは、自分の方だった。

 しかし屈辱など感じない。嫌われた訳ではないことに安堵し、むしろ心が満たされる思いだった。

 ぐっと彼女を抱きしめた。髪を撫でその香りを思い切り胸に吸い込む。

 そして、バルトロメオはアンナの手を握り、少し強引に歩き出す。


「向こうに公園がある」


 ゆっくり彼女と話がしたかった。彼女も同じ気持なのだと信じたい。

 この手を振り払いもせずに、消極的ながらもついて来るのだから、きっとそうに違いないと、バルトロメオは思い込む事にした。


 二人は公園の植栽の影にあるベンチに腰掛ける。

 アンナは先程から一言も喋っていない。頬を染めて俯くばかりだった。

 何から話そうかと、バルトロメオは考えこむ。こっそりお忍びで家を出てきたであろう彼女に、家名や家族のことを聞くのはまずいだろう。それに、反対に貴方の家は? なんて聞かれては、それこそ困ってしまう。

 いざとなると、何を話せばいいのか思いつかない。こんなことは初めてだった。バクバクと激しく心臓が鳴り続けていた。

 何となく見上げると、晴れ渡った美しい空が広がっていた。


「あー、いい天気だな……」

 ――くそっ! なんて間抜けな!


 気の利いた言葉がまったく出てこなくて、バルトロメオは頭を抱えたくなったが、ちらりと横を見るとアンナも空を見上げていた。


「ええ、そうね……きれいな空、風も気持ちいいし……」


 目が合うと、彼女はサッと俯いてしまった。髪がさらりと落ちて、白いうなじが覗く。またもやドキリと心臓がなり、バルトロメオの頭は真っ白になる。


「き、君の、す、好きな食べ物は?」

 ――あああぁぁぁ! ガキの質問かぁ!?


 両手でガリガリと頭を掻きむしっていた。


「えっと……果物は何でも好き。その中でも葡萄は特に……」

「…………」


 アンナが真っ赤な顔で見上げてきた。真剣そのものといった顔だ。一生懸命に質問に応えようとしてくれているらしい。

 バルトロメオは、プッと笑った。もう何だっていいじゃないかと思った。今の自分はしがない国境警備兵であればいいのだ。

 笑う彼を見て、アンナは少し首をかしげている。


「俺も果物は好きだな。特に羊が好きだ」

「まあ!」


 それは果物ではないわ、とアンナが笑った。

 バルトロメオも笑った。

 木漏れ日が二人に優しく降り注ぐ。風がそよぐと、光は舞うようにキラキラと輝く。今日出会ったばかりの、初々しい恋人たちを祝福しているようだった。

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