第2話 甘い革命

 何が誤解だというのだろう。解くべき誤解など、一つもないと思う。

 彼がイヤリングを横取りしたのは紛れもない事実なのだ。何を言いたいのか理解できず、ますます困惑が深まってしまうアナスタージアだった。

 赤毛の男はにこやかに笑っている。笑うと少々子供っぽく見えた。露店での意地悪など、まるで無かったかのように微笑んでいるのが不思議でならない。

 アナスタージアは、ツンと澄まして回れ右をする。こんな失礼な男の話など聞くものかと思っていた。

 無視してさっさと歩き出すと、グイと腕を掴まれた。


「おい、止まれ」


 男の命令口調に、アナスタージアの胸にチリッと怒りが燃える。

 掴まれた腕から伝わる体温に動揺してしまうことにも、怒りを感じていた。この男のすることは、どれもこれもアナスタージアの心を波立たせてしまう。


「あ、あなたは一体……!」

「しっ……」


 大声を上げる彼女の唇に、男が人差し指を当てた。

 驚いて、ゴクリと続きの言葉を飲み込んでしまった。慌てて身を引いたが、腕は掴まれたままで、まるで抱き寄せられているようだった。とても離れることは出来そうにない。

 顔が赤くなる。今まで、男性にこんなに近寄られたことなど無かった。その上、唇に触れられるなんて。一体、何をする気なのだろうと、鼓動が激しくなる。

 男の片手がポケットから何かを取り出した。先ほどの瑠璃のイヤリングが彼女の目の前で揺れた。


「俺が、付けてあげたかったんだ」


 そう言って、不器用な手つきでアナスタージアの髪を耳に掛ける。

 ゾクリと震えた。首筋から全身に痺れが走った。息が苦しくなる程だ。逃げようと思うのに、体を動かすことができない。


――これを買ったのは、私に贈る為だったとでも? なんてバカバカしい!


 しかし、アナスタージアの頬はますます熱を帯びてゆく。しかも、こんなろくでもないことで、胸がときめいているのだ。それが、とても信じられなかった。会ったばかりの、何処の誰とも知れない男だというのに。

 彼は難しいなあと呟き、慣れない手つきで何度も失敗しながら、イヤリングをつける。その指が首筋に触れる度に、アナスタージアはビクンと震えた。どうして拒まないのと自問しながら、俯き立ち尽くすばかりだった。


「本当によく似合う……」


 やっとのことでイヤリングを着け終わると、男は満足そうに言った。

 その低い声が耳に心地よく聞こえることが、アナスタージアを不安にさせる。今まで感じたことのない衝動が、身の内に湧いてくるようで恐ろしくなるのだ。


「君の為にあるような美しい瑠璃だ。でも、君のほうがもっと美しい」


 アナスタージアはまたキッと男を睨み上げた。

 抜け抜けとなんてことを言うのか。初対面で、こんな歯の浮くような台詞をさらりと言える男など信用できはしない。

 ふらふらと後ずさっていた。

 無礼だと腹が立つ。おだてれば懐柔できると思われているのかと、これもまた腹が立つ。

 しかし、心のどこかで、彼に褒められたことを嬉しく思っていることにも気づいていた。自分はどうしてしまったのだろう。アナスタージアは早鐘を打つ胸を、両手で押さえる。男から目が離せなくなっていた。


 彼はもう一度ポケットに手を差し込み、ネックレスを取り出した。イヤリングとお揃いの瑠璃のネックレスだ。これも先ほどの店にあったものだ。

 男も少し上気しながら、ゆっくりとネックレスをアナスタージアの首に巻いた。首の後ろに彼が腕を回すと、まるで抱きしめられているような形になり、アナスタージアは指先さえも動かせず、ただ彼を見上げていた。

 男もじっと彼女を見つめる。


「……名前を、知りたい。君を見つけてから、ずっと見ていた」


 男の掠れた声が熱っぽくて、アナスタージアの鼓動を更に激しくさせた。


「ア……アナ……」

「アナか」

「ア、アンナ・マリーよ」


 うわ言のように呟いてしまってから、本当の名を名乗ってはいけないと、とっさに言い換えた。偽名さえも名乗る必要は無かったというのに、まるで魔法にかかったように唇から零れ落ちていた。

 キザな贈り物をして、ずっと見ていたと彼は言う。

 たったそれだけのことで、彼にすっかり心の大部分を占領されてしまっていた。

 アナスタージアは、赤い髪を初めて美しいと思った。


「アンナ・マリー……。俺は、バートだ」


 男も名乗った。少し潤んだ瞳が、じっと見つめてくる。唇には微笑みを乗せて。

 ネックレスをつけ終えると、アナスタージアの両肩に手を置き、彼はゆっくりと顔を近づけてきた。

 汗と鉄の匂いが漂ってきた。戦場の匂いに似ている。しかしアナスタージアは不快だとは思わなかった。自分のめいに従って、祖国を懸命に守ろうとする者たちと同じ匂いだったから。

 バートはエレバスの国境警備兵なのだろう。先ほど町中で何度も見た制服だ。彼も自国の為に戦っているのだ。

 アナスタージアの胸が切なく軋んだ。


「キスするぞ……嫌なら俺を殴れ」

――ああ……なんてこと。


 クラクラと眩暈がした。

 人を殴ったことなんて一度もないのにできっこないと、心の中で呟き、本当の理由をごまかした。そして目を瞑る。

 柔らかい感触に唇を包まれて、これは革命だとアナスタージアは思った。己を根底から変えてしまうような、激しくそして甘い革命だった。


 自分の背負うものの重さを、既に持て余しているというのに、この切なく甘美な思いが加わってしまったら、どうやって己を保てばよいというのか。責務から逃げ出して、誘惑に身を任せたくなるのを、どうやって律すればいいというのか。

 きっと今頃、皆が心配して探していることだろう。無責任で身勝手な行動をしてしまったと分かっているのに、彼を突き放すこともできない。

 気が付けば、アナスタージアの頬を涙が一筋伝っていった。







 アナスタージアはリンザール王国の王女だった。

 彼女はこの日、御忍びで国境を越え、エレバス教皇領を訪れていた。丁度収穫祭が行われることもあって、気鬱な日々の慰めにと、信頼できる臣下に勧められてのことだった。友好国であるエレバスなら危険も少なく、ある密約を結ぶ目的もあってのことだった。

 今、彼女の母国リンザールは、かつてない国難を迎えていた。このように羽を伸ばせるのは、収穫祭の間だけだろう。国に戻れば、いや応なしに苦しい現実が付きつけられることになる。敵国エルシオンとの決戦の日は近いのだ。

 しばしの休息、少しばかりの冒険。その為に訪れたエレバスで、アナスタージアは赤毛の兵士バートに出会ってしまった。彼に、心の奥まで届く、強烈な楔を打ち込まれてしまったのだった。



 エレバス教皇領の東にリンザール王国、西にエルシオン王国がある。両国は南北に続く国境線を挟んで隣り合っているが、南方の一部をエレバス教皇領によって隔てられていた。二つの大国は、交戦と休戦を繰り返し、永く敵国同士として睨みあいを続ける関係にあった。

 両国に挟まれた小さな教皇領は、この一帯の国々で広く信仰されている宗教の主神の生誕地とされ、聖地として崇められている。

 リンザールとエルシオンの永い争いの発端は、まだ教皇領として確立されていなかった当時の聖地をどちらの主権下に置くか、というものだった。しかし、決着のつかぬまま年月は流れ、この地は教皇領として独立することになった。

 そして両国の争いはすでに起源を離れ、泥沼の報復合戦となっている。終わりの見えない戦いが続いていた。


 この年の初めの戦禍は甚大だった。アナスタージアは、父リンザール王と兄王太子の亡きあと、王国をそのか細い背に負うことになったのだ。







「泣く程……嫌だったのか……」


 バートの驚き狼狽える声に、アナスタージアはハッと我に返った。

 拒みもせずに口づけを受けたのに、涙を流す彼女を見て、彼は動揺してしまったようだ。探るような不安げな目で見つめてくる。


「いえ……その、あの……このような事、初めてだったものですから……」


 俯いて答えた。涙は彼のせいでは無かった。ただ自分がどうなってしまうのか分からなくて怖かったのだ。

 先ほどまでの勢いはなく、耳まで熱くしてアナスタージアは答える。


「嫌では……ないです」


 じんじんと疼く唇にそっと指を当てた。激しい鼓動に、全身が震えるようだった。

 消え入りそうな声でつぶやくと、バートにぐっと抱きしめられていた。

 力強い腕に包まれると、アナスタージアはもう何も考えられなくなってしまうのだった。

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