第3話 御忍びの一行

「あの……。アナスタージア様……どこか具合がお悪いのでしょうか? それとも、先程の事をお気になされて……」


 侍女のヨアンナが心配げに訊ねた。彼女は、主であるアナスタージアから特に信頼されている侍女で、主の世話を一手に引き受けている。

 彼女は、普段は凛としている主のこれまでに見たことのない様子に、とても心配していた。

 一人きりの冒険から戻ってきたアナスタージアは、少し赤らんだ顔でぼうっと窓の外を眺めてばかりいるのだ。


「え? べ……別に何でもないわ。本当よ」


 妙にそわそわして否定するので、ヨアンナは首をひねった。そして隣のマルセル・リヒター少将に、この状況を一体どうしてくれるのですか、というように少々きつい視線を送った。

 背が高くやせ形の少将はまだ年若い。しかしその鋭いまなざしは、歴戦の猛者に退けをとらぬものがある。堂々とした佇まいは、幾多の戦をくぐり抜けて来たことで身に付けたものだった。だが今は、その表情に少々後ろめたさを滲ませている。

 彼はコホンと咳払いを一つした。


「アナスタージア様、臣下の身でありながら、先ほどは無礼な物言いを致しまして、誠に申し訳ありませんでした。お怒りであるのなら、いかようにも罰して下さい。ただ、私どもは姫の御身を心よりご心配申し上げているのです。帰国するまでは、どうぞ私に警護を続けさせて下さい」


 深々と頭を下げるマルセルに、アナスタージアは驚いて首を振る。


「まあ、マルセル……怒るだなんて。私がいけないことをしたのです。貴方を罰するだなんて……。ごめんなさい、マルセル、ヨアンナ」



 彼らは、エレバスの地方貴族に扮し、都の祭りの見物にきたお嬢様とその従者たちといった体をとっていた。そして、教皇領を囲む城壁、その東の城門近くのホテルに宿泊しているのだ。

 そして昼頃、アナスタージアは彼らの目を盗み、一人でこっそり町の散策にでかけたのだった。

 それは、ちょっとした悪戯心のようなもので、ほんの少し歩いてからすぐに戻るつもりだったのだ。だが、思いがけずバートと出会ってしまい、早く帰らなければと思いつつも、夕刻になってようやく宿泊先に戻ってきたのだった。

 彼女が行方不明であった数時間、リンザールの御忍び一行が血の気の引く思いで、捜索をしていただろうことは想像に容易い。だから迷惑をかけてしまったと後悔こそすれ、彼らに怒りなど感じていないのだ。

 ヨアンナに聞けば、マルセルは半ば恐慌状態だったというから、なおさら申し訳なく思っていた。


 マルセルの任務はアナスタージアの警護だ。だから、彼女の身に何かあっては一大事と、血眼になって町中を探しまわっていたのだ。

 御忍びでの滞在だったから、エレバス側に捜索を依頼するわけにはいかなかった。そんなことをすれば、彼女の正体が知れてしまう。かと言って、数名の部下とともに、祭りで賑わう中から彼女を見つけ出すのは至難の業だった。

 結局、日が暮れるまで散々走り回り、もうこれは死を覚悟して母国から援軍を呼ぶしかないと腹をくくったのだった。そして、顔面を蒼白にしてホテルに戻って来てみれば、侍女のヨアンナに説教をされているアナスタージアがいたのだ。

 しょぼくれる彼女を見た途端、マルセルの全身からドッと力が抜けたものだった。


 ヨアンナは捜索隊からの連絡を受けるために、ずっとホテルで待機していた。そして芳しくない状況にじっとしていられなくなり、夕刻になると建物の前で右往左往しはじめたのだった。アナスタージアが帰ってくることを祈りながら、目の前の広場に彼女の姿を求めていた。

 そうこうするうちに、細い路地から主がひょっこり現れたのだ。

 あっと叫んで大きく手を振れば、アナスタージアは隣の薄茶色の制服を着たエレバスの兵士に何事か呟き、さっと走り寄ってきたのだ。

 安心して思わず涙がこぼれてしまうヨアンナだった。ご無事で良かった、いえ、お怪我は本当にないのですよね、何処にいらしたのですか、と矢継ぎ早に声をかけてしまう程興奮してしまった。

 ニッコリ微笑む主の無事を確かめてから、ようやく彼女の横にいた兵士の事が気になり始めた。

 あの方は誰かと問うと、道に迷った自分を送ってくれたのだとアナスタージアは言う。ヨアンナがもう一度路地を見た時には、兵士はもう立ち去っていた。

 そして部屋に戻ってから、ヨアンナは彼女にこんこんと説教したのだった。


 そこに帰ってきたマルセルが加わった。子細を聞いた彼は、アナスタージアを思わず睨みつけずにはいられなかった。

 安堵に心が緩んだのは一瞬で、むくむくと怒りが湧いてきてしまったのだ。それもこれも、アナスタージアを心配するが故なのだったが。


「その兵士が単なる親切心だけで、道を教えてくれたとは限らないのです。もしも、エルシオンの間者であったら、どうするのですか! そうでなくても、下心あってのことと、何故お疑いにならないのです?! どこぞに連れ込まれていたかもしれないというのに。男の頭の中など、半分以上は下心でできているようなものなのですよ!」

「ごめんなさい」


「姫から目を離した私の落ち度は重々承知し、猛省してもおります。しかし! 羽目を外し過ぎです! 御身を大切に、わきまえていただきとうございます。ご無事だったから良かったものの、一歩間違えば大変な事になっていたのだと、もちろん解っておいででしょうね!」

「……ごめんなさい」


「今や姫はリンザールそのものなのです。その身を危険に晒すということは、祖国をも苦境においやることになるのです! それも、もちろん解っておいででしょうね!!」

「……ご……ごめ……なさい……」


 珍しく、居丈高に怒りをあらわにするマルセルを前に、アナスタージアは一層縮こまる。握りしめた両手は神に祈るようで、その顔は今にも泣き出しそうだった。眉尻を下げ、なんとも情けなく小さな子どものようだ。


 一切の言い訳をせず謝罪するアナスタージアを見ていると、だんだんとヨアンナは彼女がかわいそうになってしまう。

 自分もさっきまで同じことをくどくどと、言って聞かせていた訳だが、マルセルのあまりの辛辣さに、つい王女に同情してしまうのだ。


「あ、あの、リヒター少将。もう、この辺りで……」


 ヨアンナに声を挟まれ、マルセルは我に戻った。うるうると涙を溜めて、こわごわと自分を見上げているアナスタージアを見ると、小動物を虐待してしまったような罪悪感を感じてしまう。彼女の身を案じてのことだし、決して間違ったことは言っていないはずなのだが。


 この後、アナスタージアはぼんやりと溜息をつきながら、窓の外を眺めることとなったのだった。

 ずいぶんときつく叱ってしまったせいかと、マルセルはかなり後悔していた。そして、しばらくそっとしておいた方がよいだろうと、二人は部屋を出て行ったのだった。

 マルセルは、アナスタージアを送ってきた兵士の事を、ヨアンナにたずねた。


「容姿を詳しく教えてくれ」

「はい。でも遠目でしたので、顔はよく分かりませんでした。赤毛の体格の良い男で……そうですね……少将よりも少し背が高く、肩幅も広いかもしれません」

「そうか。エレバスの国境警備兵の制服だったのだな?」

「はい。今日、嫌というほど見かけた制服と同じです。着崩した感じでして、勤務明けのまま祭りに来たといった様子でした。軍服姿が堂に入っていまたし、キビキビとした動きといい、兵士であるのは間違いないと思います」


 マルセルは、ほぉと感心する。たいした観察眼だと思った。

 普段のヨアンナはどちらかと言えばのんびり屋で、マルセルにしてみれば動きが遅いと不満を持つこともあった。だが、意外としっかり者であるのだなと、彼女を再評価するのだった。


「よく見ていたな。ヨアンナ」

「ええ、それはもう。姫様に何かあっては大変ですので、近づく殿方には常に注意をはらって、警戒しておりますから。……少将のこともですのよ?」


 彼女はにっこりと、しかし釘を刺すようにはっきりと言った。

 ドキリと、マルセルは目を丸くした。


「は? 私までお前の警戒対象なのか? 護衛なのに」

「男性の頭の半分は下心なのでしょう?」

「…………」

「冗談です」


 ふふっと笑うヨアンナに、少し眉をしかめてゴフンと咳をする。


「……まあ、とにかく、その兵士の身元は確認しておいた方がいいだろう」

「よろしくお願いします」


 ヨアンナは深々と頭を下げた。

 マルセルは彼女の言葉に少し動揺したことを悟られまいと、わざと胸を張り大股で廊下を歩いて行く。

 それにしても、例の男の身元を探ろうにも「バート」というありきたりな名前だけでは、調査に苦労しそうだとため息が出た。同じ名の国境警備兵が、一体何人いるだろうかと思うと気が重くなる。ファミリーネームが分かっていれば調べようもあるというのに、これでは砂浜で一粒の石を探し出すようなものではないかと思うのだ。おまけにこちらは隠密行動中でもあり、こっそりと探らねばならないのだから。

 きちんと名乗らなかった、その赤毛のバートとやらに、不信感が募るマルセルだった。


 マルセル・リヒターは半年前から、アナスタージアの警護の任に当たっている。

 アナスタージアは王女ではあったが、これまではリンザールの守護神に仕える巫女姫としての役割の方が大きかった。自軍の勝利を神に祈るのがその役目だったのだ。

 しかし、国難すなわち敵国エルシオンとの戦乱が長引く中、王と王太子が相次いで命を落とし、幼い弟が王に立てられた今、アナスタージアはただ祈りを捧げるだけの巫女ではいられなくなった。

 幼王は名ばかりの王だから、実質アナスタージアが王のようなものであった。

 そのアナスタージアを守ることが、マルセルの仕事だった。

 あの日、初めて王女の前に出た時、彼は雷に打たれたかと思った。彼女の微笑みに胸を射抜かれてしまったのだ。この時、自分の一生をかけて、全身全霊をかけて、彼女を守るのだと心に誓ったのだった。

 そして、決して口にしてはいけない、王女への密かな思いも抱いてしまっていた。


 二人が部屋を退出した後、アナスタージアもまた半年前の事を思い出していた。長かった髪をバッサリと肩まで切ったあの日のことを。

 たった半年なのに、まるで遠い昔のことのように思える。そして、神に祈りを捧げる日々を送っていた自分が、なんの運命の巡りあわせか今エレバスにいることが、不思議でならなかった。







「本当によろしいのですか? アナスタージア様……」


 侍女のヨアンナは、流れるように艷やかな黒髪を一房握りしめ、おずおずと尋ねる。その右手にはハサミを持っていた。


「構いません」


 アナスタージアは、一瞬の迷いも無くきっぱりと答えた。

 鏡の前に置かれた椅子に腰掛けていた。少し青ざめてはいたが、揺るぎない決意を込めて鏡の中の自分を見つめるのだった。

 迷いに瞳を揺らしているのは、ヨアンナの方だった。眉を歪め、今にも泣き出しそうな顔で王女の髪を何度も撫でていた。そして大きく深呼吸すると、ハサミを握る手に力を込めた。

 刃が噛み合わされ、バサリと髪が床に落ちた。

 国を背負い戦に挑む、これはアナスタージアなりの覚悟の証だった。

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