この恋は罪過 ~瑠璃の戦姫と銀朱の闘王~

外宮あくと

 

第1章 出会い

第1話 アナスタージアの収穫祭

 それは、鮮やかな瑠璃色だった。

 周囲の色が褪せて見える程に、アナスタージアを惹きつける美しくつややかな青だった。

 彼女は息を止めて、手にしたイヤリングを眺める。ときめく胸を鎮めようと大きく息を吐き、それから店主に声を掛けた。


「これを……」


 ください、と言いかけたところで、イヤリングが空中に浮かび上がった。

 いつのまにか隣に立っていた男が、彼女の手からつまみ上げていたのだ。


「倍額払おう。俺に売ってくれ」


 何処の誰ともしれない男は、さらりと言った。

 一体何が起こったのかと、アナスタージアは目を瞬き、男を見上げるのだった。








 爽やかな秋晴れのもと、年に一度の収穫祭が行われていた。

 大聖堂前広場に続く大通りには、様々な露店が軒を並べ、多くの人々が楽しげに行き来している。採れたての野菜や果物を売る店、土産物屋、軽食店、広場では歌に踊りにと旅芸人たちがその芸を披露していた。

 エレバス教皇領の収穫祭は、神へ豊穣の祈りと感謝を捧げる祭だ。三日に渡って行われるこの祭りの最大の見物は、最終日の仮装行列である。町中の誰もが思い思いの仮面をつけて、仮装を楽しむのだ。

 一年間この日の為にと、趣向を凝らした衣装と仮面作りに熱中する者も少なくないし、外国からの見物客もくる程だった。


 アナスタージアは、物珍し気にきょろきょろと所せましと並ぶ店を眺めながら、賑やかな通りを歩いていた。

 仮装用の仮面を専門に売る店をのぞき込んだ時は、その華やかさと妖しい雰囲気に呑まれて、別世界に連れ込まれたような気になった。

 ドキドキと胸は高揚し、素晴らしい冒険だと思った。一人歩きをしたのも、こんな人込みを歩くのも、祭りを見物することも、アナスタージアには初めてのことだったのだ。

 黒い髪を肩の上で切り揃え、生成りのシンプルなワンピースを着て、彼女は町に出た。なるべく町に馴染む装いを選んだのだが、やはり少し浮いている。決して華美では無いのだが、上品な身のこなしのせいもあって、辺りを行き交う他の女たちとは、確実に住む世界が違うという雰囲気を放っていた。

 それ故に、周囲の視線を集めているのだが、彼女自身はまったく気づいていないようで、祭りの賑わいを楽しむことに夢中になっていた。


「そこの可愛いお嬢さん。ほら、どうだい? あんたにきっと似合うよ」


 麻の天幕の下で、小物やアクセサリーを並べた台の向こうから、男が声をかけてきた。

 アナスタージアが立ち止まり首をかしげると、そうあんたに言ってんだよと、店主は手招きし、人懐こく笑いかけてきた。その手には鮮やかな瑠璃色の石のついたイヤリングが揺れている。

 アナスタージアは、思わず目を輝かせ近づいていった。美しい青に惹かれていた。


「その白い肌には、この鮮やかな青がきっと映えるよ。お嬢さん美人だから、おじさんおまけしちゃおっかなぁ。どうだい?」


 店主はニコニコとゴマをするように笑う。

 強引に手渡されてしまい、困ったなと肩をすくめる。しかし、目の覚めるような瑠璃の輝きに、すっかり魅了されしまっていたアナスタージアは、思い切って購入を決めた。

 このイヤリングを付けているのをヨアンナが見たら、きっととても素敵だと褒めてくれるだろうと、唇をほころばせるのだった。


 しかし、突然すぐ隣から聞こえた男の声によって、アナスタージアの空想は破られた。倍額払うから自分に売ってくれ、と言う声によって。

 いつの間にか、彼女の隣に立っていた薄茶色の軍服の男が、さっとイヤリングを持っていってしまったのだ。

 きょとんと見上げると、それは見覚えのない大柄な男だった。

 燃えるような赤い髪が目に飛び込んできた。

 一瞬、アナスタージアは身震いした。ズキンと何かが背骨を走り抜けていったのだ。


 男の顏には、真新しい傷があった。左眉の上に斜めに朱線が走っている。戦場で受けた傷なのだろう。しかし、その傷があることで、端正な顔がより男らしく精悍に見えた。勇猛な戦士として戦場を駆ける姿が、アナスタージアの脳裏にありありと浮かび上がってくるのだ。

 無造作に撫で付けられた髪、軍服を着崩し無精ひげが薄く浮いているのは、勤務明けだからだろうか。

 アナスタージアにとって、見目麗しい男は珍しく無かったが、こんな野性味のある男を見たのは初めてだった。

 アナスタージアは男に見とれてしまっていた。

 

「これでどうだ?」


 彼は唇の端を軽く吊り上げて、店主に笑いかけて金をつきだした。

 アナスタージアに売りつけようとしていたはずの店主は、あっという間に態度を変え、喜んで金を受け取る。

 彼らは何をしているのかと、アナスタージアは呆然と見つめるばかりだった。

 赤毛の男がイヤリングをポケットにしまった所で、ようやく、あっと声をあげた。


「ちょっと待って下さい! それは私が買うのです。おかしなことはしないで下さい!」


 慌てて抗議すると、男はちらりとだけ彼女を見て、すぐにまた他のアクセサリーを物色し始め、イヤリングと同じ瑠璃のネックレスに手を伸ばした。


「……き、聞いているのですか?」

「聞いてるよ」

「返して下さい」

「返す? ……君はまだ金を払っていなかった。従ってこれは、金を払った俺のものだ。返せと言われる筋合いはないと思うが? そうだろう、おやじ」


 男が店主に同意を求めると、彼は揉み手をしながらヘラヘラと笑うのだった。


「まあ、金さえ払っていただけたらいいんで。すまないねぇ、お嬢さん」

「…………」


 アナスタージアは、信じられないとばかりに目を剥いた。ぽかんと口も開いてしまっている。このような無礼な振る舞いを受けたことなど、今まで一度も無かった。怒りよりも、驚きの方が強かった。


「……そ、そう、ですか」


 アナスタージアは内心の衝撃を隠しつつ、男に背を向ける。

 一刻も早く立ち去りたかった。

 とんでもない侮辱を受けたことに、怒りを感じる前に立ち去らないと、このままではどんな酷い言葉を投げつけてしまうか、自分でも解らない。ほんの少しの間とはいえ、男に見惚れてしまった自分にも腹が立っていた。

 アナスタージアはムッと口をへの字に曲げて、走るようにして店を後にした。


 どんどんと足早に人混みの中を進んでゆく。すれ違う若者が時折声をかけてきたが、アナスタージアはツンとしてそれに一向に取り合わない。しつこく呼びかけられても、無視して歩いていった。

 やたらと声をかけられることに、アナスタージアは辟易していたが、これもこの収穫祭の、もう一つの習わしのようなものだということは知っていた。

 祭りで出会った男女は恋に落ちる、結婚を誓い合えば永遠に結ばれる、という通俗的な言い伝えがあり、パートナーのいない者はここぞとばかりに、出会いを求めて積極的になっているのだ。


 視界を広げてみれば、そこかしこに期待に胸を膨らませる若者の姿がある。クスクスと笑い合う娘たちの視線の先には、同じく彼女らをチラチラと見ている青年達がいるのだ。しばらくすれば、二つのグループは一つに合流して、楽しげに会話をかわすことだろう。

 すでに恋人同士の者は、辺りも憚らず二人の世界に浸って抱き合っていたりする。求婚を祭りの日に合わせる者が多い為だ。結婚を誓い合い、熱い抱擁を交わす彼らの前を通り過ぎる年配の者は、少し眉をしかめるものの、自らにも憶えがあるのか肩をすくめて苦笑していた。

 この日ばかりは、遠く出稼ぎに行っていた者も故郷へ帰ってくるし、兵役中の者も未婚者であれば、特別に休暇を得ることさえできるのだ。

 恋人たちの祭りと呼ばれることもあるこの収穫祭は、エレバスの人々にとって特別なものだった。


 アナスタージアは広場を通りぬけ、たまたま見つけた路地に入る。曲がりくねり複雑に枝分かれするこの道が、どこに向かっているのかなんて分からなかったが、とにかく頭が冷えるまで歩いていこうと思っていた。

 すると、曲がり角から突然何かが飛び出してきた。

 どんとぶつかり、アナスタージアは転がされてしまった。


「きゃ……」

「気ィつけろい!」


 ぶつかってきたのは少年だった。自分で飛び出したくせに、理不尽にも怒鳴りつけると、背を向けてさっさと行ってしまおうとする。

 アナスタージアは座り込んだまま、目をぱちくりとして少年を見上げていた。


「おい、待て」


 背後から、低い男の声がした。

 少年の背がビクリと震えた瞬間、太い腕が伸びてきた。ぐいと襟首を掴まれ、少年はあっけなく捕らえられてしまう。


「今、盗んだ物を返していけ」

「な、なにも盗ってねえ!」


 じたばたと暴れるが、少年を捕らえた男との体格差が大き過ぎて、とても逃げられはしない。

 アナスタージアは、ずりずりと道の脇に移動して男を見上げ、驚いた。

 赤毛の軍人。さっきのイヤリング横取り男が、少年を捕らえていたのだ。


「もう一度言うぞ。返していけ。痛い目をみたくなければな」

「…………っ、くそ!」


 少年は焦りに頬を引きつらせながら、懐に手を入れると、小さな袋を地面に投げつけた。アナスタージアの小銭袋だった。


「まあ、それは私の……あなたどうして持っていたの?」


 なぜ少年の懐から出て来るのかと、本気で驚いていた。

 赤毛の男は呆れたように小声で、これはまたとんだお嬢さんだと呟き、掴んでいた襟首を離した。途端にスリの現行犯は走り去ってしまう。

 男は小銭袋を拾い上げ、腰を抜かしているアナスタージアに手を差し伸べた。


「立てるかい?」

「……ええ」


 男の手は取らず、アナスタージアは一人で立ち上がり、袋を受け取った。そして、もしかして自分はこの男に助けられたのか、と思うと胸がざわついてたまらなかった。

 あの露店では無礼な振る舞いをしておいて、なぜ小銭袋を取り戻してくれたのか分からない。第一、なぜここにいるのか。後をつけてきたというのだろうか。

 アナスタージアはギッと男を睨みつけけた。

 あの瑠璃のイヤリングよりも、もっと豪華な装飾品はいくつも持っている。しかし、初めて一人で買い物をする、というときめきを台無しにされた恨みは大きいのだ。金を取り戻してくれたからといって、治まるものでもない。

 それなのに、あっという間の再会に何故か胸が弾んでいることが、更に気持ちを落ち着かなくさせている。


「な、何のご用でしょうか! こっそり後をつけて来るなんて卑劣です!」


 礼も言わずに突っかかるアナスタージアに、男は肩をすくめた。すまんすまんと言いながら笑っているのだ。

 助けてやったんだぞと、恩着せがましいことを言うかと思ったのに、ニコニコと笑っているものだから、アナスタージアはどうしていいか困惑してしまう。


「さっきの店でのこと、君は少し誤解しているようだから、それを解きたいと思ってね」


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