第7話 砦奪還
「まだか……」
マルセル・リヒターがつぶやいた。その目はエルシオンに奪われた砦を映していた。
山越えの細い街道で激しい戦闘が行われている頃、アナスタージア達はエルシオンとの国境付近に陣を構えていた。事前に、都から山岳部を大きく北に回り込んで、密かに進軍していたのだ。
現在は奪われた砦近くの林の中に潜んでいた。
ニーデルマイヤー隊を追って、砦に駐留していたエルシオン軍がほぼ出払い、将である闘王も出陣したことは既に確認している。
そして、エルシオン軍が動き始めると同時に、リンザールの本隊も行動を開始していた。砦からこの林に繋がる隠し通路を使って、密かに小隊を潜入させたのだ。その潜入隊からの合図があれば、一斉に打って出る算段だった。
この隠し通路の存在を、エルシオン側がまだ掴んでいなければ、この計画は必ず成功するだろうと、マルセルは確信していた。
元々、危急に際して貴人を逃したり、密使を放つための通路なのだ。その入り口も出口も簡単に見つけられるものではない。
小隊が通路に潜入してから、もうすぐ一時間が経つ。合図の狼煙が上がるとすれば、そろそろだ。
マルセルは少し焦れていた。
街道での戦況はまだ伝えられていない。できるだけ長くニーデルマイヤーらが引き止めてくれればよいのだが、と厳しい顔で前方を睨み続けていた。
いずれエルシオン軍は引き返してくるはずなのだ。街道を土砂で封鎖してしまえば、騎馬での進軍などできなくなるのだから。それまでに砦を奪還しなくてはならない。一分一秒がとてつもなく長く感じた。
なかなか、吉報を目にすることができないでいると、よもや通路を塞がれてしまったかと、ギリリと歯噛みする。だが、潜入隊が戻ってくることもない。無事に砦に侵入を果たしたと考えられるのだが、返り討ちされた可能性も無いとも限らない。
厳しい顔つきで、砦を見つめ続けていた。
「リヒター少将!!」
一人の兵士が声を上げた。
同時に、マルセルの唇がほころんだ。前方に細く白い煙が空に向かって昇り始めたのだ。
「よし! 進軍開始! これより砦を奪還する!」
「応!!」
砦では、潜入隊たちが勝利の凱歌を上げ、洋々と狼煙を上げていた。
エルシオンの居残り組は、彼らの侵入を砂粒程にも予期していなかった為、奇襲は見事に成功を収めたのだ。突然の敵の乱入に為す術もなく、次々とエルシオン兵は倒されていった。そして、あっという間に指揮官と数名の兵士を捕虜として捕らえたのだ。
当初の予定では潜入に成功すれば、何を置いても城門を開き狼煙を上げ、友軍を砦に招き入れ、総力あげて敵を打ち倒すはずだった。しかし、予想以上に砦に残された兵は少なく、マルセル達の到着を待つまでもなく勝敗は決していたのだった。
城壁に立つ、潜入隊の隊長は誇らしげに遠く林の方を眺める。
鮮やかな瑠璃色の旗印が、目にも眩しい。頼もしい友軍が、勢い良く進んでくる。
――あの騎馬軍の中に、我らの守護天使アナスタージア様がいらっしゃる。あのお方は、戦の神に愛された、瑠璃の戦姫。姫がおわすところ、必ずや勝利が訪れるのだ!
小隊長の顔は上気していた。アナスタージアへの信頼は、最早信仰で、彼の様に戦姫を盲信する兵士達はその能力を十二分に、いやそれ以上に発揮させていたのだ。
「門を開け!」
小隊長の声と共に、アナスタージアたちを迎え入れる為に門扉が開かれた。
*
砦の奪還から数時間後、伝令が街道での戦況の知らせを持ってきた。
息せき切ってやって来た彼は、アナスタージアの足元に跪き、吉報を伝える誇らしさに頬を紅潮させてした。
ニーデルマイヤーらの活躍で敵の行軍は足止めされている。いや、後退しているのだ。甚大な
第三の部隊が崖の上から矢を降らせ、更に敵軍を駆逐してゆく状況が、興奮した伝令の口から事細かに語られる。
高揚したリンザールの将兵たちの歓声が沸いた。
そして最後に、ニーデルマイヤーとその指揮下の死が伝えられた。
「ああ……」
アナスタージアは、思わず目を瞑った。
しかし歓喜する兵士たちに、暗い顔は見せられない。形ばかりに微笑んで、ニーデルマイヤーたちの死を褒め称えた。彼らは、リンザールの英雄だと。
そして、静かにその場を離れるのだった。胸がジクジクと痛んでたまらなかった。
彼に死を命じたのは自分なのだ。いや、彼一人ではない。幾人もの名も知らぬ兵が命を落したことだろう。戦とはそのようなものであると、理解していたつもりでも、その死の報に触れると、心はかき乱された。
アナスタージアの頬に、一筋涙が流れた。
広間を離れ、小窓から外を眺める彼女の隣に、そっとマルセルが立った。
「……あれは、最善の策でした」
「死ねと命じることの、なんと辛いこと……」
「少数の味方の犠牲によって、大多数の敵を倒す。それが目的でした。そして、実際にニーデルマイヤーらを選び、戦地に送ったのは私なのです。アナスタージア様がお悩み下さいますな」
マルセルは、アナスタージアの苦悩を和らげたかったが、出てきた言葉は埒もないことだった。この程度の慰めで、主の心が晴れることはないと知っていても、言わずにはいられなかった。
彼もまた、アナスタージアに心酔していた。彼女ほど気高く、美しい女性はいないと思っていた。沈みゆこうとする祖国の為に、自らをリンザールの旗印として戦場に立つという勇気ある姿の前に、男として戦士として決して無様は晒せないと腹を据えるのだった。
何があろうとも、敵を倒し彼女を護る、その決意を再び固めるのだった。
その時、南東の方角、山へ連なる方角から、ラッパの音が聞こえてきた。マルセルは、さっとアナスタージアを窓から遠ざけ、外の様子を探る。
エルシオン軍の姿はまだ見えなかったが、その音は警戒を知らせる合図だ。砦の仲間に危険を知らせようというのだろう。
もう遅いと、マルセルは嗤う。
更にラッパの音が鳴り響き、土煙が見えて来た。
狭い街道での戦闘から、ようやく後方の部隊が引き返してきたものだろう。もうもうと舞う砂埃の中に、赤い旗印がチラチラ見えた。
「アナスタージア様、いよいよです。しばしお側を離れることお許しください。必ずあの者どもに一泡吹かせて、御身の前に戻ってまいりますから」
マルセルはアナスタージアに微笑んだ。
「私も一緒に行きます! 私はいつでも貴方がた兵士と共に戦場にいます。それが私にできる唯一のことなのですから」
「もちろんです。今正に、戦場におられるではないですか。兵士の士気を高める為にも、アナスタージア様には我らを見守って頂きたいのです。神の加護を授けて頂きたいのです」
やんわりと、ここに残れと諭される。
ニーデルマイヤーらの死にショックを受け、自分だけが安全を確保することにも、罪悪感を感じてしまうアナスタージアだったが、共に出れば味方の足を引っ張ることになることも十分理解していた。
眼前に、エルシオン軍が、銀朱の闘王がいるというのに、味方の集中を欠くような事はすべきではないのだ。
アナスタージアは小さく頷いた。
「分かりました。マルセル、どうか無事で……」
「はい!」
彼だけではない、皆に無事に戻ってきて欲しいと心から願うのだった。
砦の前に、リンザール軍が立ち並んだ。最早砦はエルシオンのものではなく、本来の所有者の元に返っていた。青いリンザールの旗が高々と掲げられている。
アナスタージアは、涙がこぼれそうになるのを堪えながら、兵士たちを見つめる。この内の幾人かには、もう二度と会えなくなるだろう予感に震えながら、彼らの背を見送るのだった。
そしてリンザール軍はエルシオン軍に向かって駆けて行ったのだった。
アナスタージアは素早く城壁に登り、見張り部屋の小窓から戦況を見守った。
赤い旗印と青い旗印が、どんどんと近づいてゆくと、彼女の心蔵は張り裂けそうなほどに鳴り響き、その身体が震えていた。
唇をかみしめた。
こんな弱い自分を、兵士たちは戦姫と崇め慕い、否やも言わずむしろ喜んで戦闘に向かってゆくことが辛くてならなかった。
彼らに報いる為にも、既に命を落とした者の為にも、心を強く持たなければならない。必ずエルシオンの闘王を倒し、父と兄の仇を討たなければならない。アナスタージアは、そう心に誓うのだった。
闘王が手強い敵であることは理解している。父王が十数年をかけてようやく落したエルシオンの二つの枝城は、彼が王となってからのたった三年の間に奪い返されている。そして一度はこの砦も奪われた。今や、リンザールを滅ぼす勢いなのだ。
戦の神の国にとって、これは大いなる屈辱だった。リンザールの勝利は目前と思われていたのが、ひっくり返されてしまったのだから。
闘王はそれ程に強いのだ。エルシオンの王が代わっただけで、こうも戦況が逆転してしまった。
ならば、とアナスタージアは思う。リンザールの王も代わったのだ。そして自分が旗印となって立つことで、味方の士気はすこぶる上がったではないか。もう一度、流れを変えること不可能ではないはずだ。
アナスタージアの視線の先で、青い軍勢と赤い軍勢が激突した。
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