第2章 激突
第6話 山越えの道
エレバスの収穫祭が行われる二ヶ月前のこと。
夏の暑い盛りに、リンザールとエルシオンは衝突した。アナスタージアが戦姫を名乗ってから、初の交戦だった。
国境近くのリンザールの砦を手中に収めた後、しばし休息と補給を行っていたエルシオン軍が、いよいよリンザールの都に向けて侵攻の動きを始めたのだ。
「アナスタージア様! 思惑通り、敵軍が出てきました!」
マルセル・リヒター少将が、興奮気味に報告する。
この数日、マルセルは二十名程の小規模な騎兵部隊を砦へ派遣し、執拗に攻撃を加えていた。しかし、それは無謀な攻撃というより児戯にも等しいものだった。頑強な石の砦に対して、弓と投擲のみの攻撃を加えていたのだ。放った火矢が運よく石壁の向こうの可燃物に当たり、ボヤを起こせたのが最大の成果で、これまでのところ警備兵一人倒せていない。
しかし、元は自国のものであった砦が、このようなことで落とせるはずもないことは承知の上だった。
敵軍が小うるさいハエを追い払おうと反撃してくれば、部隊はすぐさま蜘蛛の子を散らすように撤退した。そして、彼らが砦に引っ込めばまたちょっかいをかける、それを何度も繰り返していた。
これは、この砦を落した後、我が物顔で居座っている『銀朱の闘王』ことエルシオン王の苛立ちを誘う為のものであった。
アナスタージアの発案のもと、マルセルがたてた作戦だ。
エルシオン王は勇猛な戦士でもあり、必ず自ら戦場に立つことを信条としていると言う。剛の者特有の優越意識の強い闘王ならば、このような挑発に大人しく黙っていることなど出来ないはずだった。
それも、アナスタージアのような歳若い女が敵の将となれば、考えなしのでまかせな攻撃でしかないと、鼻で嗤って蹴散らそうとするであろうと。
そして、この誘いに乗ったか、ついにエルシオン軍が動き出した。これまでのような小隊ではなく、全軍が動き出したのだ。
逃げ出したリンザールの陽動部隊を追って、王都への最短経路である山越えの道を彼らは突き進んでいったのだ。
無様な逃げっぷりを晒す死に体の敵を叩き潰し、このまま都を襲うつもりなのだと見て取れた。
「良いでしょう。手はず通りに進めなさい」
アナスタージアの声は沈んでいた。胸甲の上から胸を押さえる。
計画通りだった。描いたシナリオ通りに敵は動いている。この段階では、何の不足もない。しかし胸の奥がちりちりと痛むのだった。
戦姫を名乗った日から、アナスタージアは廷臣たちの顔をしっかりと見つめ、名を呼ぶことを心掛けていた。その場にいない者のことも名前で呼んだ。下級士官で初見の者などは、必ず名を聞き激励した。
自分一人で、国を動かしてゆくなどできっこない。皆に心を一つにして欲しいと、手助けをしてくれと、願いを込めて一人一人の名を呼び声を掛けてきたのだ。
アナスタージアにできるのは、そのくらいことしかなかった。
しかしこれが思いのほか功を奏したようで、急速に彼女を見守る目は多く暖かくなっていったのだった。
国難を前にしながら、若い娘がひるまず真摯な姿を見せたことで、年長の廷臣たちもただ悲嘆にくれたり、傍観していることなどできなくなったのかもしれない。
親愛と忠誠を表わしてくれる諸侯が増えて来ると、自然と名を知ることもできない多くの将兵や民衆たちまで、彼女の演説に沸くようになったのだ。まるでアナスタージアを女神の如く崇める者さえも。
エルシオンとの生死をかけた戦にも、自ら進み出る者が後を絶たず、姫の為にと叫ぶのだ。
その様は、アナスタージア自身にとっても驚くべきことだった。
リンザールという国家でなく、自分の為に動こうという人々に恐れさえ抱いていた。ただの小娘であるのに、神のように祀り上げられてゆくのが恐ろしい。
自分の言葉一つで、国も金も人も命も全てが動かせてしまえるかもしれない。それがとてつもなく怖かった。
*
エルシオン軍は、リンザール軍を率いているのが、若干十九歳の姫だということに高をくくっているのだろう。陽動部隊などを追って、余裕しゃくしゃくで進軍してくることがその証明だった。
一の廷臣であるアイゼンシュタイン侯爵でさえも、当初は何も出来ぬ小娘と侮っていたのだから無理もないことだった。
連戦の勝利もエルシオンに油断を与えている。もしも彼女の兄が生きていて、同じ事をやったとしても、彼らは警戒し動くことは無かっただろう。アナスタージアらは、エルシオンの油断と侮りを利用したのだ。
進軍するエルシオン勢の前に、逃げていたはずのリンザールの小部隊が再び姿を現した。しかしすでに負けを覚悟しているのか、闘志が感じられない。エルシオン軍が、数度弓を放っただけで、簡単に蹴散らされてしまった。勝者はまた洋々と進んでゆく。
これも、全て計画通りだった。
エルシオンの王都への侵攻を食い止めることができないなら、せめてそのルートを操って自国の利につなげる。それが目的だった。
山を迂回する平坦な街道ではなく、越えてゆく道を選択させるのだ。敵軍へ度々ちょっかいを掛けては無様に逃走する、それを繰り返し予定された地点へと誘い込んでいったのだった。
山越えの街道を一気に突き進み、リンザールの都を陥落させ、数日のうちに勝利の美酒に酔おうと、彼らは奢り昂ぶっていたことだろう。その為、危険な罠に足を踏み入れたことに気づくのに時間を要してしまった。
敵地の地理に疎い彼らが、それと気づいた時には、もう抜き差しならぬ状況にあったのだ。
そこは狭い道だった。片側に鋭い崖がそそり立ち、もう片側は深い谷になっている。騎馬の大群が進むには難の多い道だった。
突然、眼前のリンザールの騎馬小隊が逃げることを止め、咆哮を上げて突進してくると、エルシオンの先鋒の将校は馬上で目を丸くした。
つい先程まで、滑稽なまでの逃げっぷりを披露していた彼らが、唸りを上げて猛進してきたことが信じられぬといった様子だ。
この小隊を率いるのは、戦士ニーデルマイヤーと選びぬかれた精鋭たちだった。過日、アナスタージアに名を呼ばれて歓喜した青年が、己の命を賭してエルシオン軍に向かっていく。
「おおおおぉぉぉ!!!」
ニーデルマイヤーは激しい砂埃を上げて敵に迫る。そして、ぼんやりと口を開いて呆けている敵の将校の首を一刀のもとに切り落とした。お芝居は終わりだった。ここから、彼らの本当の戦闘が始まるのだ。
ブンと剣を振るい血糊を掃う。次なる獲物に狙いつけると、電光の如く切り裂いた。部下達もまた見事に敵の首を落としていた。
飛び散る返り血を浴びて凄惨な笑みを浮かべ、ニーデルマイヤーたちは次々に、愕然とする敵を屠っていくのだった。
怒号と絶叫が響き渡る。
狭い街道に長い隊列を作ったエルシオン軍は、引くに引けず動揺激しく混乱していた。
そんな彼らを、獰猛なリンザールの牙が容赦なく噛みつき引き裂いてゆくのだった。
ピーーーーーーィ!
ニーデルマイヤーが口笛を吹いた。
その直後、崖の上から巨大な岩がもうもうと土を舞い上げて落ちてきた。エルシオンの大群は、岩雪崩と共に谷底へと落下していく。大音響に絶叫が混じった。
その激しい音と、土埃が少し治まってくると、ニーデルマイヤーらは馬を捨て、街道に残った岩を乗り越えて敵を追っていった。倒れた敵兵にとどめさしつつ、何が起きたかと動揺する後続兵に更に襲い掛かっていった。
ここで増援部隊が崖を滑るように降りてきて、ニーデルマイヤーらに加わった。
後ろが詰まって動きがとれぬエルシオンの兵士は、声も出せずに絶望をその顔に浮かべていた。
剣は一度人を斬ると、その後驚く程に切れ味が劣化する。だから、斬り殺すのでは無く、突き殺すのだ。もしくは鉄の棒と化した剣で殴り殺す。
胸に大穴を開けた死体や、頭蓋骨を陥没させた死体が、次々と量産されていった。首を落とされた者は運がいい。耐え難い苦痛に長く苦しむこと無く死ねるのだから。
戦場には血臭が漂い、苦悶と怨嗟の悲鳴があふれていた。
ニーデルマイヤーに、この戦場からの生還という選択はもうない。命尽きるまで敵を倒すのみだった。
いくら先制したとはいえ、数で幾倍も勝るエルシオン軍をここで全て撃破できるものではないのだ。敵とて大人しくやられているばかりではないし、味方も数を減らしてきていた。
それでも、できることなら、エルシオン王を仕留めたい、そう思っていた。このエルシオンの長い隊列のどこにいるのだと、目を凝らすのだった。
我らが姫の為にと彼は剣を振うる。切る度に死者の剣を奪って、また新たな死者を増やしてゆく。ゴウッと叫びを上げて、敵の腹を貫く。エルシオンの者どもを、これより先には一歩も進ませぬ。近寄る者は全て骸に変えてやると、ニーデルマイヤーは瞳をギラつかせていた。
その胸を熱くしているのは、アナスタージアとの最初で最後の会話だった。
「……光栄にございます。仰せのままに」
ニーデルマイヤーは深々と頭をさげた。マルセル・リヒター少将から任務を命じられ、アナスタージアからは労いの言葉があった。
美しき戦姫をひと目見た時から、彼はこの姫の為ならば命も惜しくはないと思っていた。祖国の為に、自ら戦場に立とうという彼女の誇り高い姿に感動さえしていた。自分が、彼女の志の一助になれるならば、望外の喜びだと思った。
ただ、自分に与えたこの任務の為に、彼女が苦しげな顔をしていることだけが、彼を悲しくさせた。
「あなたの家族には、充分な褒美を与えましょう。それから……他に何か望みはありますか?」
「では……今生の別れに、姫の御手に触れてもよろしいでしょうか」
マルセルが彼を睨みつけてきたが、アナスタージアは微笑んで手を差し出してくれた。ニーデルマイヤーの頬が上気する。ひざまずき、姫の御手を震える手で受けた。
「わ、我がリンザールの戦姫に、永遠の忠誠を……」
そっと、アナスタージアの甲に口づけを落とす。
これ程の悦びが他にあろうかと、ニーデルマイヤーは至福を感じた。高貴なる姫と、自分の如き一兵卒が言葉を交わし、あまつさえその麗しき肌に唇を触れさせたのだ。短い生涯であったが悔いは無い、そう思った。
そして、アナスタージアに見送られて、彼は晴れ晴れと死地へと向かったのだった。
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