第21話
竹夫がいる病院は海の近くにあり、面会室からは穏やかな夕凪の海が見えた。
「ハリーはやっぱり、うちで飼うことになったよ。聡君のお母さんは忙しいからね」
「……うん。ハリーは父ちゃんの頭をつつくのが好きだから、また髪の毛が薄くなるね」
「あ、うん。ま、そうだな」
「あの時なんかひどかったよね。せっかくまだ髪の毛が残ってるところを、攻撃して……まだ、傷が残ってる。壮絶な戦闘の記録みたいで、父ちゃんかっこいいよ。それ」
「そ、そうかな?」」
竹夫の父親は汗をハンカチで拭いてから、もうほとんど髪の毛の残っていない頭頂部の傷跡を掻いた。
「父ちゃんは、今まで生きてきて、どう?」
「どう、って何が?」
「長い間生きるってどんな感じなのかと思って……」
「お父さんだって、頭のせいで老けて見えるだけで、全然長くはないんだけど……」
「でも、ぼくより長いでしょ? どんな感じ?」
「うーん、なんか“疲れた”感じかな」
「父ちゃんは自分で死んだりしない?」
「……いや、そういうんじゃないんだ。お父さんの疲れは、“あーなんだか疲れたなあ”っていう感じなんだ。たぶん、こういう気持ちで人は死んだりしないよ。お父さんよく分かんないけど、自分で死んじゃうのは……きっと疲れることに疲れた人じゃないのかな。そういう人を黒帯だとしたら、お父さんなんか、黄色帯くらいだよ」
「黄色帯か……なんか、やばそうだけど、よく分かんないや」
「うん、お父さんも自分で言ってて、よく分かんない」
開けられた窓から、すぐ近くを通る船のエンジン音が聞こえた。小さな漁船が次々と港に帰って行くのが見えた。しばらく、ふたりはぼーっと船が通り過ぎるのを眺めていた。
「……疲れるといったんは港に帰るけど、たぶん明日の朝には魚を捕りに、また漁に出るんだよ」
「父ちゃんは漁師になりたいの?」
「いや、そうじゃなくて……いや、やっぱり漁師もいいかもしれないな。竹夫、大きくなったらお父さんと一緒に漁師になるか?」
「えー、父ちゃんと行ったら、魚捕れそうにないからイヤだよ」
「……そうか」
「でもね、ぼくは父ちゃんが魚がとれるように助けたいと思うよ。父ちゃん魚捕りたいんでしょ?」
「……もう、魚のことは忘れよう。えっと、何の話してたんだっけ。だめじゃないか、魚の話なんかするから……お父さんすぐに何の話か分かんなくなっちゃうんだから、このせいでお母さんと離婚しそうになったんだぞ」
竹夫は「離婚は、やばいよね」と言いながら、目を伏せた。
「父ちゃん、ぼくは……もうだめだよ。ぼくは聡君を助けたかった。ほんとだよ。助けたかった。みんなぼくをおかしな目で見るけど、どうしてって言うけど、助けたかっただけなんだよ。ここでは毎日みんな、看護婦さんも、お医者さんも大丈夫? 大丈夫? って聞くんだよ。……僕は大丈夫だよ。もちろん大丈夫だよ。ただ、聡君を助けたかった。ぼくは本当に、聡君を助けたかったよ。ねえ、父ちゃん僕はおかしい? おかしいからここにいるの?」
「おかしくなんかない。お父さんのまだ頑張ってる髪の毛にかけて、おかしくなんかない」
「……父ちゃんの髪の毛じゃ、頼りないよ」
「そうだよな。そうだよ、本当に頼りないよな。何言ってんだ、お父さんは」
竹夫の父親は、力なく笑って、また頭を掻いた。
「海の近くのせいかな。ここは良くごはんに魚がでるんだよ。ぼく、魚きらいだよ」
「でも、魚は体にいいんだぞ。頭だって良くなるし」
「もう、聡君と一緒の中学には行けないし、頭は良くならなくてもいいよ。でも、僕は、聡くんにまた会いたい。聡君は僕には、もう会いたくないのかな。……僕は、聡君にとって大切なものを守れなかった。きっと、僕のせいだよ。僕がこんなところにいて、聡君をほっといたからこうなったんだ」
「それは違う。それだけは違う……竹夫、外に出られるようになったら、お父さんと魚釣りに行こう。漁師じゃなくて、魚釣りならいいだろ? な、生活かかってないし、魚釣れなくても、お父さんと一緒でもいいだろ?」
竹夫が窓の外に目を向けると、水平線の上で爆発し、炎上する漁船が見えた気がした。良く見るとそれは水平線近くを疾走する船が波と太陽の光の中に飲み込まれただけだった。
波がきらきらと光っている。魚の鱗みたいに。一個一個がみんな生きてるみたいだった。
「父ちゃん……ハリーはちゃんと巣立てるかな?」
結局、聡たちの通っていた学校は閉鎖が決定され、新年度が始まると児童たちは隣の学区の小学校に分かれて編入した。その後、学校は取り壊されて、跡地は地域の中核的リハビリテーションセンターとなった。
退院までに聡の症状は一定の改善を見せ、身体機能は自力で車いすでの移動が可能なほど、記憶障害・失認・失行といった認知症的症状も日常的会話ができる程度には回復した。しかし、自殺を図る以前の生活史に関する記憶の一部が失われ、冷静で論理的だった思考は短絡的・衝動的となった。
退院の翌月には学校への復帰が検討されたが、普通学級への復帰は知的能力や衝動性による適応障害の観点から不可能だった。三学期から公立の養護学校に編入し、高校卒業までを同じ敷地内の学校で過ごした。
卒業後は、就業プログラムを経たのち、地元の飲食関連企業に就職した。そして、就職後も、かつては小学校があった場所のリハビリ施設に通所し、身体・脳高次機能の訓練に励んでいた。
その日、聡は新しく担当になった作業療法士の顔を見るなり「あんた、誰?」と質問した。
「……今日から須崎さんの担当になった竹夫です。よろしくお願いします」
「今日も人間になる勉強だろ?」
「そうだね……前よりずっと難しい勉強だね。聡君」
了
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