第20話

 聡の部屋でヘルパーと話していた看護師が、明け方に最後の巡回を終えて間もなくのことだった。別の看護師が、血のついた白衣で聡のベッドサイドに立った。

「聡君、起きなさい……起きなさいったら」

 眠剤の効いた聡の頬を看護師が何回も叩いた。痛みでやっと目覚めた聡は、看護師が自分を叩くのをぼんやりと眺めていた。

「あんた、誰?」

「寝ぼけてないで、目を覚ましなさい。それとも、この服のせい?」

 看護師が自分の看護服を指さして尋ねた。

「……さっきそこで会った看護婦さんがね、『本当は私、看護婦になりたかったの』って言ったら、ちょっと代わってくれたのよ」

「ふうん、そうなんだ……あんた、誰?」

「……冗談よ、そんなの。本当なわけないでしょ? せっかく無理して看護服を拝借してきたんだから、ちょっとはびっくりするとか、“怪し過ぎるだろ、このばか教師”みたいな目で見たりとか、そういう反応はないの?」

「……今は眠いんだ」

「聡君、どうしちゃったの? 自分の担任くらい覚えてるでしょ? ちょっと、しっかりしなさい!」

 看護服を着た磯生は、さらに苛立ちを募らせ、聡の顔や体を無闇に叩いた。

「あなた、死のうとしたんでしょ? 何やってんのよ……あなたまで死ぬの? 親子そろっていい加減にいしなさいよ。甘ったれてんじゃないわよ!」

 いくら叩かれても、聡の顔には表情らしきものが浮かんで来なかった。一枚膜が張ったようなぼんやりとしたのっぺらぼうの仮面を着けたまま、磯生の顔を焦点の定まらぬ視線で眺めていた。

「……あんた、誰?」

「こら! 聡! それしか言えないの? 嘘でしょ? あんた、どこまで私をバカにしたら気が済むの!」

 磯生は唾を飛ばしながら大声を出した後、激昂し過ぎて息が続かなくなり、何回も深呼吸した。

「あんたはね……新しい家族を作るのよ。私の家族になるの。あなたがパパ。良い? それで完璧なのよ」

 磯生が、息を切らせながら、説明する。物分かりの悪い生徒に対していつもそうであるように、苛立ちを隠そうとしなかった。

「あなたの父親の代わりに、あなたがパパになるのよ。あの人が死んで、美津子や水無子は放り出された……私たちには、新しい“パパ”が必要なの」

 いくら熱心に説明したところで、聡の顔に理解や拒絶を示す兆候はない。磯生は耐えきれなくなり、切々と訴える調子になった。

「あの人がいなくなってから、美津子ちゃんは気力を無くして、死んだようになってた。だから、私が新しい目標を与えてあげたの。教師として当然でしょ? 死んでしまったあの人の代わりに、あなたを入れて、新しい家族を作るのが私たちの夢になった。あの子たちは父親と母親に本当に飢えてるから、きっと素敵な家族になれる。今、水無子ちゃんもここに入院してるの。美津子ちゃんは死んじゃったけど、やっとみんなが一つ屋根の下に揃ったのよ。あんたが入院した後、ここが救急の日に、ガリガリに痩せた水無子ちゃんを私が発見したの。そうよ、“発見”したのよ。救急車で付き添いまでしてこの病院に送り届けてやった。あんたたち家族のためにここまでしてやってんのに、あんたたちは何なのよ? 水無子も匿ってやってんのに、ニコリともしない。母親も殺させてやったのに……恩知らずが! 全部、あんたたちのためなのよ。新しい家族のため! 分かってんの?」

 磯生は徐々に気持ちが高じて、駄々っ子のように聡のベッドを両手でバンバン叩いた。その度に、褥瘡防止用のエアベッドが形状を修復するためのプシューという間抜けな音をたて、磯生をさらに刺激した。

「あんたたちの茶番にも付き合ってやったじゃない! 美津子のうちに行った時なんか、あんたがバカみたいにカツラ被って横になってるのを見ても、笑わずに我慢したでしょ? あの子の家の埃にも耐えたわよ。結核なんて私だって聞いてなかったし……。全部あなたのために我慢したのよ? すぐ目の前まで来てたのに……まったく、何をやってんのよ!」

 磯生の体からは怒りや憎しみ、悲しみなどあらゆる負の感情が強烈に発散されており、その全体を包むようにどうしようもない疲労の臭気が漂っていた。

「……私はあんたのために実の母親も、再婚相手のクソおやじも焼き殺したのよ。私の風呂を覗くだけじゃ我慢できなくなったエロ親父と、あいつが毎晩何をしてるか気づいてても止めもしない役立たずの母親を火にくべてやったのよ。新しい家族を作るんだから、古い家族はいらないわよね? 当然だわ。あんた、聞いてんの? ねえ、なに目を閉じてんのよ。クソみたいな家族だったけど、あんたのために殺してやったのよ。それを今さら、どうなってんのよ。おまえ! 聞いてんのか!」

 磯生が聡の胸ぐらを掴んで、何度も体をベッドに打ちつけた。その度に首がガクガクと揺れ、聡の顔にはやっと表情らしい表情が浮かび、苦痛を滲ませた。

「ごめんなさい! ごめんなさい!……あんた誰?」

「むかつくわねえ、それ。やめなさいよ。いいかげん!」

 何度揺すっても、ベッドに体を打ちつけても、エアベッドに衝撃が吸収され、思うような効果を上げない。業を煮やした磯生は、力まかせに拳で聡の頬を殴りつけた。

「止めて! 痛い! 止めてください!」

 やっと手応えを得て、磯生の顔に会心の笑みが浮かんだ。

「もちろんよ。気の済むまで殴ったら、止めてあげるわよ。死にたいんでしょ? これが止んだら、あなた死ぬのよ。そんなんで、生きててもしょうがないでしょ? あなた自分の頭が悪くなったから死のうとしたんでしょ? じゃあこんな状態で生きててもしょうがないわよね? 自分で始末をつけられないなら、私がつけてあげるわよ! あんたの父親も自分で決められなかったから、どうするべきかを教えてあげたのよ! あんたみたいなクズはもう死になさいって。生きてる価値がないから、今すぐ逝きなさいってね! 家族っていうのはそういうものよ。『病めるときも、健やかなるときも』って知らない? あなたが自分のケツを拭けなくなったら、私が拭きましょうって、そういう意味よ!」

 磯生は聡の顔と同じかそれ以上腫れた拳を、顔面の中央に向けて振り下ろした。鼻から血が流れ、その上から殴り続けた拳は、血液でヌラヌラと輝いていた。一度は痛みで現実の世界と結びついた聡の顔から再び表情が失われ、茫漠としたのっぺらぼうが現れた。

「あんた、誰?」

「……あなた、一度きっちり死んだ方がいいわ」

 磯生は、両手を祈るように握り合わせて天井に向け高く掲げると、聡の眉間辺りに振り下ろした。グチャリという肉がひしゃげる音がして、鼻梁の周囲にできていた血だまりの血がベッドや床に飛び散った。

 その瞬間、磯生の両足首がベッド下から伸びてきた何かによって素早くつかまれ、ベッドの奥へ引き込まれた。磯生の体は防御の姿勢もとれぬまま、直立の状態で大きく傾き、後頭部を床に勢い良く打ちつけた。朦朧とした状態でずるずるとベッドの下に飲み込まれて行き、そこに隠れていた生き物によって処理された。

 聡の枕の下で何十回も単調なリズムの肉を裂く音がして、その度に吐息のような小さな悲鳴が洩れた。そして、あるところで歌うような高い声が部屋に響き、それから吐息はなくなった。肉を裂く音だけが迷いを一切感じさせない単調さで延々と続いた。聡は羊を数える代わりに途中までその音を数えていたが、音が止む前に濃度の高い眠りの中へと溶けていった。最後の意識の欠片が溶け終わる頃、粘度の高い液体に浮かんだ泡がブツブツと弾けるような声を聞いた。

「パパを守りなさい、パパを守りなさい……今度のパパは私たちで守りましょう」



 その日、医局の会議室では、学会発表の予行練習を兼ねた症例検討会が行われていた。気持ち悪いくらいに色白の男が壇上に立ち、パソコンの動作を確認した後、最前列に座っていた教授に頷きと作り笑顔で準備ができたことを伝えた。

「えー、次は器質精神病だったか……それじゃ、早速始めて」

「はい、症例は十歳の女性で診断は、結核性髄膜炎・脳結核です。入院までの経過で、近親者に肺結核患者がおりまして、入院時の検査ではツベルクリン反応、クオンティフェロンは陽性。胸部レントゲンでは異常なく、二回の喀痰検査で排菌はみられておりません」

「感染症関連はいいや。そこらへんは端折って、要領よく精神病理に重点を置いてやって。……先月の殺人事件のせいで、この後も会議が詰まっとるんだ。時間短縮で頼むよ」

「……はい、それではできる限り簡略に進めさせて頂きます。さきほど申し上げた各種検査の結果、厳重な隔離は要さないと判断され、当初小児科一般病床に入院し、低栄養に対する支持的療法を行う方針でしたが、不穏状態が著しく他患や看護スタッフに対する暴言・暴力を認め、当科の隔離病棟に転棟致しました。前医からの情報によると、幼少から認められていた高度の社会性やコミュニケーションの障害、不安・対人緊張・睡眠障害・夜驚等の症状に重畳するかたちで、一年ほど前より急激な精神症状の悪化が出現しております。主な保護者であった祖母の肺結核による入退院の時期と概ね一致しており、原因として環境的要因の影響が想定されました。反応性の精神病状態との診断で、入院も検討されておりましたが、当時の保護者及び本人の強い拒否があり、自宅療養が選択されました。その後も通院は継続されましたが、同伴は姉のみで、詳しい情報もなく、入院は保留されたまま一定の薬剤療法のみを継続していたようです。しかし、今回入院後に行われた頭部MRIで左前頭葉に乾酪化を伴う直径4cmの腫瘍性病変が発見され、さらに髄液検査で髄液圧の上昇、白血球増多、ADA高値、PCRで結核菌陽性を認めました。これらの所見と経過により、結核性髄膜炎・脳結核と診断されました。脳神経外科にコンサルトの結果、髄液の交通障害による水頭症に対するシャント術、結核種の除去術の適応と判断され、二週ほど前に手術が施行されております。手術後、間もなくより精神症状が改善し、若干の衝動性の亢進と元来の社会性の障害は残存しておりますが、幻覚・妄想・精神運動興奮等の症状もなく、開放病棟での対応が可能となりました。現在は手術前より開始されていたた抗菌薬とステロイドを中心とする治療を継続しております。以上の経過より総合的に判断し、一年程前より認められた、急激な精神症状の悪化は、非典型的ではありますが、慢性に経過した神経系の結核菌感染による影響と考えられました。また、すでに死亡した姉においても同様のエピソードを認めており、前医では二人組精神病等の精神的に依存し合う他者間で、精神症状が共有された病態を想定していたようですが、同時発症した結核菌感染による精神症状の悪化である可能性が考えられます」

「待て、姉はすでに死亡してるんだろ? 全く確認する方法もない段階で、そんな希少な病態の原因を推測するのは行き過ぎじゃないか?……ここは事実と科学的な方法論に基づく議論を行う場だよ。あてずっぽうは雑談でやりなさい」

「しかし、可能性の高い推論を行うことも、症例を検討する上では重要であると思うのですが……」

「その推論を行う基礎の脆弱さが問題だと言っとるんだよ。君は時間的関連と感染状況だけで、患者も診ずに原因を推測するのか? そういう推測ゲームをやりたくなったら、文学部に入り直すといい。君みたいのがいっぱいいるから。……まったく、この後も安全対策やなんやらで、下らんことに付き合うことになっとるのに、そんな文学的論議は聞くに耐えんよ。これからも医者を続けるつもりなら、事実と経験に立脚したまっとうな議論をするようにしなさい」

「……はい、申し訳ありません。以後、気をつけますって言うと思ったかあ!」

 色白の男は持っていたレーザーポインタを教授の顔面に投げつけると、自分の正確な投球コントロールが招いた結果も確認せずに、文学部への入学願書を取りに行くために会議室を出ていった。


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