第19話

 聡は退院後、街の中心部に程近い賃貸マンションに、母親といっしょに住んでいた。夏休みに入ってからずっと、カーテンを閉め切った自分の部屋で、一日中テレビを見ていた。水無子の母親に関する一連の報道も、繰り返し目に映っては消えていった。ある番組では感情的になったコメンテーターが、次々と事件やパニックの生じるこの学校を、一度廃校にして別の学校へ再編するべきであると意見を述べていた。聡は夏期休暇に入る直前の閑散とした校内の様子を思い浮かべ、あながち現実味のない話ではないかもしれないと思った。

 確かにすでに存在するものを修正するよりも、最初からやり直した方が良い失敗というというのが存在する。ただ、学校を無くしたところであの場で育てられた怨恨や憎悪といったものは、たとえ一粒の種子となったとしても、きっとどこかで土壌を見つけ、花開く時を待つはずだ。あの学校を培養地として膨らんだ醜悪なエネルギーはまだまだ放出される場を求めている。自分はそのエネルギーが最大限に発揮される条件が整った場所にいて、反応開始の端緒に関与したに過ぎない。聡はそんなふうに感じていた。


 竹夫は、小学生としては異例の精神鑑定を受けるため、遠方の精神病院に留置場所を変えられ、今も家族や弁護士、鑑定人以外の面会はできない状態が続いていた。

 竹夫に会いたかった。

 会って何が言えるということもないかもしれないが、顔を見て話がしたかった。

 勝手なものだ。学校で孤立したときには疎んじて、自分の世界に閉じこもろうとしたくせに、今は唯一自分の中の人間らしい感情、色のある世界へ通じる扉として竹夫の存在を求めている。

 竹夫は今の聡に失望するだろうか。竹夫にとっては聡は“すごい聡くん”でなければならない。がっかりさせるのは済まない気がした。期待を裏切るのは嫌だった。結局、だめな自分を見せたくないのだ。

 ただ、竹夫ならこんな聡に会っても、えへへ……と少しだらしなく笑ってから、こう言ってくれるような気がした。「だめじゃん、聡くん」


 聡が退院したときに、ハリーは聡のところに返された。竹夫の父親が、謝罪のようなことを口にしながら、聡が預けていた大きなカゴをマンションまで運んでくれた。「ハリーは聡のところに帰りたがっているから、聡くんさえ良ければ返してあげて欲しい」というのが、面会したときの竹夫の希望だったらしい。聡も、いつまでも面倒をみてもらうわけにはいかないと考えていたので、問題はなかったが、久しぶりにヒナが帰ってくると、以前とはヒナとの関係も変わったように感じた。

 やるべき世話はきちんとした。餌や水のことはもちろん、掃除も前と同じようにして、いつも清潔を保った。でも、違うのだ。今はやることになっているからやっているに過ぎない。ヒナのことを思っても心は冷たいままだった。

 ただ、毎日の世話を淡々とやる。型にはめてきちんとすればするほど本来その行為に込められていたはずの意味を失っていく。聡はヒナの目を見ることを怖れるようになった。そこには以前の信頼とは違うもの、聡に対する疑念が浮かんでいるように思えるのだった。時にはヒナからの視線を感じて責められているような気さえした。


 聡の周囲には疎外と遠慮が満ちていた。母親は、ずば抜けた記憶力や鋭い判断力を失った今の我が子をどのように扱って良いか戸惑っているようだった。引っ越しの話以降、将来に関することも出ていない。きっと、予定していた中学受験が不可能であることに、直面させなくてはならないのが怖いのだろう。そんなこと、とっくに聡自身が痛いほど分かっているというのに。

 自分はだめになった。もう有能にはなれない。そのような取り返しのつかないことに対する悔しさや恥の周期的な発作をやり過ごすことで一日が暮れていった。どうしようもない自分、情けない自分だけが残った。“すごい聡くん”は死んだのだ。本当に、どうしようもなく疲れていた。とにかく本当の休養を必要としていた。でも、聡には“休む”ということがどういうことなのかも分からなかった。


 昼過ぎまで眠って、暗い部屋の中で、汗をダラダラ流しながらテレビの画像を網膜に映し続けた。テレビの中で陰惨なことが起きるほど、気持ちが安らいだ。


 ………………

 もし世の中が良いところなら困ってしまう

 自分だけが貧乏くじを引いたことになる

 もし太陽が昇らず

 いつまでもこの世界が夜であってくれるなら

 自分に付けられた欠格の烙印だってごまかせるかもしれない

 今までが勘違いだったと思えれば

 これからは明るい絶望に浸りながら前向きに生きていけるというものだ

 テレビの楽しげなやり取りが空々しければ

 それはそれで納得がいく

 金をかけて雰囲気を作り上げても

 この世界が価値あるように見せることにみっともなく失敗していやがる

 やはりここは価値のない場所なのだ

 生きることになんか何の意味もないのだという証明をしてくれている

 みんな自分の味方だ

 醜いもの

 憎むべきもの

 すべてが自分を祝福してくれる

 ………………


 テレビ画面との対話の中、聡は茫漠とした繰り言で頭を充満させていた。

 祈る内容はその度に違っていたが、一日に何度も、正体の分からない誰かに祈っていた。あるいは、祈る相手はゴミ箱の中の痰にまみれたティッシュや台所で何日も放置されているゴキブリの死骸だったかもしれない。不毛な祈りを捧げ続けた。それが不毛であればあるほど救われた気がした。

 

 聡は朝のワイドショーで“家族で行くキャンプ特集”を見てから、前の家から持って来た荷物の中に、昔父が家族で行くつもりで買ったキャンプセットがあったことを思い出した。自分の部屋で、広がりきらずにひしゃげた形のままのテントを張った。ハリーを風呂場に持って行って換気扇を回した後、テントの中に小型ストーブと炭を持ち込み、固形燃料に火をつけた。エアコンをつけていない室内は、ただでさえ四十度近くあったが、聡はそれでも寒気に震えていた。固形燃料から炭に火がゆっくり燃え移るのをじっと見ていた。手をかざして熱が皮膚から伝わってくるのを待った。熱は手の先で留まっているだけで、いつまで待っても体に伝わってこない。このまま手が焼けただれても、何も感じないかもしれない。テントの中の温度も上がっているはずなのに歯が鳴るような全身の震えを止めることができない。炭から白煙が上り始める。火は生き物のように踊っている。炎の跳躍や捻転を見つめ続けるうちに、意識に靄がかかって、徐々に濃くなっていった。


 聡が意識を無くした後、炭からずいぶん煙が出たらしい。部屋の前を通った住人が気づき、消防への通報を行った。聡がテントの中で赤ん坊のように丸くなっているのを隊員が発見し、救急車で高度の医療に対応できる前回と同じ病院に搬送した。そして、再びカプセルの中の標本になった。



 また、あの音が鳴っている。シューという高い音が、聡の頭より上の方で鳴り続けている。局面を描くガラス越しに蛍光灯の歪んだ光が見えた。「じっとしていてくださーい」また、あの甘ったるい声だ。

 この毒壷の中で圧殺されて標本に変わる。ヒト科ヒト属ヒト。スザキサトシ。ショウガクセイ。このガラスケースの中で、固定されて、標本として、人類の発展に寄与する。

 ………………

 大丈夫?

 大丈夫だよ

 完璧に大丈夫だ

 問題はない

 平気?

 平気だよ

 当たり前じゃないか

 問題なんて起きようがない

 これ以上ないくらい最高の気分だ

 ところでここは何処?

 ここからもう一度やり直し?

 ………………

 ガクンという腰からくる衝撃で目が覚めた。

 金属が擦れる音がして、カプセルから外へと引っ張り出された。色白の男。見覚えのある顔。

 前回途中まで来た道を、今度こそ最後までちゃんと行こうと思っていた。

 聡が思っていた“最後”まで行くこととは違ったかもしれないが、今回の試みで、前回の火事の時よりは重度の記憶障害と性格の変化、運動失調が現れ、そういった意味では道程を引き返すことができないほど“前進”したと言えた。


 

 カプセルの中に入った後は、決まって点滴が打たれた。暴れた場合に備えて、上下肢と腹部に帯のようなものを巻かれ、ベッドに固定されていた。カプセルに入る前に打たれた鎮静剤の効果が残っていたので、点滴中はいつも漠然とした眠りの中にいた。


 聡の部屋で清掃をしていたヘルパーが、点滴を換えに来た看護師に声をかけた。

「ねえ、この部屋に入る妖精の話、知ってます?」

「何それ? 何で幽霊じゃなくて、妖精なの?」

「だって、体が小さくて……なんか嬉しそうに飛んでるらしいですよ。足が地面についてないみたいにスキップしながら……」

「患者さんじゃないの?」

「そうじゃないみたいですよ。だって、この部屋に入っていくのを見た直後に確認しても、この子がベッドで寝てるだけで誰もいないんです。それに、この子はいつも拘束されてるから……」

 手を動かしながらヘルパーの話を聞いていた看護師は点滴の交換を終えると、聡を横目に見ながらため息をついた。

「妖精だか何だか知らないけど、この子、きっと何かに憑かれてんのよ。知ってる? この子のいた学校って例の学校なのよ。この子のうちも火をつけられたりして……ちょっと異常よね。まったく変なもん連れて来ないで欲しいわ。安心して当直もできやしない」

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