第1話 記憶のない朝


 二月十四日の夜、私は「彼のハートを鷲づかみにする勝負スポット!」へ単身で乗りこんで、これ見よがしに「バレンタイン限定❤カップルコース」なるものを注文した。

 二人前のコース料理が並ぶテーブルに一人で座る私に好奇の目が集まる。そんな視線を後目に、二人分の料理を高級ワインで流し込むように一気に平らげた。「早食い選手権」に参加しているような、酷い食べっぷりだった。

 食べ終わったとき感じたのは、満足感とは程遠い胸焼けと、心に穴が開いたような虚しさ。そして、行き場のない苛立いらだちだった。


 気が付くと、行きつけのショットバー「ミッドナイト」へ来ていた。

 時間が早かったせいか、客はほとんどいない。マスターに愚痴をこぼしながら、まるで水でも飲むようにお酒を飲んだ――でも、憶えているのはそれぐらい。ミッドナイトでの記憶は私の頭からポッカリと抜けている。


 カーテンの隙間から差し込む、まばゆい光で目覚めたとき、経験したことのない、強烈な頭痛と吐き気に見舞われた。

 パジャマ代わりに着ているのは、皺苦茶しわくちゃになった勝負服。だらしなくめくれ上がったスカートの下から、ガーターで吊ったストッキングと勝負下着が見えている。全身から漂う、アルコールの臭いが半端ではない。


 前日の記憶はなかったけれど、自分が置かれた状況は理解できた。

 仕事に行く気力など微塵もなく、すぐに会社へ連絡を入れた。電話に出たのは私より七つ年下の男性社員。


「生理痛がひどくて動けないの。ベッドが血の海。課長に伝えておいて」


 わざと際どい言葉を並べて休暇を申請した。戸惑いを隠せない彼の姿が手に取るようにわかった。

 そんな言い訳をしなくても休暇が取れないわけではない。ただ、そのときの私は「男」と名のつく者すべてに敵意を感じていた。「世界中の男と言う男を困らせてやりたい」。そんな衝動に駆られていた。


 電話を切った後、元彼からのメールのことを思い出した。じわっと涙が溢れてくる。いくらぬぐっても止まることはなく、枕に顔を埋めて声を押し殺すように泣いた。

 ふとアルコールの臭いに混じって甘ったるい匂いを感じた。

 顔をあげて枕に目をやると、赤い口紅の染みの横に茶色の染みができている。チョコレートのようだ。

 眉間に皺を寄せて考えてみたけれど、チョコレートを食べた記憶はない。思い出そうとすると頭がズキズキ痛む。


 状況が呑み込めないまま、私はバスルームへと向かった。

 頭からシャワーを浴びた。アルコールの臭いとチョコレートの匂いが消えて行く。「あの男の記憶も綺麗さっぱり流すことができたらいいのに」。そんなことを思ったら、再び涙が溢れてきた。

 しばらくの間、私は熱いシャワーの雨に打たれていた。


★★


 バスタオルで髪を拭きながらベランダの方へ目をやると、相変わらず白い物が舞っている。雪は一向にやむ気配がなく、ベランダの手すりにも五センチ以上積もっている。

 この調子で降り続けば、電車やバスはもちろん飛行機や高速道路も止まってしまうだろう。


『首都の機能が麻痺するかも』


 そんな言葉が脳裏を過る。でも、それは心配や危惧のたぐいではなく、切なる願望。私は「そうなること」を心から願っていた。

 自分のことを知っている人間には会いたくなかった。仕事はもちろん、昨日までしてきたことは何もする気にならなかった。昨日までとは違う世界で、新しい自分になりたかった。


 最後に願いごとをしたのはいつだろう?

 確か中学三年のとき高校合格を願ったとき。十五年以上前だ。


 私が願いごとをすると誰かが不幸になる。

 でも、他人ひとのことなんか知ったことではない。

 昨日までとは違う世界に行きたかった。私にとって昨日より悪い状況などあり得ないのだから。


 テーブルの上にあるスマホのランプが点滅する。メールが着信したようだ。

 画面には「昨日はありがとう」というタイトルと見覚えのないアドレス。

 よくあるセールスメールかと思ったけれど、投げやりになっている私は、何の躊躇ためらいもなくそのメールを開いた。


『Toさゆり様 こんにちは。体調はいかがですか? お腹は大丈夫ですか? チョコレートありがとうございました。すごくおいしかったです。いろいろなお話ができてとても楽しかったです。日本にはいつまでいられるかわかりません。でも、またさゆりさんとお話がしたいです。Fromウォンス』


 メールを見た瞬間、眉間に皺が寄る。頭痛が酷くなった気がした。

 発信者は「ウォンス」。そのネーミングから韓国・シンガポールといったアジアの国が思い浮かぶ。でも、その名前には全く心当たりがない。


 なぜ私が二日酔いと食べ過ぎで気分が悪いことを知っているのだろう?

 チョコレートというのは手作りチョコのことだろうか?

 私がウォンスなる人物にチョコを渡して楽しく話をしたということなのか?


 振られた女がそんな行動に出るなんて考えられない。でも、酔った勢いで自棄やけになっていたならあり得るかもしれない。


 そもそも私の名前やアドレスは、私が教えたのか?

 それとも、個人情報を入手した輩が良からぬ目的のために私に近づこうとしているのか?


 大学を卒業して八年、ずっと節制を心掛けてきた。老朽化したアパートに住んでいるものの、郊外の中古マンション程度なら購入できる蓄えはある。でも、貯金の額に反比例するかのように「恋愛」と呼べる経験はほとんどない。

 自分で言うのもなんだけれど、結婚詐欺に引っ掛かる、典型的なタイプのような気がする。


 前日、私を振った男とは婚活パーティーで知り合った。私より五つ年上で、堅い仕事に就いている、真面目を絵に描いたような人。

 結婚相手としては最適だったけれど、風貌は冴えなくて、洒落た会話もなく、趣味の釣りと野鳥観察バードウォッチングも合うとは思えない。一生付き合うパートナーとしては、お世辞にも適任とは言えなかった。


『美人でもない三十路の女が理想ばかり追い求めていたらダメ』


 婚活パーティーに臨むにあたって、私は自分に強く言い聞かせた。言い換えれば、自分を卑下して妥協しようとした――その結果がとんでもないNG。私が受けたダメージは思いのほか大きく、現実を受け入れることができなかった。


 ウォンスという人物に興味を持ったのは、自暴自棄に陥った私の単なる現実逃避だったのかもしれない。でも、彼に近づくことで、絶望だけの現実に取って代わる「新たな世界」が見えてきそうな、漠然とした期待感があった。


『昨日の夜、何があったのか確認しないと』


 私はミッドナイトのマスターに電話を入れた。

 スマホを耳に当てながら曇ったガラスを指でなぞると、まだ三時前なのに空は夕方のように暗くなっていた。


 雪が止む気配はなく、ベランダから見えるのは、いつもとは違う世界だった。



 つづく

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