第2話 ファニー・バレンタイン
★
「えっ? 小百合ちゃん、彼のこと何も覚えていないの? それはそれは……」
前日のことを尋ねると、マスターは驚いたような口調で、奥歯に物が挟まったような言い方をした。
腑に落ちないのは、そんな状況にもかかわらず、ウォンスからのメールが穏やかで好意的であったこと。
「マスター、昨日何があったのか教えて! お願い! できるだけ詳しく!」
私はマスターに激しく詰め寄った。あえてウォンスのメールのことは言わなかった。
マスターは「ふふっ」と含み笑いをすると、電話越しに淡々と話し始めた。
★★
「――冗談じゃないっつーの。私、何か悪いことした? 八年間、馬車馬みたいに働いてきて、やっとのことで彼氏ができたと思ったら、バレンタイン当日にいきなり破局。しかも、短いメール一本でバイバイ。こんなのあり? あり得ないっしょ? あるわけないっつーの!
しかもよ? この小百合さんを振ったのは、理想とは程遠い、点数をつけたら平均点にもいかないような男。明らかにボーダーラインを下回ってる男。この小百合さんが、妥協に妥協を重ねてあげたにもかかわらずよ?
好きな人ができただぁ!? 中学生みたいなこと抜かしてるんじゃないわよ! 寝言は寝てから言えっつーの! マスターお代わり……大丈夫よ。まだ二杯目なんだから。えっ、七杯目? そうだっけ……? 大丈夫、大丈夫! ぜ~んぜん酔ってなんかいないから」
その夜、私はいつもとは比べ物にならないほどハイペースで飲んでいた。店に入ったときからテンションが高かったのは、レストランでグラスワインをかなり飲んだから。
普段はソフトドリンク二、三杯を時間をかけてゆっくり飲む私が、ウイスキーのオンザロックを一時間足らずで七杯も飲んだらしい。とても信じられない。でも、朝起きたときの状態からすれば、事実だと認めざるを得なかった。
「やってられないわ……あれっ? マスター、これ、水じゃない? 私が注文したのはオンザロックなんですけどぉ。オ・ン・ザ・ロ・ッ・ク。酔ってたって自分が注文したものぐらい憶えてるんだからね。
あ~あ、マスターまで私をバカにして。男なんかどいつもこいつもみんな同じ。若くて可愛い
私の身を案じたマスターがオンザロックの代わりに冷水を差し出す。しかし、それが冷水とわかるや否や、私のボルテージはさらに上昇する。
事態が悪くなる喩えに「火に油を注ぐ」というのはあるが、「酒に水を注ぐ」というのは聞いたことがない。
何を思ったのか、差し出されたグラスを高々と掲げた私は、店中に響き渡るような声で「乾杯」の発声をする。何に対する乾杯なのかよくわからない。もしかしたら無意識のうちに「完敗」を宣言したのかもしれない。
中身を一気に飲み乾してダーンとグラスを勢いよくカウンターの上に置くと、よくわからない言葉を発しながら、両手を広げて身体を仰け
そのとき、カウンターの一番奥に座っていた男と目が合った。
店内はライトの照度を落としているせいで、細かな表情まではわからない。でも、その男は笑いを
「ちょっと、あんた。何が可笑しいの? バレンタインデーに振られた女がそんなに珍しいわけ? 確かに珍しいわね……うるさい! うるさい! 言いたいことがあるなら聞こうじゃないの! そこで待ってなさい。逃げるんじゃないわよ」
目が
只ならぬ雰囲気を察したのか、マスターが私の名前を呼びながらカウンターの中から飛び出してきた。
男の方はと言えば、表情を変えることなく穏やかな笑みを浮かべている。彼にしてみれば、「さゆりの人生劇場」なるB級映画でも観賞するような感覚だったのかもしれない。
勇ましい言葉を発して男の方へ向かった私だったけれど、足に力が入らなかった。ヒールの高いパンプスを履いていたせいもあって、ふらつき様は半端じゃない。
右に左に大きく蛇行しながら歩く、スリリングかつ
堪りかねたマスターが私に手を伸ばす。しかし、その手を振り払った私は男の隣に座ろうとする――が、健闘虚しく、バランスを崩して前のめりになる。
極度の
そうならなかったのは、男が素早く立ち上がって私の身体をしっかりと抱きかかえたから。
男の腕に抱かれた私は目をパチクリさせる。男の笑顔がすぐ近くにある。文句を言うためそこへやって来たことが頭からスーッと抜けていった。
「このたびは危ないところを助けていただきお礼の言葉もありません。このご恩は一生忘れません」
男が、大ピンチに陥った自分を助けてくれた王子様に見えたのか、私は
そんな私の様子を見てマスターは安堵の胸を撫で下ろす。
カウンターの中に戻って演奏が終わったCDを新しいものへ取り替えると、奇しくも、ジャズの名曲「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」が流れ出す。
心地よい、静かな音色に満たされた空間に、私と彼の楽しそうな笑い声が響いていた。
つづく
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