第3話 もどかしいアンバランス


 マスターから前日の経緯いきさつを聞いた私は言葉を失った。

 いくら酔っていたとはいえ、自分がそんな行動を取ったなんてとても信じられなかったから。ただ、その男が私にメールを送ってきたウォンスに間違いないと思った。

 矛盾する、二つの思いは、私の心の動揺を端的に物語っていた。


 実際に私は彼と会って話をしているのに、交わした会話の内容はおろか、その顔立ちや風貌さえも憶えていない。一方、彼は私のことをそれなりに理解している。

 そんなアンバランスでもどかしい状態から一刻も早く抜け出したいという思いが、私の中で大きくなっていく。


 スマホを持つ左手に力が入っていたのか、左手がしびれている。スマホを右手に持ちかえて左手をぶらぶらさせた。


「ねぇ、マスター? 私といっしょにいたひとは誰だったの? お店の常連さん?」


 ウォンスのメールのことには触れず、一番知りたかったことをそれとなく聞いてみた。


「初めて見るお客さんだよ。七時の開店と同時に入ってきたんだ。他にお客さんはいなかったから、彼とはいろいろな話をした。名前は訊かなかったけどね」


「どんな感じの人だった? 恥ずかしいんだけれど、私、そのときの記憶がないの。話の内容も顔も憶えていないし、どこに住んでいて、どんなお仕事をしているのかもわからない。顔立ちやしゃべり方は日本人っぽくなかったような気がするけれど、はっきり思い出せないの。

 マスターの知っていること、教えてくれない? 何でもいいから。どんな小さなことでもいいから。お願い」


「何でもいい。どんな小さなことでもいい――ね」


 マスターは意味ありげに私の言ったことを反復する。付き合いが長いことで、私の声のトーンから何かを感じとったのかもしれない。


「細身で色白。第一印象は病的な感じがした。良く言えば、女性のように美しい顔立ちだった。僕がを遠回しに言うと、彼は自分のことを『特異な体質』だと言った。何か病気を患っているのかもしれないけど、それ以上立ち入ったことは聞かなかった。

 目が大きくて彫が深い顔立ちは日本人っぽくなかった。日本語が片言かたことだったことで、余計にそう感じたのかもしれない。年齢は……三十前後かな? 一昨日からこのあたりに滞在していると言っていた。目的を尋ねたら『仕事とプライベートの両方』なんて曖昧な答えが返ってきた。ただ、にこやかで穏やかな話しぶりはとても好感が持てたよ」


 私の中で、彼がウォンスであることが確信に変わった。


「そろそろ出掛ける時間だ。小百合ちゃん、そんなところでいいかな?」


「マスター、あと一つだけ。私と彼はどんな雰囲気だった? どんな話をしていたの?」


 私の最後の質問に、少し間が開いて、マスターがうれしそうな口調で話す。


「小百合ちゃんは酔っ払っていたせいか、上から目線で大声で話していた。でも、そんな小百合ちゃんの一言一言を、彼は相槌あいづちをうちながら、ずっと笑顔で聞いていたよ。

 小百合ちゃんは、自分の小さい頃の話から、学生時代の話、仕事の話、そして、昨日の失恋の話まで順を追って話していた。そうしたら……小百合ちゃん、泣き出しちゃったんだ。憶えてないよね?」


「えっ? そうなの!?」


 思わず大きな声が出た。全く憶えていなかった。でも、気持ちが不安定だったことを考えれば、あってもおかしくない。


「失礼な言い方をするかもしれないけど、小百合ちゃんの言葉そのままだから、気を悪くしないでね」


「改まって言われると聞くのが怖いわ」


 マスターの声のトーンが変わったことで、私は思わず息を呑んだ。



 つづく

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