第7話 変わっていくもの


 スマホにメールが届いていた。発信者の欄には「ウォンス」の文字。


 リビングに戻った私は、スマホをテーブルの上に置いてゆっくりと腰を下ろす。背筋をピンと伸ばして正座をすると、自分を落ちつかせるように大きく深呼吸をした。メールを開く指が微かに震えている。


『Toさゆり様 こんばんは。メールをありがとうございます。小百合さんは昨日の夜のことを憶えていなかったのですね。でも、気にすることはありません。何も問題はありません。僕たちが出会った日を今日にすればいいだけです。今日からお互いのことを少しずつ知ればいいのです。小百合さんとこんな風に話ができてとてもうれしいです。日本に来て本当に良かったです。

 僕は仕事中です。詳しいことは言えませんが、忙しいです。でも、小百合さんへメールを送ることはできます。小百合さんからメールが来たら僕も送るようにします。よろしくお願いします。Fromウォンス』


「出会った日を今日にするか……」


 メールのフレーズが口からこぼれる。頬が緩んでいるのがわかった。

 確かにウォンスの言うとおりだ。私たちが出会ったのが今日であれば、私が彼のことを知らないのは当たり前。これから少しずつ知ればいいだけのこと。私のことも少しずつ知ってもらえばいい。


 ウォンスの前向きで優しい言葉が、胸のあたりにつかえていたモヤモヤを瞬時に消し去った。すると、それに取って代わるように息苦しさがこみ上げる。

 メールを読んでいると心臓の鼓動が速くなる。それなら読まなければいい? そんなことわかっている。でも、読まずにはいられない。何度も読み返してしまう。


 時刻は九時を回っている。テレビのニュースは大雪の話題一色だった。

 渋谷のハチ公前からレポートをする男性は膝まで雪に埋もれ、差している傘が雪混じりの突風であおられている。

 普段は満員電車のようなスクランブル交差点も人はほとんどいない。車道のあちこちに立ち往生した車が放置されている。

 カメラに映ったSHIBUYA119ビルのネオンサインがぼやけて見える。視界は百メートもない状況だ。まるで極寒の地に吹き荒れるブリザードのようだった。


 少し前に発令された非常事態宣言を受けて、レポーターはしきりに「外出は控えてください」といった台詞を口にする。家屋が倒壊する危険があるため、避難勧告や避難指示が出ている地域もある。


 私が住んでいるのは東京都と神奈川県との境。正確に言えば東京ではない。アパートから自転車で十分ほど走ったところに県境となる多摩川が流れ、夏にはベランダから打上げ花火を眺めることができる。幸いなことに避難勧告も避難指示も出ていない。雪は都心部の方が酷いようだ。


『もしかしたら死人が出るかも……私が悪いの? 願いごとなんかしなければよかったの?」

 

 事態がエスカレートしたことで気が弱くなったのか、私の中で自問自答が始まる。


『……そんなことない。これは、三十年間不幸続きだった私が初めて幸せになれるチャンス。これまで私のことを軽んじてきた神様の罪滅ぼしみたいなもの。この世界は神様が私のために用意してくれたもの。後ろめたい気持ちになる必要なんかない!』


 自分に強く言い聞かせて、弱気の虫を追い払うように頭をブンブンと左右に振った。

 ガラス戸を手のひらでぬぐって顔の大きさぐらいのスペースを作る。真っ黒な空間は粉雪で覆い尽くされている。

 果てしなく続く、夜の暗幕を無数の白い粒子が席巻する「モノクロの世界」はとても幻想的で、そして、美しかった。


「ウォンスさん、今も働いているって言ってた。もしかしたら、私と同じ景色を眺めているのかも……なんだかうれしい」


 柄にもなく乙女ちっくな台詞が口をつく。以前の私だったら、違和感を覚えて気分が悪くなったかもしれない。でも、違和感なんて全くなかった。

 私を取り巻く世界だけでなく、私自身も変わりつつあるのかもしれない――昨日までとは違う、新しい自分に。



 つづく

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