013

 ヘンリー・ジキル博士の足跡を追って、アリゾナ準州の旧州都プレスコットを訪れたマイクロフト・ホームズとピンカートン探偵社一行だが、そこで彼らを予想外の展開が待っていた。

 街で聞き込みしてみると、ジキル博士の足取りが完全に途絶えてしまっていた。しかしその一方で、いったいどういうワケか、今度はエドワード・ハイドの目撃情報が手に入ったのである。ある意味では期待通りの流れとも言えるが、どうにも腑に落ちない。

「情報によると、ハイドは北西の方角へ向かったそうです」

 マイクロフトは地図とにらめっこしながら、「行き先はネバダ州か……? いや、険しいグランドキャニオンを避けるルートで、北上する可能性もあるな。しかし、ここからわざわざカナダ国境を目指すよりは、メキシコへ逃げるほうがはるかに近いのだが」

「ネバダ州の尖った南端を素通りしつつ、カリフォルニア州へ出て、追っ手の管轄外に逃れようって魂胆かもしれませんよ。――って、チョット待ってください」新十郎は地図を指で西へなぞった。「ひょっとすると、このままだとまずいんじゃアありませんか? たぶんハイドのヤツ、サンフランシスコ港から船で逃げるつもりかと」

「太平洋横断定期航路か。行き先は日本の横浜だったな。その次の停泊地――香港は英国領だから避けるとして」

「ミスター・ホームズ、言うまでもないコトとは思いますが、ピンカートン探偵社もアメリカ国外は管轄外です。カナダやメキシコくらいならまだしも、さすがに日本での捜査にはお役に立てません」

「言われずともわかっている……。ここは何としても、ハイドの乗船を阻止したいところだな」

「もちろんハイドの行き先が予想と違っている可能性は捨てきれませんが――ここはいっそのコト賭けに出て、サンフランシスコへ先まわりしたらどうでしょう? ずっと後手にまわりっぱなしですし」

「悪くない作戦だとは思うが……そもそも、われわれより先へ行っているハイドを、どうやって追い越せばいいのだね? こう言っては何だが、単騎と比べて馬車はどうしても速さで劣る」

「問題はそれなんですよね。ハイドは人目につきたくないでしょうから、そのぶんよけいなまわり道を強いられるとしても、それだけじゃ決め手に欠けますし――エドワーズはどう思いますか?」

「…………」

「……エドワーズ、チャント話を聞いているのかね? さっきからずっとだんまりだが。もしや馬車に酔ったかね?」

「悪い。少し考え事してた」エドワーズは意を決して、「……マイクロフト。いいかげん腹ァ割って話さないか?」

「うん? ハイドの行方以外に何を話すというのかね?」

「ハイドについて、アンタはまだ何か隠してるコトがあるだろ?」

 マイクロフトはいたって平静な様子を崩さず、「なぜそんなふうに思う? いったい何を根拠に――」

「探偵のカン、と言わせてもらおう。前々から気になってはいたんだ。ハイドが使う薬の件だが、コーデリア・フィッツジェラルドのところでその話が出たとき、アンタは知らねえそぶりだったよな。だけど、ホントのところは事前に承知していたんじゃねえのか? ハイドの身柄とともに薬の秘密を英国へ持ち帰って、何かよからぬコトを企んでいるんだろ。だとすればわざわざ外交上のリスクを負ってまで、スコットランドヤードがアメリカへ出向いたのも納得だ」

「ナルホド。実にみごとな推理だエドワーズ」マイクロフトは皮肉っぽく拍手した。「で、それは事実だと私が認めれば、キミは満足するのかね? 陰謀がない証拠など示しようもないが」

「まァ待て。気になる点はもうひとつあるぜ。スコットランドヤードから依頼を受けてすぐ、ピンカートン探偵社はロンドンでのエドワード・ハイドに関する情報を精査した。ダンヴァース・カルー卿殺害の件はもちろん、少女に乱暴を働いて騒ぎになり、ヘンリー・ジキル名義の小切手で賠償した件なんかをふくめて、あらゆる情報を。――その結果、奇妙な事実が判明した。財産を相続するほどの仲で、同性愛の関係まで疑われていたジキル博士とハイドだが、どういうワケかいっしょにいる現場を目撃されたコトが、一度たりともねえ。いいか、一度もだぞ? レスタースクエアにあるジキル博士の屋敷を出入りするハイドなら、目撃されてはいる。だが、ふたりがともにいるところの目撃証言はゼロだ。フツーに考えてそんなのはありえねえ。アメリカの荒野ならまだしも大都市ロンドンでは」

 新十郎は困惑して、「でもそれは、こちらの調査が不十分というだけなのでは? 目撃者を取りこぼしているだけで」

「オレもつい最近までそう考えていた。けど、それこそがカンチガイだったのかもしれねえ。実際、今も似たような状況とは思わねえか? まるでふたりが入れ代わり立ち代わりに」

 ジキルが現れたかと思えばハイドが消え、ハイドが現れたかと思えばジキルが消える。さながら月と太陽のごとく――いや、より適切に例えるならば、青空と夜空か。

「ふむ。話の流れからして、もしやエドワーズ、キミはこう言おうとしているのかね? ――ヘンリー・ジキルとエドワード・ハイドは同一人物だ、と。そんなコトが本気でありえるとでも?」

「ありえないか? ありえないと言い切れるか?」

「そうですよエドワーズ。さすがに論理が飛躍しすぎでは? ふたりは容姿も年齢もあまりにかけ離れています。変装でどうにかなるとは思えません。まさかジキル博士が吸血鬼だなんて言い出しませんよね。若返りなんてそれこそありえませんよ」

「言われるまでもなく、その点はオレも同意せざるをえない。だが外見の問題さえクリアすれば、ジキルとハイドの不可解な関係を説明できるんだ。ジキル博士がそれまでの生活を捨てて、別人になろうとしていたなら、ハイドに財産を残すのは当然だ。ふたりがいっしょに目撃されないのも、同時には存在できないから。それに怪しげな薬の知識だ。ジキルとハイドが同一人物なら何の不思議もない」

「どんなにそれらしく思えたとしても、前提で無視したふたりの外見が一番のネックでしょうに。いったいどうしたんですかエドワーズ? ふだんなら、僕が安易に推理しようとするのをたしなめる立場なのに、明らかにおかしい。ひょっとして疲れているんじゃありませんか?」

「オレもそう思いたいよ。疲れのせいなら、どんなに気がラクか。何だったらハッキリ否定してもらいたいくらいだぜ。オレの抱えている疑念は、ただの妄想だと。なァ、どうなんだマイクロフト?」

 マイクロフトはしばらく沈思黙考している様子だったが、やがて重々しく口を開いた。「ピンカントーン探偵社の諸君は、アメリカ連邦政府と国民の大半がいだくであろう意向に逆らってまで、この捜査に協力してくれた。それに対して誠意を示さないのは、英国紳士の名折れと言えるだろう。……だがエドワーズ、あえて私はこの場で、キミの推理を否定も肯定もしないでおこう」

「しないってのは、つまりできないワケじゃねえって捉えても?」

「そう思ってもらってかまわない。なぜなら私は、ジキルとハイドの真実を知っているのだから。と言っても、私自身それが真実だと、いまだに信じ切れていないままだが。なにせあまりにも荒唐無稽な物語でね。ゆえに確信を得るため、エドワード・ハイドに直接会って問いただしたいのだ。アレは真実なのか、と」

「……ナルホド。アンタの言い分はよォくわかったぜ。ようするに、今はまだおあずけってワケだ。さすがはキツネ狩りが大好きな英国紳士だな。猟犬のしつけかたをよく心得ていやがる」

「ひとまず今の時点で言えるコトは、ふたつだけだ。まずひとつ、女王陛下に誓ってハイドの薬を悪用するつもりはない。けっしてアメリカに害を及ぼす企みなどないから、そこは安心してくれたまえ。――ああ、もちろん日本にも。そしてもうひとつ、こちらへ渡る前に私が捜査していた、とある事件について話そう。それはロンドン在住の弁護士、ガブリエル・ジョン・アタスン氏の密室殺人だ」

「その名前なら知ってるぜ。ジキル博士の友人で、ハイドへ財産を相続させるための遺書を管理していた人物だ。自殺と聞いていたが」

「ああ。動機が不明瞭だったし、遺書も残されていなかったから、偽装だと疑われたが、最終的には自殺しかありえないという結論に至った。今その判断の是非を問う気はない。問題は捜査の過程で見つけた、二通の手紙だ。そこには、ジキル博士の告白が記されていた」

「告白?」

「私はその告白を、手紙ではなく彼自身の口から聞きたい」

 マイクロフトの言葉にウソはない、とエドワーズは思った。この期に及んで適当なごまかしをするハズはないし、何より誠実さがにじみ出ている。ここはそれを信じてみるとしよう。

 ハイドを捕まえれば、すべてが明らかになる――その期待を胸に、今はただ先へと進むべきときのようだ。

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