011

 イングランド、ロンドン、ウエストミンスター地区ホワイトホール・プレイス四番地、グレート・スコットランドヤード通り。この住所に本部庁舎が存在するコトから、ロンドン警視庁は通称スコットランドヤードと呼ばれている。

「いけませんホームズ警部補! お願いですから止まってください! リトルチャイルド刑事から誰も通すなと言われています!」

「いいやマネーペニー、悪いがここは全力で押し通らせてもらう。忘れたのか? 私は警部補で、リトルチャイルドは巡査長だ。下の階級からの命令にしたがう道理はない。どきたまえ。邪魔だ」

 マイクロフト・ホームズはマネーペニーの制止を振り切って、署内にある取調室のひとつへと向かった。

 部屋の前には、なかへは入らせないとばかりに立ちふさがる部下の姿――ジョン・リトルチャイルド刑事だ。右耳をケガしているらしく、ガーゼが貼られている。ガーゼは痛々しく血がにじんでいる。

「これはこれはホームズ警部補どの。まさかあなたがそんなふうに、セカセカと早歩きしている姿を見られるとは。いやはや、もしかすると明日のロンドンは雪ですかな。寒いのは苦手なのですが」

「そこをどきたまえリトルチャイルド」「おことわりします」

「たとえ上官の命令でもか」

 リトルチャイルドは首を横に振って、肩をすくめる。「ええ、聞けませんね。前々から思っていたが、あなたのやりかたは手ぬるすぎる。疑わしきは罰せず? 自白は無効? 証拠がなければ犯人ではない? 大変ご立派ですとも。ですが、それで肝心の犯人を捕まえられなかったら、本末転倒じゃアありませんか。もしソイツがさらに犯罪を重ねたら? 誰かを殺したとしたら? 被害者とその家族に向かって同じセリフを吐けますか? ヤツはどこからどう見ても犯人としか思えないが、証拠がなかったので野放しにしていたと」

「またそれかね。貴様のご託はいいかげん聞き飽きたぞ坊や。いいからそこをどきたまえ。こんなマネが許されると思っているのか? 証拠もない人間をムリヤリ連行して、しかも拷問するなど――」

「だから! 聞き飽きたのはこっちのほうだって!」リトルチャイルドは激昂して、「アンタの綺麗ごとにはなァ、もうウンザリなんだよ! クラーケンウェルの爆破テロで、罪もない一般市民が何人巻き込まれたと思ってる? 死者十二名、負傷者百二十名だ!」

「そんなコトは貴様に指摘されるまでもない。私は彼らひとりひとりの名前まで、この胸に刻み込んでいる」

「だったら! 俺の言いたいコトはわかるだろう! IRBはどんどん勢力を拡大して、かつ過激になってきている! 早いうちに手を打たなければ、また新たな犠牲者が出るコトになるんだ!」

「おまえの気持ちはわかる。……だが、それとこれとは話がべつだ。暴力で自白を強要していい理由にはならない。なぜなら自白は信用ならないからだ。拷問されれば、早く逃れようと適当なウソをつくかもしれない。たとえ実際には犯人でなかろうと、おこなったコトもない犯行について、ベラベラ語り始める。すると単に冤罪を生むだけでなく、真犯人を取り逃がしてしまうコトにもなるのだ。それにリンチまがいの暴行は、法治国家の理念に反する。どんな重大な罪を犯した人間でも、量刑は裁判によって判決され、執行されるべきだ。そうして罪をつぐなわせたうえで、更生させなければならない。悪人にも改心する権利が与えられているのだから」

「……どきません。俺は、どかない。絶対に」

「石頭め。おまえは名前のとおり、まるで小さな子供リトルチャイルドだ。駄々をこねるしか能がない。いいからどけ!」

 リトルチャイルドのみぞおちに、マイクロフトは強烈なボディーブローを叩き込んだ。リトルチャイルドは悶絶して床に崩れ落ちる。

「マネーペニー! 介抱してやってくれ!」

 邪魔な図体を押しのけて、マイクロフトは取調室のドアを開き、部屋のなかへ足を踏み入れた。

 一目見て、その光景に思わず絶句した。あまりにもヒドイありさまだった。イスに縛りつけられたジェームズ・モリアーティ教授は、ただひたすら拳で殴られ続けたせいで、醜いトロールのようになっていた。部屋の壁や床にところどころ血が飛び散っている。

 長時間にわたる暴行で完全に衰弱しきっており、正直言ってもはや助かる見込みはなさそうだった。仮に医者を呼んだところで、このまま死ぬか病院のベッドで死ぬかの違いでしかないだろう。

「……申し訳ありません、モリアーティ教授。部下がとんだご迷惑をおかけしました。私の監督不行き届きです」

 意識があるかどうかもさだかではないが、マイクロフトは謝罪せずにはいられなかった。単なる自己満足に過ぎないとしても。

 と、モリアーティが何かをしゃべろうとしているコトに気がつく。マイクロフトは聞き逃さないよう、彼の口元へ耳を近づける――と次の瞬間、突然モリアーティに耳を噛みつかれた。

「――何をッ!」マイクロフトはつい反射的に押しのけて、モリアーティのカラダをイスごと突き飛ばしてしまう。

 それにしても危ないところだった。耳から少し出血しているが、傷は小さい。もし拷問で弱っていなければ、耳たぶを噛みちぎられていた可能性もある。そういえばリトルチャイルドも右耳をケガしているようだったが、あるいは同じ目に遭ったのかもしれない。

 床に転がったまま、マイクロフトは笑っていた。とても死にかけているとは思えないほどの高笑いで。縛られているせいで腹を抱えられないのが苦しそうに、必死で身をよじりながら。窮鼠猫を噛むというには、あまりに緊迫感のカケラもなかった。

「……いったい何がおかしい? なぜ笑う……。笑うな!」

 マイクロフトがいくら問いかけようと、モリアーティはけっして答えなかった。言葉を話す気力が残っていなかったのかもしれない。残された命のともしびを、彼はひたすらマイクロフトをあざ笑うコトに費やしていた。そうして、そのまま亡くなった。

 マイクロフトは、そんな彼の姿に、怖気が走るほどの邪悪を垣間見た。彼が実際IRBとつながっていようがつながっていまいが、関係ない。たとえ犯罪者でなくとも、ジェームズ・モリアーティという男はまぎれもなく悪人だ。ほうっておけば、いずれ何かしら犯罪行為に手を染めただろう。そう思わずにいられない何かがあった。

 刑事のカンがハッキリ告げていた。この男はあまりにも危険だ。ゆえに死んで当然だったのだ――と。

 だが、その直感を肯定してしまえば、先ほどのリトルチャイルドの言い分をも認めるコトになってしまう。それはすなわち、マイクロフトの刑事としての信念を曲げるコトを意味する。だから断じて認めるワケにはいかなかった。

 しかし今でも、噛みつかれた耳の痛みとともに、あの笑い声が、ふとしたときによみがえる――。


 マイクロフトが目を覚ますと、もうすぐ夜明けだった。地平線の向こうから朝陽がもれ出ている。

「よォ、ダイジョーブか? だいぶうなされてたぜ。もしかして怖い夢でも見たかい坊や? ロンドンのママが恋しい?」寝ずの番をしていたエドワーズから、焚火で淹れたコーヒーを差し出される。

「……いや。まだ野宿に慣れないだけだ。気にしないでくれ」

 本音を言えば、寝る間を惜しんでハイドを追いかけたいところだったが、それでいざというとき疲弊していては、捕まえるものも捕まえられなくなってしまう。たとえ馬車で揺られているだけでも、相当な体力を消耗する。適度な休息は必要不可欠だ。

 朝陽が昇っていく。世界がまばゆい光で満たされる。南部の荒野には日光をさえぎるものが何もなく、広々とした空と大地にポツンとひとり、おのれの存在だけを感じられる。けれども、だからと言って、抱えていた悩みがちっぽけになりはしない。

「……この地上に、絶対的な悪人というものが存在すると思うか」

 エドワーズはいぶかしげに、「あァン? 何だよ藪から棒に」

「どんな人間でも、心のなかには善と悪が同居しているという話だ。しかし例外として、心に悪しか持たない者がいるとしたら。反省も改心もしない、悪魔のような人間がいたら」

「アンタがどんな答えを期待してるのか知らねえが、そんなヤツは処刑するしかねえ。というより誰もがそれを望み、実行するだろう」

「なぜそう考える?」

「そいつが一片たりとも良心を持たねえなら、誰からも同情を買うコトが出来ねえからだ。悪意しか持たねえ以上、そのおこないにはカケラの善意も正義もねえ。ただおのれの欲望に忠実なだけ。だから容赦なく断罪されて、冷たい土の下へ閉じ込められるのさ。それにジョー・マーチのヤツが言いそうだが、一生牢獄で過ごさせるよりは、棺桶のなかで審判の日まで眠らせておくほうが慈悲深い」

「だが、それは捕まえるコトができたらの話だ。悪党はずる賢い。秩序の網の目などたやすくすり抜けてしまうのでは?」

「どうかな。狡猾さも悪辣さも、踏みにじる対象である善意を理解してこそ発揮できるもんだ。アンタは悪魔のような人間と評したが、悪魔もひとをだますためなら聖書を引用する。そもそも悪魔だってもとは堕落した天使だった。肉体が両性具有であるように、心にも善悪両方をあわせ持つ。だからオレが思うに、もし絶対的な悪人なんてものが本当に実在するとすれば、たいした悪さも出来ねえうちにさっさと目をつけられて、高く吊るされちまうだろうぜ」

「案外、それが正しいのかもしれないな……」マイクロフトはジェームズ・モリアーティの末路を思い出す。彼は死んだ。あまりにもあっけなく。たとえ彼が絶対悪だったとしても、それを発揮できるまもなく死んだ。それが事実だ。

 ふとエドワーズは苛立たしげに、「オレが怖いのはむしろ、善意を持たない悪人よりも、悪意を持った善人だ。偽善者と言い換えてもいい。善と悪を器用に使い分ける者、もしくは善意でもって悪をなす者。連中は聖者を装う悪魔で、そのくせ自分が聖者だと本気で思い込んでいやがる。だからよけいに始末が悪い」

「人種差別主義者のコトかね?」

「ああ。クー・クラックス・クランって知ってるか?」

「いや、知らんな」

「べつに知らなくていいぜ。犬のクソのような連中だ。わざわざ臭いを嗅ぐ必要はねえ。どうせ近いうちに綺麗サッパリ掃除されるだろう。そうでなけりゃア困る。……南部はこんなにも空と大地の境界が明確だってのに、どうして人間も単純になれねえのかな」

「しかたがない。今は夜明け前なのだろうさ。しかしかならず日は昇る。暗闇に怯えて震えるより、寝てしまったほうが賢いのかもしれない。夜更かしはカラダに毒だ。まァもっとも――」

「何の話してるんです?」新十郎が起きて会話に割り込む。「日本は日出ずる国ですからね。西欧列強に追いつけ追い越せで、やがては世界に冠たる大帝国へと成長するハズ」

「オイオイ、何言ってやがる。アメリカは日本より東だぜ」

「えー、太平洋を基準にするのは反則ですって反則」

「そんときは容赦なく叩き潰してやるさ。日本のことわざじゃア、出る杭は打たれるって言うんだろ? 実にいい言葉だ。――ところでマイクロフト、今何か言おうとしてなかったか?」

「いや、なんでもない。気にしないでくれたまえ」

 恥ずかしくなって口には出さなかったが、マイクロフトは思っていた――おのれは夜道を照らすガス灯でありたい、と。人間はただ夜明けを待つばかりでなく、自力で夜を克服できると信じている。

 もしこのとき口をつぐまず、エドワーズに想いをさらけ出していたら、彼はきっとこう返してくれただろう――だが、灯りに照らされたぶんだけ、むしろ影はよりいっそう濃くなる。

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