010

 灼熱の太陽が照り輝くニューメキシコの荒野を、男は亡霊のようにフラフラとさまよい歩いていた。顔色も死体じみて青白く、身に着けた衣服はズタボロ、さらに血と砂ぼこりで汚れている。

 肩に受けた銃弾は貫通しており、すでに止血もほどこしてあるが、それまでに血を流しすぎてしまった。意識がもうろうとして、これが夢かうつつかもさだかではない。今にも空を飛びそうだ。

 先ほどまで乗っていた馬は、バランスを崩して落馬したとき、あるじを置いてそのままどこかへ駆け去ってしまった。この身に引き留める体力など残っているハズもなく、馬の尻を見ているしかなかった。トミー・スタビンズは動物の言葉がわかるなどとよく冗談を言っていたが、今ほどそんな能力が欲しいと思ったコトはない。

 馬でなければ追いつかれてしまう――何に?

 早く逃げなければ――どこへ?

 頭がまわらない。ロンドンの濃霧がかかったみたいに、思考が曇ってまとまらない。どこか二日酔いにも似た気分。ずいぶん長いあいだ酔っぱらっていたせいか、おのれがなぜこんな場所にいて、何をしているのかもわからなくなりそうだ。

「アメリカ……そう、私は今、アメリカにいるのだ……。もはやイングランドに、私の居場所はない……アメリカへ逃げなければ……」

 うわごとをブツブツとつぶやきながら、数マイルほど歩いていたが、やがて力尽きて大地に倒れ伏した。

 カラダから徐々に熱が失われていく。今も太陽の熱で肌を焼かれているにもかかわらず。熱が消えて、精神が去ろうとしている。

 いっそのコト、このまま死んでしまうべきなのではなのかもしれない。もう死んでしまったほうが、きっとラクに違いない。そもそもあの日、いさぎよく死んでおくべきだったのだ。今さら自殺など問題にならないくらい、おのれは罪を犯した。死に損なった結果、さらに多くの罪を重ねるハメになってしまった。

 ――ああ、しかし、だがしかし――死にたくなどない。もっと生きていたい。人生を謳歌したい。なぜなら、まだ満足していないから。まだまだやりたいコトがたくさんあるのだから。

「死にたくない――死にたくない! 死んで、たまるかァ!」

 歯をくいしばって、必死で立ち上がろうとする。けれども力が出ない。むしろどんどん抜けていく。だがけっしてあきらめない。言葉にならないうめき声を上げながら、這いずってでも前へ。

 するとそのとき、横たわるカラダに地響きが伝わって来た。さらにたくさんの蹄の音が響いている。彼は一瞬、とうとう騎兵隊に追いつかれてしまったのかと思ったが、何だか様子が違った。音は逃げ来た方向からではなく、横合いから聞こえている。

 気になって顔を上げてみると、それはテキサスロングホーンの大群だった。おそらく百や二百ではきかない。そしてそれらの牛を追い、テキサス州からコロラド州デンバーまでロングライドする、カウボーイたちが現れた。そのうちのひとりが馬から降りて、こちらをおそるおそる眺めている。レバーアクションライフル片手に、警戒心をにじませて。行き倒れのフリをした強盗を疑っているのだろう。だがこちらの血まみれで憔悴しきった姿と、善良そのものな人相を見て安堵したのか、ライフルを放り捨ててすばやく駆け寄った。

「オイ、アンタ大丈夫か? いったい何があった?」

「その――乗合馬車が、強盗に――襲われ、て――」

「ほら、コイツを飲め」スキットルのウイスキーをひとくち含まされる。するとノドがカッと熱くなり、ボンヤリしていた意識がハッキリしてきた。アルコールの強さに思わずせき込む。

「誰か救急箱持ってこい! 急げ! ――安心しろ。もう助かったぞ。応急処置をほどこしたら、近くの町の医者へ連れて行ってやる」

「――ありが、とう――なんと、お礼を――言ったら――」

「いいってことよ。困ったときはおたがいさまだ。おれはチャールズ・グッドナイト。見てのとおりカウボーイだ。アンタの名は?」

「私――私は――私の名は――名は? 私は誰だ?」

「おいおい、こいつは思ったよりヤバそうだな……」

 とっさに偽名を考える余裕もなく、男はその名を口にしてた。ずっと名乗りたくても名乗れなかった、おのれの真の名前を。

「――ジキル。そう、私は――ヘンリー・ジキル、だ」

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