007
スタビンズたちと別れたのち、マイクロフト・ホームズとピンカートン探偵社一行は馬車で一路、西へと向かっていた。馬の体力限界ギリギリまで飛ばしているため、揺れがかなりひどい。
「おいマイクロフト、スタビンズ博士に訊かなくてよかったのか? モリアーティとハイドが、ソックリな件について」
「博士があれ以上、何か情報を知っているとは思えなかったしな。いたずらに困惑させてしまうだけだっただろう。だったら何も言わないほうがいい。それに、ヘタにモリアーティの話を続けていたら、こちらも訊かれたくない質問をされかねなかった」
「そいつは、アンタがジェームズ・モリアーティの名を聞いたときおどろいてたのと、何か関係があるのか?」
マイクロフトは意表を突かれた様子で、「……気づかれていたとは思わなかった。うまく隠したつもりだったが」
「これでも一応は探偵なもんでね。そのくらいわかる」
「さすがですエドワーズ」新十郎は心底落ち込んだ様子で、「僕はまったく気がつきませんでした。まだまだ未熟ですね」
「ひとの思考を見抜くのは得意でも、感情の機微を察するのは苦手かね? 弟も似たところがある。私もひとのコトは言えないが」
「こればっかりは経験を積むしかねえな。なァに、意識して観察していれば、そのうちおのずとわかるようになるさ。――それでマイクロフト、ジェームズ・モリアーティってのは何者なんだ?」
「彼はダラム大学の元数学教授だった。若干二十一歳で書いた、二項定理に関する論文がヨーロッパで評判となり、その功績で大学の数学部長の座を手に入れた。また『小惑星の力学』という論文で、純粋数学の高見まで登りつめたと言われている。陸軍大佐と駅長の兄弟がひとりずついて、結婚はしておらず子供はいない。私も顔を見たコトはあるが、言われなければわからないほど、若いころの面影は薄かった。頭のなかでハイドとつながらなかったのも当然だ。モリアーティの事件にも参加していたジョン・リトルチャイルド刑事でさえ、まったく気づいていなかったようだしな」
「事件ってコトは、モリアーティは犯罪者なのか?」
スタビンズの話を聞いたかぎり、悪い遊びにかなり精通していたようだった。ならば、必然的に裏社会とのつながりも出来やすく、犯罪に巻き込まれる可能性も大きくなる。そしてついには、みずからが犯罪に手を染めてしまう。ただし悪い遊びのうち、ソドミーはイングランドの法律でまぎれもなく犯罪行為だが。
「モリアーティを単に犯罪者と呼ぶのは厳密ではない。彼のコトはむしろ、こう呼ぶべきだろう――反逆者、と」
反逆者、つまりは国家反逆罪。ある意味では、この世のどんな罪よりも重い罪だ。アダムとイヴの原罪にすら匹敵する。
「……そういえば、モリアーティって名前はアイルランド系だな」
「あくまでルーツに過ぎんがね。ヤツ自身はほぼ生粋のイングランド人と言って支障はない。とはいえ、祖先の故郷に肩入れしたがるのも理解できる。ただし、ヤツ自身が反逆行為に加担したという証拠はなかった。単にアイルランド独立運動に賛成を表明していただけだ。だが今から五年前にIRBが起こした、クラーケンウェル刑務所での爆破テロによって、独立派に対する風当たりは急速に強まっていった。モリアーティも独立派であるコトが問題視され、ダラム大学の教授職を追われてしまった。さらに運悪く、IRB摘発に躍起だったリトルチャイルド刑事がヤツを目に着け、容疑をムリヤリでっち上げて強制連行したというワケだ。私は事件に直接関わっていなかったが、たまたま別件で捜査記録を見る機会があってな」
「ナルホド。コイツはなかなかどうしておもしろくなってきたぜ。見た目だけじゃなくて、思想までエドワード・ハイドと符合してるじゃねえか」
一度逮捕されて警察にマークされてしまったモリアーティは、古い友人だったヘンリー・ジキルを頼り、エドワード・ハイドという偽名を騙ってロンドンに潜伏していた。しかし偽の素性で事件を起こしてしまい、ついには国外へ逃亡するハメになった。そして新天地のアメリカで、本格的にアイルランド独立運動の支援を開始した――そう考えれば、おおよそ筋が通らなくもない。
ただし、ある重大な点を無視すれば、だが。
マイクロフトは失笑して、「……さすがに年齢が違いすぎる。モリアーティは生きていれば五十代だが、ハイドはどう見ても二十代前半の若造だ。それこそファウスト博士のように、悪魔に魂でも売らないかぎり、同一人物というのはありえない。いや、たとえ何らかの若作りが可能だとしても、モリアーティにはハイド足りえない明確なアリバイがある。ほかの誰であろうと、彼にだけは不可能だ」
「聞き捨てならねえなァ。なんだってそうハッキリ言い切れる? そりゃアいったいどんなアリバイだ?」
「初歩的なコトだよエドワーズ。なぜならハイドが現れるより以前に、モリアーティは死亡しているからだ。彼とIRBとのつながりを訊き出そうとした、スコットランドヤードの尋問によってな」
「尋問? 拷問の間違いじゃねえのか? 笑えねえハナシだぜ」
だがそれなら、なぜハイドとモリアーティはソックリなのか。
「ふたりが血縁関係の可能性は? 実子でなくても、遠い親戚とか」
「IRBとのつながりを調べるため、ヤツの血縁者や交友関係については、当時スコットランドヤードがくまなく調べ尽くしている。もちろん絶対にないとは言い切れないが、可能性はかぎりなく小さいだろう。モリアーティには同性愛者の疑いもあったし、偽装結婚すらしていない以上、どこかに隠し子が存在したとも思えん」
「かと言って、単なる他人の空似っていうには、ジキル博士との関係が深すぎる。財産まで残そうとしてたんだぜ?」
「逆じゃありませんか? かつての同性愛の恋人とよく似た若い男を偶然見つけたジキル博士が、ヤツに入れ込んだというのは?」
「ナルホド。一見筋は通っていそうな仮説だが――そいつはほかの仮説がすべて残らず否定されてから、最後の最後に受け入れるべき妥協案だな。じゃねえと捜査が発展しねえ」
「いや、それを言うなら、今ここでハイドの素性について議論するコト自体が不毛だろう。われわれの目的はあくまで、ハイドを逮捕するコトだ。ヤツの正体を暴くのはそのあとでもいい」
「……まァ確かにアンタの言うとおりだ。ヒマだからって推理ゴッコなんぞしてねえで、本人を直接問いつめてやりゃアいいハナシだもんな。オレとしたコトが、ついウッカリしてたぜ」
「言っておきますけど、ヒマなのはおふたりだけですよ。そりゃ馬車に揺られているだけなんだからヒマでしょうとも。その代わり、僕はずっとここで御者をやらされっぱなしですからね。まァ半人前の探偵助手には、分相応な役まわりなんでしょうけど」
「オイオイ、そうムクれるなって。しょうがねえだろォ、オレはどうも馬に嫌われるみてえだから」
「馬のせいにするのはよくない。馬に責任を負わせたいなら、キミの上に馬をまたがらせるべきでは?」
「あァ? んだとコラ、だったらマイクロフトさんよ、アンタが御者やったらどうなんだ? 英国仕込みの馬術をぜひご披露してくれ」
「私に? 馬を操れと? アメリカンジョークも大概にしたまえ。ロンドンで暮らしているかぎり、馬術など必要ない」
「ようするに、アンタも馬には乗れないってコトか」
「いいや違う。乗れないのではない。乗る必要がなかっただけだ。そこのところを間違えないでほしい」
「英国紳士のあいだでポロが流行ってるって聞いたが?」
マイクロフトは得意げにほほ笑み、「よく考えてものを言いたまえ。この私に、ポロなんていっしょにするような友達が、いるように見えると?」
「なァ、それ自分で言ってて、悲しくならねえのか……?」
「あえて言わせてもらうなら、友などいうものはねエドワーズ、この世でバグパイプの次に不要なものだよ。長年続いた伝統だというコトは理解するが、私にとってあの音色は、耳ざわりでしかない」
「へいへい、そうですかい。オレが悪ゥござんしたよ。オレらの依頼人には血も涙もねえってコトがよォくわかった。ってなワケだからシンジューロー、すまんが引き続き御者役を頼む」
「べつに期待してませんでしたよ。僕を犠牲にしているあいだ、せいぜい英気を養っておいてください。乗り心地の悪さはご勘弁を。スタビンズ博士からの情報が事実なら、時間に余裕はありませんし」
「正直、まだ半信半疑だぜ。信じろってほうがどうかしてる。あのひとは魔法使いか何かか? あんな手品を見せつけられたら、マーリンだってこうべを垂れて教えを乞うだろうよ」
昔の写真を見せてくれたあと、スタビンズはハイド逮捕に協力したいと言って、ふたたびかもめのジョナサンをどこかへ遣いにやった。ジョナサンはまたすぐ戻って来て、今度は新聞を運んできた。
「あいにく、今朝の新聞はもう読んだんですがね」
「すごいですね。字が読めるんですか? なら問題ありません」
紙面に目を通して、あの写真を見せられたときに引き続き、三人はとうとうおのれの正気をうたがわざるをえなかった。
新聞の日付は、今日から一週間後――一面記事には、テキサス州エル・パソの銀行でソーヤー一味が白昼堂々強盗事件を起こし、そこへ駆けつけた賞金稼ぎのジョセフィン・マーチによって、その場にいた一味全員が射殺されたと載っていた。
呆然とする三人を眺めながら、スタビンズは愉快そうにほほえんだ。「偉大なるかもめの一羽が、『飛ぶ』というコトを真の意味で理解したのなら、この程度のコトは朝飯前ですよ」
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