003
マイクロフト・ホームズとピンカートン探偵社一行は、州境をまたいで北隣のアーカンソー州へとやって来た。
エルモアは南部では比較的おだやかな田舎町だ。町のあちこちにブラックジャック・オークの木がたくさん生えている以外、これといった特徴がない。一番近くにある鉄道の駅は、八キロも離れている。町全体をのどかな時間が流れている。
おそらく、アメリカに自由を求めて移民してくる者の大半は、きっとこういうのどかな暮らしを夢想しながら海を渡るのだろう。事実、幼いころのエドワーズもそのひとりだった。そして、ニューヨークという現実にたたきのめされたのだが。
「こんななごやかな町に、ハイドが潜伏していると?」
「いや、さすがにそれはねえ。事前に調べたかぎり、ハイドが南部へ逃げたのはほぼ確実だが、エルモアは潜伏先としちゃア落第だ」
治安のよい町というのは、ようするによそ者のいない町でもある。よほど上手いこと身分を偽装しないかぎり、隠れひそむのは難しい。刑期を終えて出所した前科者が過去を捨てるとかならともかく、逃走中のお尋ね者が身を隠すには向いていないだろう。
「ただし、ヤツがこの町を通り過ぎた可能性はある。シカゴから南部へ、そして国境を越えてメキシコへ最短距離で逃げるんだったら、アーカンソー州はちょうどその通り道だ。よそ者は目立つから、誰か目撃者がいるかもしれねえ――まァそこまで期待しちゃアいねえが。むしろ本命は、この町に住んでる情報屋だ」
エドワーズは御者台の新十郎に言って、町の一等地にある一軒の靴屋の前で、馬車を停めさせた。掲げられた看板には〈スペンサー靴店〉とある。エルモアにあるただひとつの靴専門店だ。小さいが店構えは立派で、それなりに繁盛しているのがわかる。
馬車を降りて靴屋に入ると、若い店主がごますりしながら近寄って来た。「いらっしゃいませ。本日はどのような靴をお求めで――」
「よォ、ジミー! 元気か? 店は上手くいってるようじゃねえか」
「げぇっ! バーディ・エドワーズ!」ジミーと呼ばれた店主はひどくあわてて、「チョット困りますって旦那ァ! おれはもう足を洗ったって言ったでしょうが。ラルフ・D・スペンサーと呼んでくれなきゃ。もし万が一、町の連中に聞かれたらコトだ」
「おっと、ソイツはすまねえ」エドワーズはマイクロフトに耳打ちする。「コイツは〈
「聞こえてますぜ旦那。誤解をまねく言いかたはよしてくださいよ。まるでおれが、女たらしのクソ野郎みたいじゃアないですか」
「少なくともテメエが美人の嫁さん捕まえたのは事実だジミー」
「だから! ラルフですって! ラルフ・D・スペンサー!」
「なァにがラルフ・D・スペンサーだ! ええ? DはダンディーのDか? ラルフ・ダンディー・スペンサーか?」
「旦那ァ、ごぞんじないんですかい? 南部の風習じゃア、アルファベット一文字だけのミドルネームつけるんですぜ」
「オイ、いつまでくだらん世間話を続ける気かね?」マイクロフトは苛立った様子で、「そろそろ本題に戻ってくれ。それで、この靴屋のスペンサー氏が、われわれの目的にどうかかわって来ると?」
「おっと、すまねえ。アメリカの強盗でジ――ラルフの世話になったヤツは実際多い。いっしょに組んで仕事したり、金庫ごと盗んだはいいが結局開けられなかったりして、コイツを頼ったワケだ。だからジ――ラルフがカタギになったと聞いて、みんなこの靴屋へカネを使いにやってくる。そしてついでに世間話をしていく。無法者どものあいだでのうわさ話をな。つまりラ――ラルフのもとには、あちらこちらの情報が自然と集まるってコトさ」
「そういうワケです。さァて、本日はどのようなネタをお求めで?」
「エドワード・ハイドって賞金首の行方について知りたい」
「エドワード・ハイド……ああ、ハイハイ、あの偽札組織のヤツね」
「何か手がかりはあるか? どんなささいな情報でもかまわない」
「ハイドねえ……つい最近、ソイツの名前を聞いた覚えがあるような……ないような……うーん……」
エドワーズは自分のサイフから一ドル銀貨を一枚取り出して、スペンサーに手渡した。「コイツで少しは思い出したか?」
「おかげさまで記憶が戻りましたぜ。エドワーズの旦那は、ユニヴァーサル貿易ってご存知ですかい?」
「ああ、南部の綿花を大規模に輸出してる商会だろ」
ユニヴァーサル貿易はここ数年で急成長していて、ニューヨークの綿花取引所を通さずに、各国に設立した支店で直接売りさばいて大儲けしているとか。それを業界大手のリーマン・ブラザーズが煙たがっており、うわさによれば海賊を雇って嫌がらせしているという話もある。
「何でもそのユニヴァーサル貿易の支店に、エドワード・ハイドとよく似た男が現れたってハナシでさァ」
「そりゃまたなんで? 盗みでもしようとしたのか?」
「いや、それが、イマイチよくわからねえんですが、そこの支店長を訪ねて来たらしいですぜ。何か相談事があったみたいで」
「ユニヴァーサル貿易が、裏でお尋ね者と関係していると?」
「うーん……そういうカンでもないっぽくて。どっちかっていうと、何かサギでも仕掛けようとしてたんですかねェ? もしくは盗みの下見とか。実際、偽名を名乗ってたようだし」
「なんて名前だ?」ほかの場所でもその偽名を名乗っているのなら、かなり重要な手がかりになる。
「えーっと、なんだったけなァ……」エドワーズからさらに銀貨一枚渡された。「そうそう、ドリアン・グレイとか何とか」
マイクロフトは目を見開いて、「ドリアン・グレイだと!」
「知っているのかマイクロフト」
「ああ、ロンドンの裏社会では有名な人物だ。見目麗しい美青年で、ここ十年近く見た目が変わらないまま、みずみずしい若さを保ち続けているとか。聞くだに眉唾な話だが、重要なのはそこじゃアない。グレイとハイドは、同じアヘン窟に入り浸っていたんだ。それにふたりとも、同性愛者の疑いがある。おそらく顔なじみだったハズだ」
「だったらハイドが偽名に使っても、なんら不思議はねえワケだ」
それにしても、やはりいったい何の目的があって、ハイドがユニヴァーサル貿易に現れたのか気になる。ロンドンでのソドミーと殺人一件および財産目当ての殺人疑惑、シカゴでの通貨偽造、過去に犯したそれらの悪事と、まるでつながりが見えない。脈絡がないようでいて、何かこちらの気づいていない筋が通っているのだろうか。
「――おっと、そうだ。肝心なコトを聞き忘れるトコだったぜ。それで、ドリアン・グレイを名乗るハイドに似た男が現れた、ユニヴァーサル貿易の支店ってのはどこのヤツなんだ?」
するとスペンサーはわざとらしく小首をかしげて、「……アレ? どこだったけなァ……ノドもとすぐあたりまで出かかってはいるんだけど……ニューヨーク、いやサンフランシスコ……」
エドワーズは、愛用のスミス&ウェッソンモデル3リボルバーをホルスターから抜いて、スペンサーの鼻先に突きつけた。
「悪いが手持ちのカネを切らしちまってな。代わりに鉛でかまわねえか? チャント銀貨一枚分の価値に相当するだけ支払うぜ? えっと、現在の銀相場と鉛相場はいくらだったか……」
スペンサーは額に冷や汗を浮かべ、「イ、イヤだなァ旦那ァ、チョットしたジョークじゃないですかァ。本気にしちゃってもう」
「おまえ、コメディアンには向いてねえよ。靴屋で正解だ」リボルバーの撃鉄を戻して、ホルスターに仕舞った。
「……ドリアン・グレイが現れたのはバージニア州にある、ユニヴァーサル貿易ニューオーリンズ支部でさァ」
マイクロフトは陰鬱なため息をついた。「まったく、とんだまわり道だったじゃアないか……なんだかドッと疲れた……」
「覚悟しとけよ。また同じだけ馬車で揺られるコトになるんだ」
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