002

 ――一八七二年、アメリカ合衆国。バージニア州ニューオーリンズ港。港は南部の綿花を輸出する貨物船で賑わっている。

 十八世紀初頭、脱獄死刑囚だったスコットランド人の殺人犯ジョン・ローは、イングランドからフランスへ逃亡した。フランスは何をトチ狂ったのか、彼に王立銀行総裁の地位と権限を与えてしまう。新たなオルレアンニューオーリンズという幻想に踊らされて、フランスの人々は狂ったようにジョン・ローのミシシッピ会社へ投資し――その結果、世界初のバブルを経験するコトとなった。その負債はのちにフランス革命としてあがなわれ、今やこの地はフランス領の植民地ではない。

 ピンカートン探偵社のバーディ・エドワーズは波止場に立ち、依頼人の来訪を今か今かと待ちかねていた。リヴァプールとの定期船から続々と降りてくる乗客たちを見つめ、その姿を捜す。出航前の電報によれば、この便に乗っているハズなのだ。

「……まさかやっこさん、ニューヨーク行と乗り間違えちゃいねえだろうなァ? こっちはシカゴからわざわざ出向いて来たってのに」

「いやいや、さすがにそんなミスは――あ、もしかしてあのひとじゃアありませんか?」助手の結城新十郎が指で示す。

 大きなスーツケースを億劫そうに抱えて、ひとりの若い紳士が港へ降り立った。かなり背が高く、まわりの群衆から頭が突き抜けている。明るく灰色の瞳は、はるか遠くを見通すようなまなざしだ。

 エドワーズたちは人混みをかき分け、紳士にほうへ駆け寄りながら呼びかける。「ミスター・ホームズ! ロンドン警視庁スコットランドヤードのマイクロフト・ホームズ警部補ですね! お待ちしていました!」

「――ああ、キミたちがピンカートン探偵社のエージェントかね? どうも、私がマイクロフト・ホームズだ」

「ようこそ自由の国アメリカへ。ミスター・ホームズ。オレはバーディ・エドワーズです。こっちの東洋人は助手のシンジューロー」

「どうも、結城新十郎です。未熟ながら、お供させていただきます」

「エドワーズ、キミのコトはピンカートン一番の腕利きと聞いているよ。活躍に期待している。ところで依頼人とはいえ、キミとは歳もほとんど違わないのだし、そうへりくだる必要はない。どうぞ気安くマイクロフトと呼んでくれたまえ」

「そういうコトなら了解だ。よろしく頼むぜマイクロフト」

 マイクロフトはそのアザラシのように大きな手を差し出して、エドワーズとかたく握手を交わした。

「ところで、上司に電報を打っておきたいのだが。無事ニューオーリンズへ着いたと一応報告しておきたい」

「でしたら、僕がひとっ走り電信局に行って来ます」新十郎が遣いを買って出る。「それで、宛先と内容は」

「スコットランドヤードのバケット警視宛てに頼む。『無事ニューオーリンズ港へ到着。さっそく捜査を開始します。Mより』と」

「署名はMだけでよろしいので?」

「いつもそう書いているのでね、それでチャント向こうに伝わる。私はこう見えて無精なタチで、たとえ自分自身の名前であろうと、MYCROFT HOLMESなどと長々つづりたくはないのだ」

「ナルホド。では、しばしお待ちを。すぐ戻ってまいりますので」

 マイクロフトは、電信局へ駆けていく新十郎の背中を見送りながら、「彼は日本人だな。名前の響きがそうだ」

「そうだぜ。なんでも五年前に、友人とニュージャージー州のラトガース大学へ留学して来たんだと」

「ほう。五年前といえば、確かそのころの日本は内戦まっただなかだったハズだが。彼はよほど位の高い家柄か」

「そのいっしょに留学した友人の父親とやらが、江 戸 幕 府トクガワ・ショーグネイトのお偉方だったとかなんとか。あんまり詳しくは知らねえけど」

 大学を卒業後は海軍兵学校アナポリスへ進学する予定だったらしいが、なぜか新十郎はそれを蹴って、ピンカートン探偵社に入社してきた。理由を訊いても本人ははぐらかして答えようとしない。

「マイクロフトは黄色人種がお嫌いで? そういやアングロ・サツマ戦争じゃあ、英国は日本人に煮え湯を飲まされたんだったか。もしどうしてもガマンできないなら――」

「いや、むしろ日本人は大変興味深い。東洋の神秘には心惹かれるものがある。そういうキミのほうは?」

「オレは南北戦争シビルウォーで北軍の一兵卒として、黒人奴隷解放のために戦ったんだぜ? 代わりに黄色人種を差別なんてしねえさ。シンジューローは、無表情で何考えてるかわからねえトコはあるが――」

「いや、彼のほうではなく私のコトだ。イングランド人が依頼人なのは不満ではないのかね? アイルランド系ならば普通、イングランド人と積極的に関わりたいとは思わないだろう」

 不意を打った指摘に、エドワーズは息を呑んだ。「……なんでオレがアイルランド系だってわかった?」

「言葉のイントネーションに、わずかながらアイルランド訛りがあった。それに、瞳の奥に宿るイングランドへの憎悪が隠し切れていない。大英帝国では言わずもがなだが、ここアメリカでも、アイルランド系移民はイングランド系に迫害されていると聞く」

「……みくびってもらっちゃア困るが、オレは仕事とプライベートは分ける主義だ。それが仕事であるかぎり、依頼人がイングランド系だろうとスコットランド系だろうと、ヒスパニックだろうとケイジャンだろうとアジア系だろうと、そしてもちろん黒人だろうとオレは差別しない。カネさえチャント払ってくれるならな」

「結構。私はアイルランド人を見ると虫唾が走るがね。――冗談だ」

「アンタはひとを怒らせたいのか? オレの気が長くてよかったな」

「よく言われる。怒らせついでにもうひとつ訊くが、馬車は屋根付きで揺れのひどくないを手配してくれたかね?」

 この言葉に、エドワーズはまたも驚愕せざるをえなかった。スコットランドヤードからは、事前に馬車を用意するように頼まれていなかった。けれども、実際エドワーズは馬車を手配していたのだ。

「なに、カンタンな推理だよエドワーズ。この広大なアメリカの地で犯罪者を追跡するには、馬を使ったほうが断然都合がいい。しかしキミのズボンを見ると、穿き古しているわりに股がほとんど擦れていないな。おそらくキミは、乗馬が苦手なのだろう? ゆえに馬車をよく利用していると判断した。その証拠に、ズボンの尻だけ生地が薄くなっている。乗馬だと絶対にそうはならない。とすれば、ふだんから激しく揺れる馬車に座っているせいだ」

「カンチガイされたくねえから言っておく。オレはべつに馬が怖いワケじゃアねえ。まわりがうっとうしいくらい必死で止めるから、しかたなくガマンしてるだけだ。練習さえすればすぐ乗れる」

「まァ、ここはそういうコトにしておいてあげよう」

 そこへ、新十郎が二頭立ての幌馬車を御して戻ってきた。「お待ちかねの馬車ですよ。ミスター・ホームズ」

「……今の話が聞こえていたのかね?」

「初歩的なコトですよミスター・ホームズ。見たところあなたの靴おろしたてでもないのに、靴底がまったくすり減っていませんでしたから。ロンドンでは署から一歩も出ないんですか?」

「出かける必要がないからね。あちこち聞き込みをしたり、証拠を探して駆けずりまわったりするのは、べつに私でなくともほかの人間にだって出来る。しかし集めた手がかりを総合し、たったひとつの真実に結実させるとなると、並みの頭脳では務まらない。キミもなかなか見どころがありそうだ。うちの弟とイイ勝負ではないかな」

「へえ、あなたによく似て弟さんも賢いワケですか」

「いやなに、私と比べれば数段劣るがね。その代わり、弟は私と違って行動的な人間だ。私などよりはるかに刑事という職業が向いているだろう。ただし、警察組織にはまったく馴染めそうにないが」

「おふたりさん、オーギュスト・デュパンに憧れるのもけっこうだが、モルグ街みたいな密室殺人事件なんてのは、現実じゃアそうそう起こりっこねえもんだ。ましてやこの、アメリカではな。特に西部の無法者どもには、犯罪を恥じて隠すつつしみってヤツがまるで欠けていやがる。殺したい相手には弾丸を脳天に一発ズドン! カネが欲しけりゃア銀行を襲う。奪い、殺す、ただそれだけ。連中には罪を犯しているつもりなんかねえ。単に法を無視しているだけのさ。だからこの国に、推理する探偵なんざお呼びじゃねえ。逃げられたら追いかける、撃たれたら撃ち返す、それがアメリカの探偵だ」

「口うるさい母親のように言わずともわかっている。英国では泣く子もだまるスコットランドヤードとて、この国ではシロート同然だというコトくらい。だからこそ頼りにしているぞピンカートン」

「ああ、大船に乗ったつもりでまかせておけ。報酬分の働きはキッチリさせてもらう。やっこさんが隠れるハイドなら、こっちは捜すシークさ」

 マイクロフトのスーツケースを荷台に積みこんで、みな馬車に乗り込む。座席の座り心地は正直そこまでよくはなく、マイクロフトは不満げである。文句を言いたげな目でエドワーズをジッと見つめる。ケツが破れないよう気をつけろ――と言いかけたがやめておいた。よけいなお世話だろう。

 エドワーズは視線をそらして、「さァて、おたがいの自己紹介も済んだコトだし、そろそろ現状と情報をひとまず整理しておこうか。今回オレたちが追う獲物――賞金首エドワード・ハイドについて」

 今からさかのぼるコト半年前、財務省秘密捜査部――シークレットサービスがシカゴの偽札流通網を壊滅させ、偽造用原板を回収した。それに加えて、偽造組織のメンバーを一斉検挙しようとしていたのだが、あろうことか主犯格三名を逃すという大失態を犯してしまう。

 その逃げた三名とはロジャー・プレスコット、ジョナス・ピント、そしてエドワード・ハイドだ。連邦政府はすぐさまこの三名に懸賞金をかけ、全米で指名手配した。するとこの動きに、スコットランドヤードがこれに反応してきた。実はエドワード・ハイドは、英国から逃亡した犯罪者だったのだ。英国はハイドの身柄を確保するため、ピンカートン探偵社に協力を依頼し、バーディ・エドワーズと結城新十郎がシカゴから派遣されたというワケだ。

「あー、そういえば、ハイドは英国で何をやらかしたんだっけか?」

「同性愛とそれに伴う肛門性交、国会議員ダンヴァース・カルー卿殺害容疑、およびヘンリー・ジキル博士失踪事件の重要参考人だ」

「最初の二件はまァいいとして……最後のひとつだけ、ただの重要参考人ってあつかいなのが気になるんだが」

「それに関しては、正直われわれのほうでも不明だ。ハイドがジキル博士を殺して、死体を隠したという噂がかなり有力だったが、あいにく証拠は何ひとつ見つかっていない。とりあえずハッキリしているコトは、医学博士、比較法学博士、法学博士、王立学会特別研究員のヘンリー・ジキルが、友人の弁護士ガブリエル・ジョン・アタスンに、自分が死亡もしくは三ヶ月を超えて行方不明になった場合、すべての遺産をエドワード・ハイドへ相続させる遺書を残したあと、しばらくして経ってから実際に失踪した、という事実だけだ――もっとも彼が失踪した時点で、すでにハイドは殺人容疑で逃走中だったから、相続はおこなわれなかったが。ジキルとハイドが具体的にどういう関係だったのかも、いっさいわかっていない。初老の紳士と粗野な若者が、いったいどこでつながったのか」

「もしかして、隠し子とかじゃねえのか? ありがちな話だ」

「それだったら正直に明かしていたほうが、妙な憶測を呼ばずに済んだだろうさ。ジキル博士は独身で、同性愛者の疑惑もあった。隠し子がいたほうが、むしろ世間体はよかっただろう」

「……それにしても、ハイドがロンドンとシカゴでそれぞれ犯した悪事は、ずいぶんおもむきが違うような気がするぜ? アンタにロンドンからはるばる来てもらってなんだが、別人の可能性は?」

「手配書の人相書きを見たかぎり、確実に本人で間違いない」

「まァそりゃそうだ。こんな悪人ヅラ、見間違えようがねえ」

 エドワーズはわざと知らないフリをして、マイクロフトから情報を訊き出してみたが、事前にこちらで調べた内容と齟齬は見受けられない。てっきりおおげさに誇張するものと予想していたが。

 正直ハイドの英国での罪状が、海外へ捜査官を派遣するほどのものには思えない。どう考えても時間のムダづかいだろう。ほかに凶悪犯はいくらでもいる。ハッキリ言ってうさんくさかった。

 独立戦争以来、英米の関係は控えめに言っても芳しくない。連邦政府に対して、正面からハイドの身柄引き渡しを要求しても、おそらくすげなく突っぱねられるのがオチだろう。ゆえにピンカートン探偵社を雇って、自分たちで捕まえようという魂胆だろうが、もしこの事実が発覚すれば、わりと深刻な外交問題になりかねない――いや、おそらく確実に争いの火種となる。そのリスクにハイドが見合うとは、どうしても思えない。おそらくハイドに関して、何かこちらには明かしていない裏事情があるのではないだろうか。これはカンだが、ヘンリー・ジキルに関係する部分が怪しい気がする。

 それに、ハイドには何やら奇妙なうわさがあるのだ。あまりにも現実離れしていて、にわかに信じがたいうわさが。

 ――とはいえ、社長が依頼を受けると決めた以上、エドワーズたちはその命令に従うだけだ。連邦政府の都合など知ったコトではない。私立探偵はカネ払いのイイ依頼人の味方なのだ。

 エドワーズは気を取り直して、話を続ける。「実のところ、オレたちを取り巻く状況は、あんまり悠長にかまえていられる場合じゃねえ。もちろんほかの国でもそうだろうが、通貨偽造は重罪だ。しかもハイドは逃げるとき、あろうことか馬を盗みやがった」

 マイクロフトは不思議そうに首をかしげ、「必死で逃走していたのだから、馬くらい平気で盗むだろう? それがどうした」

「確かにアンタの言うとおりだ。何もおかしくない。ただし、アメリカの法律じゃア、家畜を盗んだ野郎は問答無用で縛り首にされる」

「……もしや、今のがアメリカンジョークというヤツか?」

「笑えねえだろ? でも、あいにくそれがアメリカの現実なんだ。しかも輪をかけて笑えねえコトに、手配書には〈生死を問わずデッドオアアライヴ〉とある。こういう場合に賞金稼ぎは、ウッカリ床に落とした生卵が割れるのと同じくらいの確率で、ターゲットを見つけたその場で撃ち殺す。賞金首を近場の保安官事務所で換金するには、死体で運んだほうが世話ねえからな。仮に賞金首が運よく生け捕りにされたとしても、保安官に引きわたされた翌朝には、判事が流れ作業で縛り首を言いわたす。そして昼には町の広場で公開処刑だ。言うまでもねえだろうが、英国への身柄引きわたしに、よろこんで応じてくれる州があると思うなよ」

 不幸中の幸いというべきか、本来一番の競争相手になるハズだったシークレットサービスは、ほかふたりの追跡と、市場に出回った偽札の回収に躍起で、ハイドまで手がまわっていないようだ。原板職人のプレスコットや、流通を仕切っていたピントと比べて、組織の人材集めが役割だったハイドは、比較的軽視されているらしい。

「とまァそういうワケだから、ノンビリ西部を観光ってワケにはいかねえぜ。ザンネンだったな」

「……思っていた以上に野蛮な国のようだな、このアメリカという国は」マイクロフトは心底軽蔑したまなざしで、「この世のなかに、真の意味で悪人など存在しない。ひとは犯罪者として生まれるのではなく、貧困をはじめとする周囲のさまざまな環境が、ひとに罪を犯させてしまうのだ。善人が負の感情をまったく抱かないコトが不可能なのと同じように、悪人も少なからず良心を持っている。ゆえに更生するチャンスは、等しく与えられるべきだ」

「そうかい。オレはそう思わねえ。誰の心にも善悪両方が宿ってるって意見には賛成だ。犯した罪を反省するのも改心するのも、ソイツの好きにすりゃアいい。……けどな、それとはべつに、相応の報いは受けさせるべきだ。心に悪を抱えているコトと、実際に悪事を働くコトを、同列に語るべきじゃアねえ。どんなに貧乏でもまっとうに生きてる連中だっているんだから、不公平だ」

「見解の相違だな。どうやらキミとはわかり合えそうにない」

「同感だ。まったく、これだからイングランド人ってヤツは」

 エドワーズが冗談めかしてそう言うと、マイクロフトは何がツボにはまったのか、腹を抱えて笑った。

「……ところでスッカリ聞き忘れていたが、この馬車はホテルへ向かっているんじゃないのか? 私の気のせいだろうか。だんだんまわりの景色がさびれていっているような……」

「だから悠長にしていられる状況じゃねえ、って言っただろ。ノンキに港町で一晩明かす余裕があるとでも?」

「……私は長い船旅で、カラダに疲れが溜まっているのだが」

「嫌ならわざわざこんな国まで出向いて来ずに、ロンドンの屋敷で安楽椅子にでも腰かけて、依頼達成の電報をひたすら待ってりゃアよかったんだ。それとも、このニューオーリンズでお留守番してるか? オレはべつにそれでもかまわねえぜ? 放し飼いがアンタの主義か?」

「いいや、冗談じゃアない。私は何が何でもハイドを生け捕りにして、かならず英国へ連れて帰らなければならないんだ。何もかもひとまかせにして、のうのうと安心していられるか」

「よく言った! だったら何も文句はねえよなァ? 心配しなくても南部は気温が高いから、野宿も比較的ラクだし」

「おお、天にましますわれらが父よ! この迷える子羊に試練をお与えくださりありがとうございます! この十九世紀もなかば過ぎた現代に、まさか野宿とは! さすがに世俗離れしてますね!」

 マイクロフトは天を仰いで、深々とため息をついた。

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