001
一八八九年、英国領セントヘレナ沖――。旅客船パルミラ号は南アフリカのケープタウンへ向けて、さっそうと波を切り進んでいく。たとえ強い向かい風が吹いていようと、最新鋭の
甲板で全身に潮風を浴びながら、バーディ・エドワーズはどこまでも続く水平線をひとり眺めていた。妻のアイビーはひどい船酔いになってしまい、船室で寝込んでいる。今この場所にはちょうどほかの客も、船員も、近くにいないようだった。まるで世界で最後の人類になったかのような錯覚におそわれる。船上で海を見ていると、エドワーズは毎度そういう気分になる。
こうして船に乗って海を渡るのは、人生で三度目だ。一度目は幼いころ両親とともに、抑圧されたアイルランドから自由の国アメリカへ渡ったとき。二度目は、ギャングを敵にまわしてアメリカから追われ、イングランドへ逃れて来たとき。そして三度目は、イングランドから逃げるハメになった。
思えば、ずっと逃げてばかりの人生だったような気がする。自分は何も悪いコトなどしていないというのに。忌まわしい過去は、どこまでもどこまでも彼の背後につきまとってくる。まるでおのが影のごとく。サセックスでの穏やかだった五年間も、ついに終わりを告げてしまった。
今回の『恐怖の谷』にまつわる事件で、正直もう逃げるのはウンザリではあった。だがしかし、シャーロック・ホームズの深刻な忠告を聞き流すワケにもいかない。彼が妻のアイビー宛てに送ってきた手紙には、こう記されてあった――『彼がこれまで逃れてきたよりももっと危険な組織がここにはある。イングランドにあなたの夫の安全はありません』
英国一の名探偵をそこまで警戒させる組織とは、いったい何なのか。想像するだに寒気がする。海風に当たりすぎただろうか?
と、足音を響かせて、誰かが甲板へと階段を昇ってくるのが聞こえた。「――お客様、風が強くなってまいりました。そろそろ船室へお戻りになっては?」
「ああ、すまない。そうさせてもらおう――」エドワーズが振り返ると、そこにいたのは明らかに船員ではなかった。
その男は、非常に高身長だが背中は丸まり、やせ細っていた。白い額は弧を描いて突き出て両目は深く落ちくぼみ、ひげがきれいに剃られた顔は青白く、さしずめ苦行者だ。どこか爬虫類じみた雰囲気がある。エドワーズはまるで、ヘビににらまれたカエルの気分になった。
「ひさしぶりだな、バーディ・エドワーズよ。――いや、今はジョン・ダグラスと呼ぶべきか」
「ひさしぶり、だと……? オレは貴様なんぞ知らない」
「田舎紳士の仮面が剥がれかけているぞ? 確かにこうして顔を合わせるのは初めてだ。しかし、われわれはすでに出会っているのだよ。一八七二年にアメリカで」
「一八七二年……?」
「かつてピンカートン探偵社一番の腕利きと称されたキミにしては、妙に察しが悪い。五年間の安寧がキミを鈍らせたと見える。……とはいえ、名乗りもしない私が不作法だったか。あらためて自己紹介しよう。私の名はジェームズ・モリアーティ教授だ」
「モリアーティ」その名を聞いたエドワーズは、すべて得心がいった。「……ナルホド、モリアーティときたか。そうかそうか。そういうコトか……。ようやく合点がいったぞ。あのシャーロック・ホームズがおそれていたのも、つまりおまえというワケか」
「ああ、そうだ。スッカリ思い出してくれたようだな」
エドワーズは苦笑する。「皮肉なもんだ。おまえほど正義を愛し、人類の善を信じていた者はいなかったというのに。それがどうだ? 今や悪の帝王にふさわしい風格じゃアないか」
「いいや、今でも信じているとも。私はひとの善良さを誰より信じている。誰の心にも宿る尊い光を。けれども、その一方で私は、ひとの悪性を疑う。ゆえにこそ、私は悪を生み出し続けるのだ。そんな私のコトを、ホームズ君は〈犯罪界のナポレオン〉と呼ぶがね」
「ナポレオンか。言いえて妙だ。それで? 皇帝陛下おんみずからお出ましとは、いかな理由がおありか?」
「本来、私はおもてに出ない主義なのだが、今回ばかりは特別だ。キミには世話になったし、直接お別れを言いたかった」
「……オレを殺しに来たのか?」
「殺す? いいや、私は自分の手を汚さない。なぜならキミは、みずから海へ飛び降りるのだから」
「まさか、従わなければ妻の命はないとでも言う気か? アンタにしては陳腐な手だ。確かに彼女を愛してはいるがね、アイルランド人がカトリックなのを忘れちゃアいないか?」
エドワーズのふところには、長年使い慣れたスミス&ウェッソンのリボルバーが隠されている。手下が何人いるかは不明だが、モリアーティを人質にすれば勝機はあるだろう。
モリアーティは肩をすくめ、「キミの考えはお見通しだよエドワーズ。私が何の対策もなしに、ノコノコ姿を現したと? ――奥さんの不調の原因が、船酔いでないと言ったら?」
「――貴様ッ! アイビーに何をした!」
モリアーティは上着のポケットから小瓶を取り出して、「この解毒剤を、あと三十分以内に投与しなければ、かわいそうにキミの奥さんは死ぬ。欲しいかね?〝求めよ、さらば与えられん〟」
次の瞬間、モリアーティは小瓶を海へ投げ捨てた。とっさにそれを追って、エドワーズは船から飛び降りる。
船の上から、モリアーティが半笑いで呼びかける声がする。「安心したまえ。奥さんに毒を持ったというのはウソだ。ただの船酔いだから、すぐよくなる。当然、今投げたのも解毒剤などではない」
どうせそんなところだろうとは思っていた。しかし、無視するワケにもいかなかった。そこを完全に見透かされた。
エドワーズは泳ぎが得意だから溺れるコトはないし、海水は温かいので凍える心配もない。それにこの海域はセントヘレナ島に近く、多くの船が頻繁に往来している。さすがにパルミラ号へ戻るのはむずかしくとも、生き延びるのは不可能ではない。
もっとも、仮にも犯罪界のナポレオンとあろう男が、そんな生易しい罠を仕掛けるハズがない。
小瓶の栓は、塩か何かを固めて作ったものだったらしく、海水に浸かるとすぐさま溶けはじめ、中身の液体がもれ出てきた。その赤い液体――血液はみるみるうちに海中へ拡散していく。
すると血の臭いに誘われ、獲物を求めて海のギャングがやって来た――血に飢えた人喰いザメが。
鋭い牙のビッシリ並んだ大口が眼前へと迫るなか、エドワーズの脳裏を一八七二年の出来事が、走馬灯のように駆けめぐる。思い起こせば『恐怖の谷』ではなく、アレがすべての始まりだったのだ。
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