或る会社員の喜劇

緑茶

或る会社員の喜劇

 昔々、いや、ひょっとしたら今かもしれないし、この先かもしれない。

 一人の中年男性がおったそうな。彼はといえば意気軒昂、熱血硬派なサラリーマン戦士としてとある商社に勤めており、大変な働きをしていたという。


 その働きぶりといえばもはや周囲の尊敬を通り越して崇敬に近い有様の感情の寄せ集めを一手に集める始末で、朝は誰よりも早く会社に訪れて、夜は誰よりも遅く帰るという生活を続けていたそうな。

 そんな彼の理念というものはただ一つで、それはもう企業奉仕という四文字以外に何もなかったそうだ。

 無論付き合いのゴルフや飲みの席においても全力投球、休日での家族サービスも忘れない。しかしながらそれらはすべて、ひとえに『会社のため』であった。彼には自分というものがなく、会社に入る以前の彼は彼ではない別の何かであったのかもしれない。とにかく、もはや恐ろしいまでの企業戦士であるということだった。


 だが、いくら鉄の行動力と精神力を併せ持つ彼であったとしても、寄る年波には勝てないものだった。年々疲労が体に溜まって、思うように動けない状態が続くようになった。そうなれば企業戦士たる彼は憤り、己を恥じ、社屋の中に滝でもあれば毎日浴びにいかんばかりのありさまであった。


 そんな彼の身を案じたのは、彼の長年の上司であった。彼は温厚でとにかく立派な人格を持った男であり、全ての部下から慕われていると言っても過言ではなかった。

 そんな上司は、全力を出しているにもかかわらずどこか空回りを続ける部下を気遣った。それからある時、彼に向かって言ったのであった。


「きみ。仕事に注力するのはいいが、もう若くない。二十代の頃と同じような力を出し続けていては、いつしか大きな失敗を被ることになるよ。どれ、ろくに休みなど取っていないのだから。私が上に話をつけてやるから、君は休みを取ってハワイにでも行ってきなさい」


 企業戦士は雷に打たれたかのように感動した。上司の言葉は絶対であり、そこからもたらされたものは箴言とでもいうべきものだからだ。

 その彼が――よもや、この私に休みなどをくれようとは! しかも彼は言った、ハワイなどと! そんなもの、この会社に入ったときから一度も考えたことがなかった――あぁ、なんということだ! なんとしても私は全力で休日を過ごさねばならない! 自分のため、つまりは会社のために!


 思いたてばすぐに行動ということが何よりも大切だと彼は信じていたから、帰宅するや否や妻にハワイ行きを告げた。そして、困惑する彼女を無視して、決断的速度で荷物をまとめあげ、空港へと旅立ったのである。


 しかしながら――連日の悪天候により、空港では幾つもの飛行機が運行を見合わせていた。他ならぬハワイ行きもその一つであった。


 彼は待った。待ち続けた。


 なんとしても、ハワイに行かなければならない。そして、休みを満喫しなければならない――そこに、妥協は許されないのだから。

 彼は何時間も待った。そして粘り強く交渉を続けた。

 しかし、天候を変えることなど出来やしない。

 相変わらず外は雷雨で、彼のいらだちは募るばかりだった。


 ……どれほど空港での軟禁がつづいたのだろうか。

 彼は余裕をなくし、やがて一つの極端な思考にたどり着いていた。


 それは、この私がハワイに行かなければならないのに、なんという怠慢だ――という境地だった。

 明らかに彼は正気を失っていた。しかし止める者など誰も居ない。周囲には、彼はただのサラリーマンにしか見えていない。

 彼は怒りに打ち震えて、自分がこれから何をすべきかを全精力を以て計算した。そこには彼が会社に捧げてきた人生、その全てが込められていた。彼にとってハワイ旅行というのは、これまでの彼の全てが試されているようなものだ――そういう理解がそこにはあった。


 嵐が、空港の大きなガラスを打ち据えた。


 彼はその光の反射の中で答えを見つけ出し、そして行動に移りはじめた。


 彼の心は――歓喜に満ちていた!!




 丸一日ほど経過。

 空港にほど近い海辺で、一人の中年男性が溺死体で見つかった。

 その無残な亡骸は、ハワイ行きのチケットを強く強く握りしめていた。

 誰かが、この男は雷雨の中、ハワイまで泳いでいこうとしたのではないか、と言った。

 するとすぐさま、周囲の者達がその突拍子もない考えを一笑に付した。


 それからしばらく後には、もう誰もその男のことを覚えてはいなかった。

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