三、
綺堂、夏芽、辰之助の三人は、祭りで賑わう街の中央通りを歩いていた。人間の臭いが取れてしまった夏芽に目をくれる妖怪は最早居ない。綺堂は終始、扇子で顔を隠しながら歩いていた。眉間に皺が寄っている。祭りが余程嫌いなのだろう。夏芽は辰之助に、
「綺堂さん、お祭り相当嫌いなんだね」
「旦那は生まれてきたときから祭りが嫌いなんでさあ。誰も理由は知りやせん。聞いても、教えてくれないんでさあ」
辰之助は残念そうに肩をすくめた。
「姉さんは祭りは好きですかい?」
「うん!大好きだよ!お祭り、毎日行きたいくらい!賑やかだし、楽しいし」
夏芽は目を輝かせた。
「私の街には、お祭りが年に三回しかないの。夏祭りと、秋の収穫祭と、冬の霜月祭り。だからその百倍もお祭りがあるこの街が羨ましいよ」
「じゃあ姉さん、今度綺堂の旦那に内緒で、二人で祭り行やしょうよ」
「夏芽さん」
唐突に綺堂が言った。
「妖怪というものはね、人間を驚かすために人間が作り出した幻想だ。それ故に、向こうの世界で人間を驚かすことは出来ても、自ら手を下すことは出来ない、それは先ほど言ったね?でも、妖怪が現れることで、人間世界に“影響”を及ぼすことはある。僕はそれを懸念している」
「影響って、例えばどんなですか?」
「それは、今君が感じているようなことさ」
「私が?」
「ああ。妖怪がやったと思い込んで、本物の犯人を野放しにしてしまうことがあったとしたら、それほど恐ろしいことはないだろう。人間は今まで、何かと妖怪や神の所為にして生きてきたのだから。まあ、人喰い女が本当に人間世界で人を殺していたとしたら、話は解決するがね」
言ってから夏芽の見えないところで、綺堂は辰之助の耳を引っ張った。
「旦那!痛いですってい!」
「いいか、夏芽さんにちょっかい出すことは僕が許さない」
「へ、へい、すいやせん、そんなつもりじゃ」
夏芽は物欲しそうに、綿飴屋を見ていた。綺堂はその横顔に気付くと、綿飴屋の娘に、
「綿飴二つ」
「お兄―さんありがーとう。三文だーよ」
おかっぱ頭の娘は、綺堂に綿飴を二つ手渡した。よく見ると、先日“あの学校”で出会った“座敷童”である
―――アルバイトかなあ?
座敷童は夏芽を見ると、
「あー。あの時の人間だー」
と言ってにっこり笑った。
「夏芽さん」
綺堂は綿飴を二つ差し出すと、
「君にあげるよ」
「旦那、旦那、あっしの分!」
「ぎょろ眼の分は無い」
ぶっきらぼうに言ってそっぽを向く綺堂。夏芽は苦笑しながら、綿飴を一つ辰之助に渡した。
「夏芽姉さん……恩にきりますぜい」
「いや、綺堂さんも、最初から辰之助くんにあげるつもりで二個買ったんだと思うよ」
夏芽は笑った。きっと、綺堂は照れ屋なのだ。特に、辰之助に対して。綿飴を口に運びながら、綺堂にもそんな可愛らしい一面があるのだと思うと、夏芽は微笑まずにいられなかった。
綿飴を頬張りながら、突然夏芽の胸に切なさがこみあげてきた。この世界の住人は皆、人間の世界で不要とされて捨てられたものたちなのだ。今会った座敷童も、昔はよく怪談話に出てきただろうけれど、今は殆ど聞かなくなった。
「私、この世界の人たちに申し訳ないです」
綿飴を口に運ぶのをやめて、夏芽は下を向いた。
「私たち人間の身勝手な行いの所為で捨てられたものたち。その人たちが、行き場を失ってこの世界に来たんですよね?思い出したりしないんでしょうか。辛くないんでしょうか」
「夏芽さんがそんなこと心配する必要は無いよ」
綺堂は扇子で一仰ぎした。
「見てわかるとおり、この世界はこんなにも華やかで、賑やかで、楽しい―――まあ、僕は楽しくないが。捨てられたことを気に病んでいる妖怪なんて、一人も居やしないさ、人間を恨んでいる奴もね。寧ろ、この世界に満足している。奴らは奴らなりに、僕らは僕らなりに充実した生活を送っている。人間が、この世界の住人の事を思い出してくれるとしたら、勿論それが奴らの本望って奴だろうが、そうでなくても決して奴らは不幸じゃないんだよ。見てごらん、この祭りを。これが答えさ。笑っていないモノは一人も居ない。皆、ここでの生活を楽しんでいる。“セカイ”は平等に作られているんだね」
夏芽は、祭りで賑わう街並みを見回した。確かに、綺堂の言うとおりだ。向こうの世界の人間と同じように、いやそれ以上に、ここに居る妖怪たちの笑顔は美しい。穢れのない笑顔だ。。
「さて」
綺堂は立ち止まった。
「もうすぐ人喰い女の家だ」
気付けば祭りの賑やかな雰囲気は何処かへ消え去っていた。辺りは薄暗く、生臭さが漂っている。夏芽は思わず鼻をつまむ。この臭いには覚えがあった。この場所は、あの時、人喰い女に連れ込まれた路地だ。夏芽は恐怖を思い出し、身震いする。地べたに無数の人間の頭部が転がる。嗚咽が漏れた。
「大丈夫ですかい?姉さん」
「うん……私、妖怪さんたちと違って、こういう、なんていうか、グロテスクなのやつ見慣れてないから……」
「グロテスク?」
言ってから辰之助は目の前に転がる頭を拾い上げてみせた。
「これですかい?」
思わず口を押える。辰之助は、死んだ人間の頭を触っても平気なのだろうか。
ははは、と綺堂が笑った。
「夏芽さん、これは“人型”だよ。マネキン」
え?
思わず近寄って、よく見てみる。整った顔、首のキレイな断面、艶のない髪……。
「本当だ……」
「妖怪ってのはね、“イメージ”が大事さ。人喰い女は人を食べなければいけないだろう?口裂け女は口が裂けてなければいけない。ろくろ首は首が長くなければいけないし、座敷童は子供じゃなきゃいけない。これは人喰い女が人喰い女である為の演出だよ」
気味の悪い演出である。しかし、それがこの世界なのだ。綺堂はマネキンを蹴とばした。
「さあ、行こう」
転がるマネキンを見て、夏芽は、やはり気味が悪いことに変わりはない、と青ざめるのであった。
三人は歩みを進めた。暫く行った所に、この陰気で辺鄙な雰囲気とはあまりに異なる、豪華で立派な邸宅があった。赤色の屋根、庭には様々な種類の花たちが咲いている。レンガ造りのその家は、“人喰い女”という妖怪が住んでいるとは思えないほど、優雅であり、可憐な豪邸だった。
人喰い女の家には、綺堂の家とは違って、インターホンがついていた。この世界にもインターホンがあるんだ、そんなことを思っていると、綺堂はそれに目もくれず、ドンドン、と勢いよくドアを叩き始めた。
「おい!人喰い女!居るんだろう!出て来い!」
ドンドン、と尚も叩き続ける。
「おい!聞こえないのかこの人喰いめ!」
「き、綺堂さん、人喰い女に“人喰い女”は禁句なんじゃ……」
「ああ、あれは“虚言”だよ」
「へ?」
ドンドン、綺堂は夏芽の質問に答えながら、ドアを叩き続けた。西洋式の立派なドアだが、いつ綺堂に破壊されてしまうかわからない。
「おい!人喰い女!」
「うるっさいね!」
家の中から、金切り声が聞こえた。綺堂が一歩後ろに引くのと同時に、物凄い勢いでドアが開いた。
「綺堂壱紀!あんたね!こんな真夜中に五月蝿いんだよ!それも人喰い人喰いって、あたしゃその呼ばれ方が大嫌いなんだ!わかって言っているだろう!ええ?それにインターホンが付いているのが見えないのかい!あんたの目は節穴か!」
波奈野目優子は目を吊り上げて、そこまで一気に言い終えると、綺堂の後ろで待機していた夏芽と辰之助の存在に気付き、目を見開いた。
「おや、辰之助。どうしたんだい、こんな時間に、それに……」
夏芽を見て舌なめずりをする。
「あたしに晩飯でも用意しに来てくれたのかい?」
夏芽は後ずさる。
「この前逃した、あたしの獲物、今更返してくれるってのかい?綺堂の坊や」
恐怖が甦る。
『あんたの二本ある腕、一本おくれよ』
「優子さん、ひさしぶりでさあ」
辰之助が優子に微笑んだ。
「中々外に出て来てくんねえんで、あっしぁあ心配してやしたよ」
「人喰い、入るぞ」
綺堂は優子を押しのけて、玄関へ入った。
「なんだい!礼儀知らずだね」
優子は不快そうだったが、辰之助と夏芽を見て、
「こんな所まで来たってことは、あたしに大事な用があるんだろう?入りな。お茶くらい出してやるからさ」
と二人を招き入れた。まだ優子への恐怖が払拭しきれていない夏芽は、辰之助の肩に掴まるようにして後に続く。優子はそれを、不機嫌そうに見ていた。
優子の家の中は整理整頓されていた。路地の陰気な雰囲気や腐った臭いは全く感じられない。西洋式の螺旋階段、リビングの中央にある丸テーブルには白いレースのテーブルクロスが敷かれている。薔薇の香りが部屋中を包み込み、アロマエステにでも来たようだ。
優子に案内され、三人はリビングのテーブルに腰を掛けた。夏芽は通ってきた路地の様子と室内の雰囲気の違いに戸惑いながら、これから人喰い女と話すのだ、と緊張を隠しきれず、手の平を太腿の上にこすり付けてそわそわしていた。
もし優子が犯人だったら、夏芽も食べられてしまうのだろうか。しかし、綺堂は、『人喰い女は本当は人を食べない』と言っていた。いや、『食べないかもしれない』というようなニュアンスだったかもしれない。かもしれない、だとしたら、食べるかもしれないではないか。
脳内で夏芽の不安は増幅する。恐ろしい、悪夢だ。綺堂壱紀、彼だって、どこまで信用していいことやら。先程、人喰い女の対処法として以前夏芽に教えた事を、平気で『虚言』と言った。人間―――妖怪と人間の間の子―――でありながら、こちらの世界に住み、こちらの人間として生きている。夏芽と人喰い女、味方するなら、同類である人喰い女の方であろう。
優子はキッチンの方から、湯気の立つコーヒーカップをトレーに乗せて現れた。赤の着物姿で右側にたっぷりと結われた髪。人喰い女、という恐ろしい名前を連想させない、優雅で魅力的な姿だ。
ほっそりとした白い手は、爪が伸びていた。赤いマニキュアが光る。優子はコーヒーを一人一人に配り終えると、自分も椅子を引き、横向きに座った。
「西洋風の家に、着物姿で住むとは、この変人め。しかも今は夏だぞ、こんな熱いコーヒー誰が飲めるか。気の遣えない女だ」
「坊や、口が達者になったもんだねえ。でも、これから人にものを頼もうってのに、その態度は無いだろう」
優子はふう、と息をついた。
「何か、話があるんだろう?あたしに」
それから夏芽を見る。
「そのお嬢ちゃんのことで」
夏芽は冷や汗をなんとか拭うと、小さく、震えながら頷いた。
綺堂は夏芽を見て、頷いて見せた。自分で話せ、と無言のうちに促しているのだ。夏芽は震える手をぎゅっと握りしめて、声を絞り出した。
「実は今、向こうの、あの、人間世界で、人が襲われて食べられるという殺人事件が連続で起こっていまして……。さっき、友達が襲われたのを、親友が目撃してしまって、親友曰く、あなたがやったんじゃないかって……あなたが人を食べているのを見たって、そう、言うんです……」
汗が顎まで流れて、ポツリ、とテーブルの上へ滴り落ちた。
「人喰い女さん、あなたが、犯人なら……もうこんなこと、やめてほしいなって、その……思って……今日、綺堂さんにここまで連れて来てもらったんです」
静寂が訪れた。カタカタ、とコーヒーカップが震える音がする。人喰い女が怒っているのだ。自分の“犯行”を暴かれて、激怒しているのだ。夏芽は人喰い女を直視出来ないまま、思わず身構えた。
「くくくくくく……ははははははは!」
思わず顔を上げる。人喰い女はコーヒーカップを手に取って、笑っていた。
「お嬢ちゃん、なんてったっけ?名前」
「な、夏芽です。夜崎夏芽」
「夏芽ちゃん。あんたね、とんでもない勘違いだよ。あたしゃ、死肉は食べても、人は殺さないっていうテイストの妖怪でね。人喰いなんていう紛らわしい名でこの街じゃ呼ばれてるけど、元々は“死人喰らい”とか“死人荒らし”とか呼ばれてた類の妖怪なんだ。そんなあたしが、人を殺す能力なんざ、持ち合わせているわけないじゃないか。もし、持ち合わせていたとしても、この世界でそんなことをするのは“禁忌”。綺堂の坊やに教わらなかったかい?あたしたちゃ人間に作られた存在なんだ。それを越えるようなこと―――例えば殺すこと、そんなことはできやしない。それがあたしたち、この街の妖怪なんだよ」
「でも、親友が、あなたを見たって言っているんですよ?ふわって浮いて、確実に人間じゃなかったって」
「それはきっと、怖くてそう見えただけさ。夏芽ちゃんだって、夜道を歩いていて、誰かにつけられているような気がして振り向くと誰も居ない、なんてことがあるだろう?人間は時に勘違いをして、在りもしない、あたしたち妖怪を妄想するんだよ。それに、その子、あたしを見たことがあるのかい?」
優子はコーヒーを啜った。
「でも!」
夏芽はテーブルを叩いて立ち上がる。テーブルが揺れて、コーヒーが波打つ。
「あの日、あなた、私を襲おうとしたじゃない!食べようとしたじゃない!それが何よりの証拠よ。誰がなんと言おうと、あの日のあなたのことを、私はちゃんと覚えてるんだから!」
「夏芽さん」
綺堂が夏芽の腕を優しく掴んだ。
「君の記憶に人喰い女が残っているのは、君を襲ったのが人喰い女だけだったからだ。本当はもっと大勢の妖怪で君を襲って、君を恐怖に陥れてから人間世界に帰すのが、ここのしきたり。でも、言っただろう、あの日は“異常”だったんだ」
綺堂はあんなに文句を言っていたのに、忘れたかのようにコーヒーに手を伸ばすと口に運んだ。
「あの日は所謂“審査”の日でね。人間世界の方からお偉い方が、妖怪たちを見に来る日だったんだよ」
「お偉い方?」
「まあ、所謂“ホラー作家”たちだ。ホラー作家にもいろいろいてね。自分でホラーを創作してしまって―――またこの世界に新しい仲間を作り上げる―――作家も居れば、この世界の中から面白そうな妖怪や怪奇を見つけてそれを作品にする作家もいる。後者に見いだされれば、その妖怪や怪奇は“いらなくなった”存在から脱し、元の、“向こう”の世界に帰ることが出来るんだよ。それは、妖怪たちには名誉なことでね。それ故に、年に六十五日しか開かない学校が開いて、妖怪たちはこぞって学校に赴いたのさ」
そうか、だからあの日、人気がなかったのか。綺堂は「妖怪たちは夜にならないと活動しない」と言っていたが、妖怪たちが学校に行っている時点で、いや、この世界の時計が狂っている―――時間を持たない―――時点で、その発言は矛盾していたのだ。
「嘘を吐いてすまなかったね」
綺堂は言った。
「僕は口から生まれてきたとよく言われるからね。あの日言ったことは殆ど嘘だから忘れてくれたまえ」
夏芽は肩をすくめた。本当にこの男は、信用に値する人間なのだろうか。少し不安になった。
「普段は、人間がひとり迷い込むだけで、妖怪たちは大喜びで脅かしに回って、二度とその人間がこの世界に迷い込まないように“優しく”元の世界へ帰してあげるんだけど、その日はそんな時間も余裕もなくてね。だから人喰い女のしたことが、本来であれば寧ろ正しいことだったんだ。人喰い女はね、いつも通り、夏芽さんを脅かしただけだったんだよ。でも、その日は違った。“いつも”じゃなかった。なのにこの馬鹿女は」
優子は顔を背けた。
「仕方ないだろう。あたしゃ引きこもりなんだ。そんな大事な日だったなんて、知らなかったんだよ」
「その日はね、その“お偉い方”のため“だけ“の“接待”の日だったんだ。だから他の一般人が紛れ込んでいるなんて知れたら、お偉い方、怒って帰ってしまうかもしれない。折角人間世界に戻れる妖怪が出るかもしれないというのに、台無しになってしまう。だから、いつも通りにゆっくり恐怖を夏芽さんに植え付けて……っていう作業をしているこいつから夏芽さんを奪って、迅速に元の世界へ導いたんだよ」
「じゃあ、あの日手を離さなかったのは、妖怪から私を守る為じゃなくて?」
「うん。“お偉い方”に君の存在を悟られないようにするためさ。君には悪いことをしたけれど、妖怪たちの未来がかかっていたからね。僕は奴らの思いを、誰よりもわかっている。救いのない人生ほど、しかも妖怪は死なないから終わりすら見えない、そんな人生ほど詰まらなく、苦しいものはない。唯一の光なんだ、奴らにとってのね」
「じゃあ、あの日、綺堂さんが言ったことは、全部嘘?」
ははは、と綺堂が笑った。
「殆ど嘘。人喰い女は対価なんか求めないし、この世界に時間なんてないから、妖怪は夜にならないと動き出さないってのも、嘘。妖怪がいなかったのは、みんな学校に行っていたから。人を驚かさない妖怪は消えてしまうというのも、嘘。そんなことを言ったら、この世界にいる殆どの妖怪たちが、消えてしまうことになるからね。悪かったと思っているよ。でも本当の事もある。人喰い女に『人喰い女』って言うと逃げていくって言っただろう?嘘と言ったら嘘だ、だってさっきから僕が人喰い人喰いと呼び続けても、こいつは逃げない。でも本当と言ったら本当。何故ならこいつは」
優子はもう黙っていられない、というようにテーブルを叩いた。
「あたしゃね、“人喰い女”って呼ばれるのが大嫌いなんだ!」
ははは、と綺堂が笑う。
「ほら、本当だろう?」
「坊や、コーヒー顔にぶちまけられたいかい」
夏芽は気が抜けてしまって、再び椅子にもたれ掛かった。綺堂壱紀は自分を守るために人喰い女から命がけで救ってくれた勇者だと思っていた。それが少し嬉しかった自分がいる。しかし、実際は夏芽ではなく、妖怪を守るための行動だった。しかも、あの日綺堂が夏芽に言ったことの殆どが嘘だった。夏芽はなんだか失恋をしたときの様な切なさで、胸が締め付けられた。
「そうですよね……見ず知らずの人間を助ける人なんて、居るわけないもの」
呟くように言う。綺堂はその様子を見ると、扇子を懐から取り出して、口元を隠した。
「んーまあ、でも夏芽さんが今日、僕の所に尋ねて来てくれた時はうれしかったよ」
夏芽は綺堂を見る。綺堂は目を左上にそらしながら、
「運命、を感じずにはいられなかったね」
「おや、珍しくご執心じゃあないかい」
優子はにやり、と笑った。それから夏芽を見ると、
「綺堂の坊やを“オトす”なんて、夏芽ちゃん、隅に置けないねえ」
「え?」
「おい、“人喰い”。そんなことより、何か情報はないのか。人間世界で、“人を喰らう”なんて、お前みたいな真似をする奴が出て来ている。余りに異常だ、奇異だ。お前が関係しているというのなら、素直に白状しろ」
綺堂は話を遮るように言った。
「人間が人間を喰らうなんて、小説でもあるまいし。しかも、夏芽さんの親友とやらが目撃しているんだ。もしかしたら、お前を模した何者かによる犯行かもしれん」
「あたしを模した?」
優子は吹き出す。
「有り得ないよ。あたしを模したとしても、だったら死人を喰らう筈だ。それに、もう何百年も、人肉は食べていない」
優子はリビングにある、螺旋階段を見上げる。天井にはシャンデリア、二階はテラスのように、このリビングを見下ろせる作りになっている。
思い出すような口調で、優子は語り始めた。
「あたしゃ、昔はね、人を怖がらせるために、戦場の跡地や墓地―――昔は土葬だったからね―――に現れて、死人をあさっていた。腐敗した臭い、脅える人間の悲鳴。快感だったよ。これがあたしが生み出された理由。人を怖がらせるためにあたしは生まれてきたんだ、そう思ったね。だから、毎日のように死人をあさった。でもある日、そんなあたしに、怖がることもなく近づいてきた人がいたんだ。その人はね、あたしの汚れた唇を指で拭って、そして抱きしめてくれた。あたしの正体はね、飢饉で飢え、苦しみの中餓鬼と化した、人間そのものだったんだよ。その人はあたしを抱きしめたまま、怖がらなくていい、と何度も言った後、人を喰らう事の醜さと悲しさを、あたしに説いたんだ。当時、人が人を喰らうなんて、あんたたちじゃ考えられないくらい、当たり前の事だったんだよ。でもその人は、それは間違っていると、あたしに教えてくれた。あたしはね、初めて“温もり”ってやつを感じた。この、生気のない妖怪として生まれて、初めて。その日から、あたしは死人を喰らうのをやめたのさ。人の前から姿を消したあたしは、だんだん人々の記憶から消えて行った。それで今、こうして、ここに居るんだよ」
「人喰い女という名を持ちながら、人を喰らわない妖怪。それがこいつ、波奈野目優子だ」
綺堂は腕を組んだ。
「優子さん……」
夏芽は感極まって、
「今の優子さんは、餓鬼なんかじゃない、醜くない、綺麗です」
「ありゃ、そりゃうれしいこと言ってくれるね」
優子は笑った。
「でも、今の話で分かったろう?あたしゃ、あんたたちの力にはなれないよ」
「夏芽さん、人喰いの言うとおりだ」
「だからその“人喰い”ってのおよしよ。しかもあたしゃ、あんたより何百年も年上なんだよ?“さん”くらい……」
「この事件の犯人は」
綺堂は優子を遮って言った。
「頭のいかれた人間さ」
―――人間……。
夏芽は頭痛を感じた。人が人を食い殺している。想像しただけで気持ちが悪い。吐き気がする。そんなことを平気でする人間がいるとしたら、妖怪なんかよりも性質が悪い。悪魔だ。
「夏芽ちゃん」
優子が夏芽の震える手を取った。
「あんたの親友、その子、『人喰い女を見た』って言ったんだね?」
「……はい」
「じゃあ、犯人は女かい」
それから顎に手を置くと、
「あたしゃ、その子が心配だよ、夏芽ちゃん」
と言った。
「見たってことは、近くにいたってことだ。近くにいたってことは、犯人の方も、その子の存在に気付いているかもしれない」
夏芽ははっとした。
「そうだ!たかね、確かまだ帰宅途中だって……」
「そりゃ、危ないんじゃないのかい」
優子は険しい顔で言った。
「人間ってのは、妖怪なんかよりも恐ろしい生き物だよ。何をしでかすかわからない。一人食い殺して満足しなかった犯人が、あんたの親友を狙っているかもしれない……」
「そんな!どうしよう、こうしている間にも、たかねが……」
立ち上がろうとする夏芽の手をもう一度握った。
「安心おしよ。この世界の時間は止まっている。帰る時も夏芽ちゃんがこの世界に来た時間と全く同じはずだよ」
「そうですか……」
そういえば、両親が夏芽を追って来ていた。心配しているだろうか、と心の片隅で思っていたが、時間が止まっているのならば安心だ。夏芽は動悸を落ち着けようと、コーヒーを一気に飲み干した。コーヒーは冷めてぬるくなっていた。
「あの、優子さん、疑ってすみませんでした」
夏芽は頭を下げる。
「いいよ。誤解もとけてよかった」
「“優子さん”だなんて、夏芽さんは律儀にも程がある。僕は“それ”を、名前で、しかも“さん”までつけて呼んだことは一度もないよ」
「“それ”とはなんだい。全く、頭にくる小僧だよ、この子は」
そんなことを言いながら、優子は「いつもの事だ」というように笑った。夏芽は、自分が同じ立場に置かれたら、きっと激怒するだろう、と、優子の寛大さに感服した。
「そろそろ行こうか、夏芽さん」
綺堂はコーヒーを飲み終えると、立ち上がった。夏芽と辰之助も続けて立ち上がる。そう言えば、優子の家に入ってから辰之助は一度も口を開かなかった。夏芽は広いリビングを歩きながら、辰之助に、
「辰之助くん、元気ないね」
と声をかける。辰之助は肩をすくめて、
「あっしぁ、コーヒーが苦手なんでさあ。でも優子さんとこにくると、いつもコーヒーが出てくるんでい。優子さんに嫌われたくなくて中々言い出せないんですが、今日も言えなかったなあ」
そんなことか!夏芽は拍子抜けしてしまった。妖怪とは全くもって繊細なものだ。
優子は玄関まで見送りに出ると、
「みんな、また遊びにおいでよ。あたしゃ人見知りでね、中々外を歩けない。だからこうやって、たまにでいいから遊びに来てくれるとうれしいよ。特に、夏芽ちゃん」
「もちろん!また来ます。コーヒー、ありがとうございました。でも……」
夏芽は辰之助の方をちらりと見てから、
「たまにはお紅茶とか、飲んでみたいな。優子さん、紅茶の趣味もよさそうだから」
「わかったよ。今度、とっておきのハーブティを用意して待っているからね」
辰之助は夏芽を見上げる。夏芽はそんな辰之助にウインクした。
優子と別れ、再び不気味な通路を通る。この奥に、あんな豪邸があるなんて、誰も想像できないだろう。綺堂は腕を組みながら、眉を寄せて難しそうな顔をしていた。
「綺堂さん、どうかしたんですか?」
夏芽が覗き込む。生臭い匂いも、ただの演出だと分かってしまえば、気持ち悪くもなんともない。綺堂は地面に転がるマネキンの生首を不愉快そうに避けながら、
「あの女、何か隠している」
と言った。
「え?そんな風には見えませんでしたけど」
「いつもの優子さんでしたぜい」
「いつもの奴が、自分の過去なんか語るか」
「それは、事情が事情だったから」
「いつもの奴が、あんなにぺらぺら喋るか」
「確かに、いつもの優子さんは無口でやすが」
綺堂は扇子を懐から取り出して開いた。
「兎にも角にも、奴が僕たちに言えない何かを隠していることは確かだ」
「えっ、じゃあ、やっぱり優子さんが犯人なんですか?」
「いや、それは、無い」
綺堂は扇子を閉じた。
「確実にだ」
「じゃあ、何を隠しているんです?」
「それは、現段階ではわからない。だが、奴は、“それ”を自分の口から言えないがために、僕たちにあんな長話を聞かせたんだよ」
「長話って、あの昔話の事ですか?」
「ああ、あれにはあっしも驚きやしたぜ。優子さん、見た目若いから、そんなに歳くってるなんて思いやせんでした」
「ああ。奴は、僕たちにあの昔話を聞かせることで、“自分は歴史がある妖怪なんだ”ということと“人間に救われた過去”があることを暗に示した。僕はどうもそれが引っ掛かってね。態とその話を聞かせたようにしか聞こえなかった。奴は、自分ではどうにもできない“何か”に巻き込まれている可能性がある。それが人間世界で起きている事件と関わりがあるかどうかはまだ何とも言えないが……」
綺堂は顔を上げた。
「家に帰って調べてみる」
綺堂は歩く速度を上げた。
「調べるって、どうやって調べるんです?」
はぐれないように小走りで、夏芽は言った。すると辰之助が、
「旦那の家は図書館みたいに本棚でいっぱいなんでさあ。本も、人間に必要とされなくなったり、燃やされたりしたら、こっちの世界に来る。旦那はそれを集めてるんでさあ」
「ぎょろ眼、僕を古本オタクみたいに言うのはやめてくれないか」
「ええ、違うんですかい」
「僕は先人の知識を得るために、本を読んでいるんだ。本ほど有益な知識を得られるものはない。それに、本を読んでいると心が穏やかになり、脳も活性化される。健康的にもいい」
そう言っている割には、綺堂の顔は白く、不健康そうだった。
「綺堂さんって、勉強家なんですね」
「勉強家というより、本を読むのは、僕の宿命みたいなもんでね。一応、古本屋もしている。夏芽さんも、何か読みたい本があったら家に来ると良い。夏芽さんなら特別に、好きなものを譲ってあげてもいいよ」
夏芽は生憎、本を読むのは苦手だった。活字の羅列を見ていると、頭がくらくらしてきて、どうしても内容が頭に入ってこない。
「ありがとうございます」
一応礼を言ったが、夏芽は、漫画の古本があればいいのに、と思った。
あっと言って、綺堂は立ち止まった。
「そんなことより、夏芽さん、君はそろそろ家に帰った方が良い」
「え、でもこの世界の時間は止まっているんですよね?」
「時間は止まっているが日は変わる。日が変われば、向こうも同時に日が変わる」
そうか、三百日お祭りだとか、残り六十五日が休みだとか、暦が人間世界と同じなのにはそう言う理由があったのだ。
「日が変わる前に、早く」
綺堂は夏芽の手を取った。あの日のように早足で、夏芽の手を引いて歩く。
「旦那あ、あっしは」
「ぎょろ眼は家で待っていろ」
振り返らずに綺堂は言った。
賑わう祭りの人混みの中、はぐれないように繋がれた手。夏芽は、同じような体験をしたことがある気がした。
泣いている夏芽に手を差し伸べる少年。顔が思い出せない。少年は夏芽の手を取って……。
いつの間にか、トンネルの前に来ていた。
「多分、まだ日は変わっていない筈だ」
綺堂は言った。
「夏芽さん、向こうの世界には、恐ろしい殺人鬼がいる。僕が家まで送ろう」
「あ、いえ、大丈夫です」
夏芽は言った。
「実は、慌てて家を飛び出してきちゃったんで、両親が追いかけて来てて……。多分、トンネル出たら、会えると思うので」
「そうか。少し残念だが、まだご両親にあいさつするのは早すぎる気がするから、ここでお別れにしよう。夏芽さんくれぐれも、気をつけるんだよ。この事件、ただ事では無い、そんな気がする。だが、僕が絡んだからにはもう大丈夫だ。数日のうちに、この事件を解決に導く。約束するよ」
「ありがとうございます。私、明日、また来てもいいですか?」
「勿論だ。さあ、日が変わる。急いでトンネルを渡って。渡る時、決して振り返ってはいけないよ、いいね?」
「はい、綺堂さん」
夏芽は綺堂の手から離れると、トンネルを進んだ。後ろで、賑やかな祭りの音が聞こえる。それもだんだん遠のいていく。
綺堂は、まるで探偵のようだ、と夏芽は思った。綺堂に任せれば、この事件も解決されるかもしれない。夏芽は今日の綺堂と、優子と、辰之助とのやり取りを思い浮かべながら、根拠のない期待を胸に膨らませた。
トンネルを抜ける。夏芽ははっとして、またあの時のように振り返った。
「ご両親へのあいさつは“まだ”早いって、どういうこと!」
「なっちゃん!」
聞きなれた声に振り向くと、夏芽の身体は突然温もりに包まれた。
「突然飛び出して……心配するじゃないの!」
春代は夏芽を抱きしめながら言った。春代の後ろから冬吉が顔をのぞかせる。
「物騒な事件が起きている最中なんだ。親の気持ちにもなってみなさい」
夏芽は肩をすくめた。
「ふたりとも、心配かけてごめんなさい」
「分かればいいのよ。それより、どうして突然飛び出したりしたの?」
夏芽は言われてはっとした。たかねが危ない。
夏芽はポケットから携帯電話を取り出すと、たかねにかけた。呼び出し音の後に、たかねの声がする。
『もしもし、夏芽?』
「たかね?たかね今何処?大丈夫?」
『うん、今、親に迎えに来てもらって、これから警察の事情聴取うけるところ。一応、第一発見者だから』
「よかった……。無事なのね」
夏芽は安堵した。
『人喰い女のことは……言わないつもり。信じてもらえないだろうから』
「そっか……。でもね、犯人、人喰い女じゃなかったよ」
『どういうこと?』
「兎に角、たかねは暫く家で安静にしてて。もしかしたら、犯人に顔、見られてるかもしれないでしょ」
『そ……そうだよね。夏芽、ありがとう』
「家から出ちゃだめだよ。それじゃ、切るよ」
『うん。夏芽、それとね、ひとつだけ、お願いがあるの』
「何?」
少し間を置いて、たかねは言った。
『旭町には、近づかないで。特に、旭中央公園……』
「どうして?」
『あと、休校の間は、学校にも近寄らないで』
「え、それって、学校関係者に犯人がいるかもしれないってこと?たかね、本当は、顔見たんじゃないの?」
『見てない!見てない。でも、ほら、なんとなく、嫌な予感が、するから……』
たかねは最後、言葉を濁した。
『兎に角、約束して。絶対にだよ』
「……わかった」
親友の発言に違和感を感じながら、夏芽は電話を切った。
「たかねちゃん?どうしたの?」
春代が言う。
「三人目の犠牲者が出てね……たかねが第一発見者なんだ」
「なんてこと!」
春代が悲鳴を上げた。
「あなたの知り合いじゃないでしょうね?」
「それが……今回は仲のいい友達でさ」
ああ、と春代が項垂れた。冬吉がそれを支える。
「ふたりとも、こんな所でつっ立っている場合じゃあない。もしかしたら、近くに犯人がいるかもしれないんだ。早く、家に帰ろう。夏芽も、辛いだろう」
夏芽は肩を落とした。麻奈ちゃん……。一瞬涙が目に浮かぶ。しかし、
「でも、まあ、襲ってきたらお父さんが守ってやるから安心しろ!」
冬吉は拳を振り上げて威勢よく言った。
「お父さん、素敵!」
春代は黄色い声を上げる。夫婦仲がいいのは結構だが、仲が良すぎるのもいかがなものか。
いちゃつく両親を見て、なんだか悲しみも何処かへ飛んで行ってしまった。夏芽は二人を置いて、先に歩き出した。
「待って、なっちゃん!一人じゃ危ないわ」
「夏芽、待ちなさい。お父さんが守ってあげるから」
娘の友達が死んで、親友が第一発見者となって、夏芽の心は混乱しているというのに、この親たちは。
はあ。
夏芽の溜息が暗い夜の街に響いた。
三人が去った後、優子は息をついてリビングに戻った。綺堂壱紀、彼は勘が鋭い。きっと優子が出した“サイン”に気付いたに違いない。
優子は赤い着物の裾を持ち上げながら螺旋階段を上がると、寝室に向かった。白いベッドは、まるでついさっきベッドメイキングされたように、皺ひとつなく整っている。優子は寝室に入ると、ベッドの隣の引き出しから、そっと何かを取り出した。手紙であった。
―――信じられないこともあるものだね。
優子は手紙に目を落としながら、“あの日”の出来事を思い出していた。
―――もう一度、出会うことが出来るなんて。
しかし、それが向こうの世界の歯車をおかしくしてしまったのだとしたら、優子の大切なものを、壊してしまったのだとしたら……。
―――神様。
優子は手紙を抱いて祈った。
―――どうか、お救いください。
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